2011年12月29日

明六一揆論(2):自供書

『備前・備中・美作百姓一揆史料』(第5巻)所収「北条県史」は,明六一揆についての北条県の公式記録であり,騒擾顛末と処刑の部からなっている。
騒擾顛末は「騒擾顛末御届」「騒擾ニ付殺傷破毀焼亡取調」「元魁筆保卯太郎之口供」と事後処理記録からなっている。処刑の部は臨時裁判所の取調口供と申渡書,及び「処刑之義ニ付御届書」を収録している。

実際に殺害に関わった者たちの思いを「自供書」より推察することで農民の意識を分析できる。


この各人の「自供書」に共通するのは,なぜ部落を襲ったのか,襲うに至った心情的理由を述べた箇所である。
取調によって自白したものであり,その「口供」であることから,取調官による誘導尋問や供述の要約があったことは十分に考えられるが,部落に対する憎悪や憤慨など心情面については,程度の差こそあっても,農民の意識は共通であったと思われる。

…穢多号ヲ御廃止之後,従前ノ身分ヲ忘レ,兼テ不礼之仕向不少。
                                (宇治貞蔵)

…右称号御廃止以後,自ラ不遜ニ有之,兼テ悪マシク存ジ,…
                               (芦谷島五郎)

各人の「自供書」に見られる共通した心情的理由である。より詳しく述べているのが,津川原部落襲撃の中心人物であった小林久米蔵である。

…穢多号ヲ御廃止ノ後,近村ノ者ヘ対シ不敬ノ仕向不少候付,元身分ノ通,下駄傘等ハ村内ヨリ外ヘハ不相用,且,近村ノ平民ヘ用向有之節ハ,門外ヨリ草履ヲ脱ギ,途中ニテ出会候時ハ頭ヲ地ニ下ゲ礼譲正敷可致,…

この小林の供述によれば,「従前ノ身分」=「穢多」が守るべきルールは,下駄や傘を部落の外で使用しない,一般村の家の門内に入るときは履いている草履を脱いで入り,道で百姓と出会ったら,頭を地につけて土下座して礼儀を尽くすことであった。

「自供書」に「穢多号ヲ御廃止之後」「右称号御廃止以後」とあるように,「解放令」が大きな起点,ターニングポイントとなったことはまちがいない。

「解放令」を喜びをもって受け入れた部落と,納得(承知)できない一般町村との決定的な認識の差が部落襲撃に至った根本的な要因である。


美作国勝北郡妙原村農  鈴木七郎治

拷問三度

自分儀,兇徒ニ脅誘セラレ,無拠当五月二十八日村方一同随行シ,所々立廻リ,其日ハ唯随行迄ニテ帰宅致,翌二十九日,津川原村ヘ前日ヨリ押寄候党民挙動盛ナル由承リ,自分ニモ旧穢多之心得方兼テ悪マシク存ジ居ル折柄ニ付,同所ヘ赴キ,山手ニ潜伏致シ居ル旧穢多共ヲ党類共ヨリ縛出シ,加茂川筋河原ニ於テ殺害可致様子ニテ多勢屯集之処,宰務喜一郎二男喜平儀,大勢ノ中ニ畏縮シ居,自分ニ向ヒ可助呉様歎出ル処,一体,旧穢多共兼々不遜ニ有之而己ナラズ,最初諸村ヨリ押寄候節,村内ニ柵ヲ拵ヘ,抗搆スベキ勢ヲナシ候由承リ,甚不快之儀ト存ジ居,喜平一人ヲ別段悪ムニテハ無之候得共,右醜族ノ者ニ付,忽然可殺トノ念慮差起リ,右歎ヲモ取合ヒ不申。

其内,宰務喜一郎等ハ五六間上手ニ於テ巳ニ害セラレ候様子ニテ,一層乱雑中,傍ニ之レ在ル喜平母ミエヨリモ,尚更衆人ニ向ヒ,喜平ハ幼年者ニ付,何卒,一命ハ相助呉候様,只管相歎候得共,自分ニハ既ニ殺念相兆ス上,酒気ニ乗ジ,多勢ニ向ヒ,殺害スベシト喚ハリ候処,素ヨリ可突殺勢ニテ相構ヘ居ル村名前不知者共,各右喜平へ竹槍ヲ以テ手ヲ下シ,終ニ絶命ニ及バセ申候。右之外,同所ニ於テ追々ニ殺害サルヽ者数人有之候得共,自分ニハ関係不致,右一挙治リ候後致帰村候。

然ル処,前書ミエ儀,自分ヲ殺スベク指揮致シ候ヨリ,遂ニハ喜平ニハ殺サレ候儀ト,遺恨ヲ含居ル由ニ伝承致シ候間,右之段,其筋ヘ訴ラレ候ハヾ,御糺明ヲ受候ハ必定ト存ジ,同六月一日,ミエ方ヘ立越シ,相慰ニハ,喜平儀,自分ヨリ指図致シ殺害ニ逢候次第ニテハ會以テ無之,助遣度トハ存ズレドモ,其場ノ勢,迚モ力ニ及ズ,如何トモ党民共免スベキ場合ニハ無之ニ付,非常之不仕合ト思諦ラムベク,必ズ自分ヲ怨ミ申間敷,且,斯ク申儀ヲ召仕之者迄モ口外不致様申付可置ト,我非ヲ掩ン為,申聞置候事。

右之通相違不申上候。以上

 明治六年十月                     鈴木七郎治

鈴木七郎治は,小林久米蔵と同じく津川原村の本村にあたる妙原村の者である。二人は直接には殺害を行ってはいないが,津川原の村民を選別する役割を担い,殺害を指揮(扇動)した罪で処刑(斬罪)されている。

自供書によれば,当時16歳の宰務喜一郎の二男喜平が自分に助命を嘆願してきた。特別に喜平だけが憎いわけではないが,かねてから彼らのことを「不遜」と思っていたこと,最初に津川原に押し寄せたときも柵を作って抵抗する姿勢を見せるなど甚だしく不快な思いをさせられたことから,喜平も同じ「醜族の者」なので,すぐさま「殺意」が起こり,願いに応える気持ちにならなかったと述べている。

夫と長男を惨く殺されるのを直前に見た母親が必死に二男の助命を哀願しているのを見ながらも,冷酷に「殺せ」と命じた彼の心情はいかなるものであっただろうか。
この自供書からは罪の意識は感じられない。怒りや憎しみのみが自己正当化として語られている。

農民たちは,なぜ部落を殺戮したのか。
選別した上で残酷に殺害した動機は何だったのだろうか。殺戮にまで高ぶった憎悪や憤怒の原因は如何なるものであったのか。

鈴木の自供書にある【喜平一人ヲ別段悪ムニテハ無之候得共,右醜族ノ者ニ付,忽然可殺トノ念慮差起リ,右歎ヲモ取合ヒ不申】の一文に,その理由がある。

彼は,母親の哀願を退けた心情として,【醜族の者】であるから喜平一人を許すわけにはいかなかったと述べている。つまり,個人に対する「憎悪」「憤怒」ではなく,津川原村など部落民にすべてに対する「憎悪」「憤怒」である。


【自分ニモ旧穢多之心得方兼テ悪マシク存ジ居ル】【旧穢多共兼々不遜ニ有之而己ナラズ】と述べる心情は,他の者の自供書と同じく,解放令発布後の部落民の態度に対する激しい憤りが吐露されている。

自供書に述べられている【…元身分ヲ忘レ】(小林久米蔵)【…従前ノ身分ヲ忘レ】(宇治貞蔵・大谷類治郎・小島伴治郎)が意味するものは何か。

posted by 藤田孝志 at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 明六一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

明六一揆論(1):慰霊碑に刻まれた無念

「美作騒擾」とも「美作血税一揆」とも呼ばれる岡山県北部で起こった「解放令反対一揆」を考察する際に欠かせない重要史料がこの慰霊碑に刻まれた碑文である。


碑を建てた宰務正視氏の家は,津川原部落で代々の長を務めてきた。この部落が,明治六年に襲われたとき,彼は満六歳。隣村の知人宅で長持ちの中に隠されていて,生き残ることができた。

この一揆により,父と長男・二男の三人が,母親みえの眼前で惨殺されている。部落一の地主であった立派な屋敷も焼き払われている。
津川原部落では彼らを含めて18名が殺されている。

正視氏がこの慰霊碑を建立したのは,1922(大正11)年,水平社が設立されて3か月後のことである。その年の5月29日は父と兄たちの五十回忌であった。


慰霊碑に刻まれた旧字体で書かれた漢詩文は,長年の風雨や厳しい冬の風雪によって削られて文字の判読がしにくい。(私も判読不能の文字が多く,諦めるしかなかった)

上杉氏の『部落を襲った一揆』にも転載されている好並隆司さんによる現代語訳によって内容を知ることができる。

明治六年,私の屋敷は漠然とした焼野原になり,父と母は凶徒の刃で歿くなった。
その無念さをよく言葉でいい表せず,天に叫び,地に泣き伏して哀泣の声をあげ,(悲しみつづけて),ついに血を吐くに至った。
しかし,当時私たちは年が若く,為すすべもなく,ただ役人の手を空しく待つばかりであった。
ようやく凶徒を罰したとはいえ,亡くなった者の心に十分に報いることができたとは思わない。
今ここに大正十一年となり,五十回忌をむかえる。
墓に来たって過ぎ去った昔の事件を思うと,(死んでいった者への)悲しみをどこに措いてよいかわからない。
流れる涙を墨汁にかえて,七律一首を詠み,霊前に捧げよう。

昔のことははるかに遠ざかり,屋敷の跡も荒れ果てた
ふりかえれば十七年が経っている
恨みは旧い出来事とともに蘇って堪えることがない
愁いは浮雲とともにいよいよ長く留まっている
線香の煙は数本の糸筋となって立ち昇り,寂しさに添える
一対の斑鳩の哀しむ声が,はてしない蒼空をつらぬく
ため息をついて涙をのみ,私はただ空しくたたずむばかり
寒さの中で墓碑銘を読み終えると,夕陽はもう沈もうとしている

漢詩文で書かれた碑文は,判読しにくい文字も多く,「原文」もないだろうと諦めていた。
地元にある作陽高校の妹尾先生が碑文を書き写されたもののコピーをいただいて大切に保管しているのが,これが唯一の「原文」と思っていた。

以前より,正視氏に関しては「漢文」を学び漢詩集も出版していると聞いていたが,現物を手に取ることはできていない。また,彼について書かれた人物辞典のようなものがあるとも聞いていたが,探しても見つからなかった。

『部落を襲った一揆』に,正視氏を紹介している本の書名が書かれていたので,古書店にて,その本が収録されている選集を入手することができた。

その本は,寺田蘇人『部落の人豪』である。私は,この本が収録されている『部落問題文芸・作品選集』(46巻)を手に入れた。

早々に本を開き,正視氏に関する部分を読み始めたところで,この碑文の「原文」であろう漢詩文を目にすることができた。

ここに転載しておく。

  謁父母墓

明治六年我邸宅漠然歸鳥有,而父母則歿凶徒之刃,遺憾非口頭之所得而盡,龥天哭地歔欷哀慟,繼以吐血,然余等時齢尚淺,不知其所為空待官衙之手,雖慚誅之,未可謂十分報之,回顧茲明治二十二年則其拾七回忌也,上墓而憶往事,愁膓所措,取數行之涙而代墨,賦七律一首,還而呈靈牌,藤澤南岳曰悲惨在眼不堪多

往事茫々跡亦荒,回顧十有七星霜,恨憑舊蘇生無己,愁共浮雲凝愈長,數縷香烟添寂寞,一雙哀鷓哭蒼茫,喟然呑涙人空立,讀盡寒碑送夕陽

藤澤南岳曰情語動人
宮崎柳渓曰引文而後此詩則哀痛湊涙涔々然下


この本により判明したことがある。

まず,『部落の人豪』が刊行されたのは,大正9年であり,慰霊碑の建立より以前のことである。
同書によると,碑文の「原文」は,正視が明治28年に出版した彼の漢詩集『溶月堂詩鈔』に所収されており,それを引用転載したものである。

漢詩集に引用転載された「原文」と,妹尾先生の書写した「碑文」を対比させると,まったく同一の文であることがわかった。
違う箇所の一つは,七律一首の「回顧十有七有星霜」(詩集)と「回顧五十有星霜」(碑文)というように,建立に際して年月を合わせているところである。もう一つは,碑文にはない「藤澤南岳曰悲惨在眼不堪多」である。

このことから,正視が無念の思いを漢詩に表したのは,明治22年の十七回忌のときであり,その詩を所収した漢詩集を刊行したのが,明治28年である。
そして,この漢詩を慰霊碑に刻み建立したのが,大正11年である。

明治6(1873)年の騒擾のとき,正視は満六歳であった。慶応3(1867年)2月に京都に生まれると,『部落の人豪』には書かれている。

彼がこの漢詩を書き表したのは,十七回忌の時だとすれば,23歳である。慰霊碑建立のときは,56歳であるから,33年間忘れることなく,無念の思いは彼の胸中にあったのだろう。いや,1936年に71歳で亡くなるまで,終生かわることはなかっただろう。


「藤澤南岳曰悲惨在眼不堪多」の一文であるが,藤澤南岳は正視と深く親交のあった大阪の儒学者である。

藤沢南岳(ふじさわ なんがく)
天保13年9月9日(1842年10月12日) - 1920年2月2日)

讃岐生まれ。藤沢東畡の長男。名は恒,字は君成,通称は恒太郎。号は醒狂,香翁など。大坂の泊園書院を父から継承し,数千人の門人を擁した。高松藩に仕え,左幕派だった藩論を一夜で朝廷派へと変換した。戊辰戦争後,藩の保全に尽力,藩学講道館にて督学,1887年大成教会を興した。
長男は衆議院議員となった藤沢元造(黄鵠),次男は関西大学初の名誉教授となった藤沢章二郎(黄坡)。小説家の藤沢桓夫は章二郎の長男。
「通天閣」や「寒霞渓」の命名者である。

Wikipedia より

「藤澤南岳曰悲惨在眼不堪多」を現代語に訳すならば,「藤澤南岳が言うには,悲惨(な情景)が眼に浮かび,(これ以上)幾度も読むことには堪えられない」となるだろうか。

七律一首の後にも,「藤澤南岳曰情語動人,宮崎柳渓曰引文而後此詩則哀痛湊涙涔々然下」の文が続いている。

つまり,この無念の「漢詩」を「藤澤南岳」や「宮崎柳渓」に見てもらっているということだろう。そして,信頼する友人からの言葉を書き加えたのだろう。

自らの心情を同憂してくれた友への感謝とともに決して忘れられぬ悲惨な事実を,自著を読んでくれる人々に伝えたかったのだろう。


『部落問題文芸・作品選集』の製版が悪く,旧字でもあり,活字がつぶれて読みにくいため,上記の漢詩文が正確であるかどうか不安である。

また,妹尾先生の書写においても,私には到底無理と思える判読作業である以上,絶対とも言い難い。

さらに,好並先生の現代語訳も,正視の胸中を感じての意訳であり,また先生の没後であるため,先生が底本とした「原文」の所在を聞くこともできない。

上記の3つを比較したとき,いくつかの「漢字」が異なっている。また,原文と訳文でやや異なった解釈となっている部分もある。たとえば,好並氏による上記の訳文中の( )は「原文」にはない意訳である。

今ここに,宰務正視氏の痛恨に思いを馳せながら,長年の夢であった「解放令反対一揆」研究,特に「明六一揆」に関する考察を始めたいと思う。


この漢詩文を読むたび,私の心に,この惨劇が時空を超えて蘇ってくる。

具体的な史実は何も語られていない。自分が実際に直面した事実とそのときの心情だけが淡々と語られている。

だが,この短い漢詩文の一字一句の中に,すべてが凝縮されている。関連史料を読み,上杉氏の『部落を襲った一揆』を読むとき,なぜ正視が自分の心情のみを短い漢詩に綴ったのかがよくわかる。

posted by 藤田孝志 at 01:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 明六一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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