2011年04月30日

岡山藩の札潰れ

「渋染一揆」の歴史的背景に,岡山藩の財政危機がある。

嘉永6(1853)年,ペリー来航の影響により諸物価が高騰した。岡山藩の藩財政はそれ以前に逼迫していたが,この影響によりさらに窮乏化していく。
さらに,幕府により沿岸防衛を命じられ,安房・上総の防備に家老以下多くの藩兵を派遣するとともに,藩沿岸の防御施設として下津井や小串・外波崎などに砲台を築いた。これらによる膨大な出費を要した岡山藩財政は破綻寸前であった。

嘉永6年夏頃から,諸物価の高騰により金相場が急上昇した。
5月には金1両に対し銀札80匁だったものが,10月には350匁,11月には580匁になったため,藩札相場は大下落を引き起こし相場市場は機能停止状態となった。そのため,同年12月には金子引き替えを停止せざるを得なくなった。

翌年,藩は金子所有者からの回収を図るため,銀札改正を断行した。
すなわち,銀札の十分の一の切り下げ(銀札拾匁札を一匁札に通用させる)を行ったのである。これを「安政の札潰れ」という。

このような藩の横暴的な措置により,藩内の経済は大混乱を引き起こし,領民の生活はますます苦しくなり,領民の怒りを招いた。

ところが,その数時間後,江戸大地震の余震が岡山を襲った。領民の不満と怒りはこの地震により一時的ではあるが治まるしかなかった。

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鶴島:キリシタン殉教の地

慶応3(1867)年,長崎奉行の報告を受けた幕府が密偵に命じて浦上のカトリック信徒組織を調査し,7月14日の深夜,秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに,高木仙右衛門ら信徒ら68人を一斉に捕縛した。
明治政府は,明治元(1868)年から翌年にかけて信仰を公にして棄教を拒否した信徒を,富山以西の21か所に流罪とした。このキリシタン弾圧を「浦上四番崩れ」という。

明治2(1869)年,捕らえられたキリシタンのうち117人が備前岡山藩に預けられ,翌年9月に改宗と土地の開墾を目的に,和気郡日生村(現備前市日生)の鶴島に移送された。
彼らは明治6年のキリスト教解禁令により信教の自由が認められ,同年4月に長崎県浦上に送還されるまで,鶴島で過ごすことになった。

鶴島は岡山城下から50q,日生の港から8qに位置する周囲約2qの小さな島である。

岡山藩は島の西側に信徒たちの流人長屋と監視役人の番所を建てた。
島の中央に「改宗の祠」をつくり,週に2回ほど信徒たちを集めて神官による説教が行われ,神道への改宗を迫った。信仰を捨てなかった者もいるが,説教や拷問により約半数が改宗した。

鶴島では,開墾により大豆や麦,サツマイモ,綿花や胡麻などが栽培されたが,収穫物が信徒たちの口に入ることなく,県を通じて国へと納入された。

現在の鶴島には,亡くなった信徒18人の墓地や,長屋跡,古井戸が残されている。

posted by 藤田孝志 at 06:34| Comment(0) | TrackBack(0) | キリシタン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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