2012年01月31日

明六一揆論(6):小林久米蔵(2)

失意のうちに帰宅していた久米蔵の胸中はいかなるものだっただろうか。顔役としてのプライドを深く傷つけられ,時代の変化を身にしみて感じていたことだろう。

だが,久米蔵の心を引き戻すことがおきる。鈴木良太郎が一揆勢のもとから帰ってきたのだ。そして,久米蔵に,一揆勢の増大と事態の深刻さを告げる。

鈴木良太郎儀,随行先よりまかり帰り,押し寄候党民共,津川原村より詫書差し出さず候はば,たちまち押し入り候趣につき,互ひに村役人に替はり説諭に参るべく様申談これある間,先に申し入れ候儀は自分一己のはからいにつき,尚また,鈴木良太郎・香山哲治郎同道まかり越し,同村杉原重平・山本孫十郎ならび死亡杉原長蔵に面会,詫書差し入れの儀,引き合ひ及び候へども,前書光五郎・森太郎より相答へ候通り承服致さず候間,心憎く存じ,隣村下津川原村に屯集の党民共へ対し,従前身分を相守り候様の書き付け差し出し難き旨,強情に申し張り候に付き,この上は勝手次第に乱入致す可しと相喚はり,煽動致し置き,自宅取り片付け方に立ち帰り候


鈴木良太郎が一揆勢のところから戻ってきて,一揆側の態度が津川原村から詫書を差し出さなければ直ちに押し込む様子だから,村役人に替わって説得に行こうと求めるので,先ほどの申し入れは自分の一存であったから,今度は鈴木良太郎・香山哲治郎と一緒に行きました。津川村の杉村重平・山本孫十郎・死んだ杉原長蔵に会いました。そこで,詫書差し入れの件を持ち出しましたが,(前書の)光五郎・森太郎が答えた通り,承服できませんというので,心憎く思い,下津川原村に集まっている一揆勢に対して,従来の身分を守るという証書を差し出すのは難しいと強情に言い張るから,こうなった以上は勝手に乱入しろと叫び,煽動しておいて,自分の家の片付けに帰りました。

鈴木良太郎は,「詫書」を出さなければ,津川原村に直ちに押し込むという一揆勢の様子を久米蔵に伝え,村役人に代わって説得に行くことを求める。久米蔵は,先ほどの申し入れは自分の一存だから,もう一度説得しようと,鈴木良太郎と香山哲治郎を伴って津川原村に行く。津川原村も人を代えて杉村重平・山本孫十郎・杉原長蔵が対応する。

再度,久米蔵は「詫書」を差し入れるよう説得するが,前回同様に拒絶される。

このことを久米蔵は「心憎く」思い,斡旋の余地もないと腹を立て,一揆勢に対して「勝手次第に乱入致す可し」と「煽動」する。そして,自分の家に片付けに帰る。類焼や巻き添えにならないための片付けと思われる。

自分勝手な言い分だが,久米蔵が津川原村の人々をどう見ているかを考えれば,当時の身分意識がわかる。久米蔵は,自分よりも「下」に見ているだけではなく,「焼き討ち」「襲撃」を「煽動」さえしていることからも,隣村でありながらも自分たちとは「異なる」という意識が強い。

久米蔵が「心憎い」と思ったのは,せっかく助けてやろうと思ったのに,二度までも強情に断ったことへの怒りと自分の面子をつぶされたからである。「もうどうなってもしらないぞ」という気持ちからの「煽動」であった。

跡にて,凶徒共猶予なく乱入,人家所々へ火を放ち,ついに村内残らず焼燬に至り候。付ては,前もってしばしば説諭に及び候儀を聞き入れず候より右次第に立ち至り,かつは,自分とり計らひも相貫かず,かたがた憤懣まかりあり候
翌二十九日,右村方の者,近傍山谷に潜匿致しおる者どもを捕縛し,加茂川原へ引き出し,殺害に及ぶ形勢にて,党民ども頗る奔走まかりある趣き承り候より,兼ねて悪ましき者共を,殺すべき期に望み候はば,自分指揮に及び,鬱憤を晴らす可きと存じつき,右加茂川河岸火葬場へ出向き候


その後,一揆勢は直ちに乱入して,あちこちに火を放ったので,隣村は全部焼かれてしまいました。(自分は)前もって説諭してきたが,聞いてもらえず,このような事態に至った。自分の努力が無駄となり,憤懣が強くありました。
翌29日,村の者(一揆勢)は近くの山や谷に身を潜めている(津川原村の)者を捕まえて縛り上げ,加茂河原に引き出して,殺そうという勢いで走り回っているという様子が聞こえてきたので,以前から腹立たしく思っていた(津川原村の)者を殺す時期に際して,自分が指揮をして鬱憤を晴らすことができると考えて,加茂川河岸にある火葬場に出かけました。

久米蔵の一言が引き金となり,一揆勢は怒濤のように津川原村に襲いかかった。暴徒と化した一揆勢はより過激な行動へと向かう。「奴は敵である。敵は殺せ」という戦争の論理があらゆる残虐な行為でさえも正当化する。

久米蔵は,燃えさかる津川原村をどのような気持ちで眺めていただろうか。
「自分とり計らひも相貫かず,かたがた憤懣まかりあり候」という自白は,彼の正直な気持ちであったと思う。彼もまた一揆勢と同じく部落民への「鬱憤」があった。それは,「兼ねて悪ましき者共」という言葉に表されている。解放令以後の津川原村の「増長」が,彼には許せなかったのである。
そして,彼は「兼ねて悪ましき者共」を殺すことができる機会が来たと思い,自らが「指揮」をしようと河原まで出かけていく。

隣村であり,自分たちの村に従属する枝村である津川原村の人々,顔見知りの者の殺害を指揮するとは,どのような心情だろうか。

旧穢多婦女子七,八名引き据えこれあり,自分目的に致し候者どもは居り合はさざるにより,護送致し候党民どもに対し,この場の進退は自分に相任すべきよう,呼ばはり候ところ,右人名を記し請け取るべき旨,相答え候につき,傍らに居り合はせ候,行重村山口徳蔵へ申しつけ,記させ居るうち,およそ参拾名ばかり相成り候末,


部落民の女子たちが引き据えられていましたが,自分が目当てにしていた者はいなかったので,護送していた一揆の者たちに対して,この場の処置は自分に任せよと(大声で)呼びかけました。すると,一揆勢は,(捕らえた者たちの)名前を記入せよと言いますので,居合わせた行重村の山口徳蔵に申し付けて記入させていると,およそ30名ばかりになりました。

現場に着いた久米蔵の目に,捕まって引き据えられてきた津川原村の女子たちは見えたが,自分が殺したいと思う者はいない。
久米蔵は,顔役である自分に「この場の処置」を任せよと言う。

一揆勢は,捕まえた者の名前を明らかにするよう求め,久米蔵は「行重村山口徳蔵」に記入させた。
行重村は加茂谷にあるため,津川原村の者たちを見知っていたと考えられる。また,久米蔵が見分して確認したことを書き記したとも考えられる。(
地図を参照)

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2012年01月28日

「渋染一揆」再考(9):動機

以前に,弊HPのBBSに書いた一文である。


先月に送付された『岡山地方史研究』の最新号(117号)に,ひろたまさき氏の『差別からみる日本の歴史』に関する井久保伊登子さんの書評が掲載されていた。その中に,渋染一揆について述べた次の一文がある。

著者(ひろたまさき 引用者)は,一揆の動機が部落民の平等思想の覚醒にあったとする従来の学説に反論して,彼らはキヨメ役としての存在を否定されたために立ち上がった,と主張する。その理由として嘆願書の,一命が危うい仕事も出仕し忠勤を尽くして任に当たっている自分たちの穢多役割を強調している一文を引用する。
しかし,筆者(井久保伊登子 引用者)は,この一文から,これほど忠誠を尽くしているのに,この上に巷での差別をさらに強化するようなことをしないでほしい,という異議申立てが読みとられる,と思う。差別に苦しめられた者としては,差別の象徴であるキヨメ役を返上したい,というのが自然な真情ではないだろうか。
この一揆に参加した人々に,道筋の百姓が部落民への同火共食の禁を犯してまで水をふるまうという連帯の芽生えがあった。商品経済の発達による金銭を媒体としての対等化や視野の拡大,民衆の旅行ブーム,また後期の印刷物や芝居などの大衆文化が人々の自由な交流を助けた。そして次第に平等観念が普及した。津山藩の百姓一揆には部落民が参加したという。

井久保氏がこのように感じたのは,次のようなひろた氏への批判が根底にあったからだと思う。

本書を何度か読み通したが,当初期待した現実的な差別の輪郭が掴めず,そのために差別への著者の憤りや痛みが伝わってこない。「あとがき」に,<差別はきわめて多様な形態で発露するものですから,それは部落史とか女性史などと被差別集団ごとに追究することも重要ですが,差別者の側に視点を定めれば,多様な差別も相互に関連し一つの問題に収斂するのではないか>という問題意識でこの本が書かれたとあった。<差別者の側に視点を定め>て,多様な差別の相互関係をとらえて<一つの問題に収斂>させる,ということは,高いところから差別全体を俯瞰して,差別の問題を整理して概説する,ということになるのではないか。それでは,差別されている人の姿は見えず,痛みは伝わってこない,と思われる。
やはり,<被差別集団>の一つを選び,その中の一人一人の言葉に耳を傾け,その苦しみの原因を歴史的に掘り下げていくことで,差別の全体史に突き当たるのではないか,と思う。

実は,私はこのひろたまさき氏の著書を出版された直後に購入しながら斜め読み程度にしか読んでいない。井久保氏の書評を先に読んでしまったのである。

ここではまず結論的な私見を述べておく。両者ともに賛同もする部分もあるが論旨に満足もしていない。

ひろた氏の主張については著書を読んで後日意見を述べるつもりだが,「キヨメ役の存在を否定された」と穢多身分の者が感じる理由が「無紋渋染藍染」の着衣を強要されたことであるとする根拠は如何なるものなのだろうかという疑問を持つ。ひろた氏が言う「キヨメ役としての存在を否定された」と穢多身分が受けとめた記述は関連史料から読み取ることはできない。ひろた氏が「理由」としている嘆願書の一文では「キヨメ役」は番役や警吏役であるが,それも他の嘆願理由の一つとして書かれているにすぎない。

また,井久保氏が言うように「キヨメ役」は「差別の象徴」なのか。これについても周囲(差別者の側の視点)と穢多身分(被差別者の側の視点)で認識はちがうのか同じなのかという議論がなされていない。

「無紋渋染藍染」が「キヨメ役」をさらに強調することになるのであれば,井久保氏の論理もうなずけるが,はたしてそうであろうか。「渋染一揆」の原典史料には,井久保氏のいう「キヨメ役を返上したい」という穢多身分の「真情」は読み取れない。むしろこの一文からは,ひろた氏の言うように「忠勤を尽くして任に当たっている」という自負心や誇りを感じる。

前提としての認識が,ひろた氏と井久保氏では異なっているように私には思えるし,渋染一揆の動機を単純化しすぎているようにも思える。さらに付け加えるならば,「津山藩の百姓一揆には部落民が参加した」のは,渋染一揆の随分前であり,社会状況や理由も異なっている。同列に論じるべきではない。なぜなら,同じ津山(美作)において「解放令反対一揆」が起きているからである。

渋染一揆の動機を解明するには,「無紋渋染藍染」の意味,穢多身分の者はこれをどのように認識し,この御触書をどのように受けとめたかが重要である。

ひろたまさき氏は『差別からみる日本の歴史』で「渋染一揆」の動機を次のように述べている。

…私は,部落民が禁令撤回に立ち上がった理由は,部落民のアイデンティティを否定するものであったからであると考えています。

…部落民の嘆願書では,自分たちは百姓と同じように年貢を上納しているのに差別するのは迷惑だと言いますが,自分たちは百姓だとは言っていないのです。むしろ,「身分広き御百姓とは間違い,狭き穢多の類村ゆえ」と自称しているのです。そして他方で,「兼ねて役人村と御唱なされ候」「一命相拘わるべくも厭わず候て,御用出情致し,御忠勤を尽くし奉るところ」と「穢多」役を担っていることを誇示しています。そういう盗賊取り締まりの任にあるわれわれが目立つ渋染の着物を着ていては,御用を果たせないではないかと言うのです。へりくだった表現を使いながらも,嘆願書は,自分たちは百姓と同格であり,なおかつ「穢多」役という役割を果たしている立派な領民であり,差別を受けるいわれはないと,堂々と主張しています。嘆願書は部落民が社会的に不可欠な独自の存在であるという自負を示しているのです。

…他の多くの部落民の脱賤の方向も,農業生産を高めて百姓になろうという方向や,部落からの逃亡という方向も,「穢多」に対する差別そのものを否定するものではないのです。
しかし,渋染一揆の嘆願書は,そうしたこれまでの方向ではなくて,まさに「穢多」役の重要性を自覚し,そこに自分たちの任務があることを差別反対の論拠としている点で,画期的だといわねばならないのではないでしょうか。「キヨメ」役そのものを評価しているというよりも,藩主に命じられた任務という点を強調していることは問題として残りますけども。

「穢多」役の妨げになるとの主張を根拠に「部落民のアイデンティティを否定」されたことで渋染一揆を起こしたとの考えに,私は賛同できない。

『御倹約御触書』の第26条(別段2条)「目明共義ハ平日之風体御百姓とハ相別居申事ゆヘ衣類之儀ハ先迄通達心得可申」や第29条(別段5条)「番役等相勤候もの共,他所向役先之義ハ先是迄之通差心得可申」にあるように,警吏や刑吏などの「穢多」役を勤めるときは従前通りでよいと認めている。このことから,「穢多」役を勤めるときの衣服は「無紋渋染藍染」でなくてもよいと考えられる。「無紋渋染藍染」は通常の衣服として命じられたのであるから,常日頃に着用することに対する抵抗と考えるべきである。

次に,『嘆願書』にある「穢多」役に触れている箇所を抜き出してみる。

殊ニ,非常ニ御備ニも相成居申者候得ば,右躰之衣類被為仰付候ては,老若男女に至迄精気落,農業守も打捨可申程之義,心外歎鋪奉存候

御国中穢多共之内,御城下近在五ケ村穢多共,番役等仕居申者有之。猶又,御牢屋鋪并ニ川下死罪之者有之候節,其手御用相勤居申者も数多御座候ハ,五ケ村穢多共ハ素より,其外類村同様,兼て御用替之穢多共役人ト,年々ヘ,御米四俵宛奉頂戴居申義,諏訪御用之節,奉御忠勤尽身分ニて,乍恐御座候故,御百姓一同ニ,御承知可有候得ば,兼て役人村と御唱被成候故,盗賊又ハ強盗・荒破者等参居申時,其村引請番役人ハ不及申上,其外無役之者迄,即座一命可相拘も不厭候て,御用出精致,奉尽御忠勤所,右躰之衣類着用仕候てハ,御城下或は在々浦々致迄,盗賊又ハ胡乱ケ間鋪者,遠見より道ヲ替,逃隠行逢ひ不申,色々徘徊,左候得ば,人相見立ハ猶以難出来。然上ハ,召捕候義相成り不申。其時,御用懈怠ト罷成候様,乍恐奉存候。

備前では「穢多」役として番役を命じられている城下五ケ村が役人村として「御用」を勤めていた。また,その中には牢番や刑吏役を勤めている者もいた。また,城下五か村以外にも類村として同様の「御用」を勤める村もあった。その報奨として百姓より米四俵を受け取っていた。

この文面から,彼らが「役人」としての自負心をもち忠勤に勤めていることは推察できるが,「無紋渋染藍染」が藩から命じられた役務の妨げになるとは考えられない。なぜなら,上記の『御倹約御触書』の条文にあるように,役務の際は従前通りでよいと認めているからだ。それに対して,彼らは番役などの「御用」を勤めていない常日頃からも「御用」に「忠勤」していることを理由に,「無紋渋染藍染」の衣類を着用すれば,見分けられてしまい「御用」を果たすことができにくいと言っているように思える。ここに藩側と穢多側の見解の相違がある。

予防や追い払いが目的であれば,現在の警官のように特別なそれとわかる着衣の方が効果的だと思う。犯人逮捕が目的であれば,現在の私服警官のような見分けのつきにくい着衣の方がよいだろう。原文には「召捕」とあるから後者とも考えられるが,藩が役務として命じているのは「番役」などである。

ところで,『嘆願書』からも,彼らは常に「盗賊又ハ強盗・荒破者」を探索・捕縛することを仕事(生業)として常日頃の生活をしているのではないことは明らかである。警吏・刑吏役,番役は「御用」(役務)であって,彼らの生業は農業であり,武士のような役務を勤めながら日々の生活をしているのではない。

posted by 藤田孝志 at 16:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 渋染一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月10日

明六一揆論(5):小林久米蔵(1)

津川原村の本村にあたる妙原村の「顔役」小林久米蔵は,明六一揆の「津川原村襲撃」に関わるkey personである。

「北条臨時裁判所調」に記載されている「小林久米蔵」の自供書について,その読み下しと現代語訳を試みながら,検証と考察を行ってみたい。


あらためて幾度か彼の自供書を読み返し,関連資料を参照しながら,いくつかの疑問点が浮かんできた。

なぜ,彼あるいは本村である妙原村の人間が直接に手を下さなかったのか。
実際は殺害に手を出しているのかもしれないが,裁判記録では「煽動者」「指示者」「造意者」という理由で小林久米蔵と鈴木七郎治が斬罪となっている外に,妙原村の人間は処刑されていない。

ここで,彼ら以外の斬罪に処せられた者を列挙してみる。

川田嘉平治・宇治貞蔵(東北条郡宇野村),高橋弁蔵(東北条郡公郷村)
芦谷島五郎(東北条郡物見村),芦田島吉(勝北郡新野西村)
内田数平(勝北郡新野山形村),内田豊蔵(勝北郡成安村)
水島寅平・大谷類次郎・小島伴次郎・井上良蔵・芦田林平
                               (勝北郡広戸村)
筆保卯太郎(西々条郡貞永寺村)

筆保卯太郎を除く13名が津川原村襲撃(惨殺)の罪に問われている。彼らの村は津川原村の周辺に位置しており,宇野村・公郷村・物見村・成安村は旧加茂町内(現津山市),広戸村・新野西村・新野山形村は旧勝北町内(現津山市)にある。これらの村は津川原村の周囲(谷を挟んだ位置)にあり,距離的にもさほど遠くない。

「明六一揆」経路図(上杉聡『明治維新と賤民廃止令』より転載)

それゆえ,津川原村の人間をまったく見知らぬとは思えない。成安村や公郷村など旧加茂町内にある村々が津山に出る場合は,必ず加茂川側の一本道を往来する以上,津川原村の前を通ることになる。
また,勝北郡に通じる道も川沿いに津川原につながっている以上,広戸村の住民と面識が全くないとも思えない。

久米蔵の供述に従えば,枝村である津川原村を助けてやろうという気持ちが裏切られ,調停役としての面子(プライド)が大きく傷つき,今まで腹に据えかねて蓄積されていた鬱憤と結びつき,ついに憤懣が一気に吹き出しての残虐行為というのであれば,彼が直接に手を下してもおかしくはない。
あるいは,「顔役」としてのプライドから「指揮者」になりたかったのか。

「詫書」と「殺戮」とのギャップの大きさにも疑問を感じている。抵抗する村,反抗的な村に対する容赦のない残酷性はどこ(何)から生まれた感情なのだろうか。


自分儀,壮年の頃相撲を好み,他村の者共と広く相交はり候,村内に縺れ事など出来候節は,すべて談を受け,取り扱ひ致し居り候,当五月二十七日,趣意は相わきまえず候へども,加茂村あたりにて,百姓一揆おこり,追々近村を脅誘致し候,右随行の儀,村内者どもより相談これ有り候に付き,党民ども,押し寄せ来たり候はば,やむを得ず随行致すべし,左なきうちは,是より踏み出し候儀は宜しからざる旨,相示し置き候,


自分は若い頃,相撲が好きで,他村の者とも広く交際していた。そのせいで,何か「縺れ事」(揉め事)があれば,すべて相談を受けて,自分が取り仕切っていました。ところが,5月27日,理由はよくわかりませんが,加茂村で百姓一揆が起こり,近村に対して順々に脅かして(参加を)呼びかけてきていました。(ということで)村内の者からどうすればよいか相談を受けました。それで,徒党を組んだ農民たちが参加しろと強制されて断り切れない場合は,止むなくついて行くしかないだろう。そうなるまでは,こちら側から踏み出すようなことは良くないと指示しておきました。

加茂村から津山城に向かうには加茂川沿いに下っていく。その途中に「妙原村」と「津川原村」がある。一揆勢は,途中にある川筋の村々を強引に脅して参加させて勢力を増やしながら下って来る。

この供述から,久米蔵は一揆の理由をよく知ってはおらず,妙原村の村民から相談を受けて,断り切れなければ参加するように指示している。しかも,自分たちからは参加しないようにとまで言っている。
このことから妙原村も久米蔵も当初から積極的に津川原村を襲撃する考えはなかったということになる。

あるいは,久米蔵は止むを得ず強制されて参加しただけだと強調することで罪を軽くしてもらおうと思ったのか。


翌二十八日払暁,果たして凶徒ども多人数近傍に押し寄せ候に付き,拠んどころなく一同随行いたし候へども,自分は罷りいで申さず候,然るところ,隣村津川原村旧穢多ども,従前の身分を相守らせ候上,強訴の先鋒に致さすべく,その儀相拒み候節は,たちまち村内放火乱暴に及び候よしに,伝承いたし候,
付いては,同村の儀は当村副戸長より兼帯致しおり,公私ともに当村の命令に従ひ候,先般穢多号を御廃止の後は,元身分を忘れ,自然不敬の仕向,少なからざる折からにつき,右躰方,今危急の場合を取り扱ひ凌がせ候はば,向後当村を敬し,すべての儀に随従致すべくはもちろん,隣村の儀,類焼の患もなく,かたがた,両全にこれあるべしと,自分一己に存じつき候,津川原村前田光五郎・鳴瀬森太郎へ面会し,
本日,党民共近傍へ押し寄せ候儀は,穢多号を御廃止の後,近村の者へ対し不敬の仕向少なからず候につき,元身分の通り,下駄傘等は村内より外へは相用ひず,かつ,近村の平民へ用向きこれ有る節は,門外より草履を脱ぎ,途中にて出会候時は,頭を地に下げ礼譲正しく致すべく,その証拠として,今般県庁に強訴の先立致すべき旨の証書を差し入れ候はば,危難も相のがるべくやの旨申し聞かせ候


翌28日の明け方,一揆勢が多数押し寄せてきました。それで止むを得ず,一同はついて行きました。しかし,自分は出て行きませんでした。そうしていると,津川原村の部落民を「従前の身分を相守らせ」て,強訴の先頭に立たせる,もし断れば村内に放火して乱暴をしてやるという話になっていることを聞きました。
津川原村のことは,副戸長が兼任で管理しており,公私ともに妙原村の指示に従ってきました。先般の解放令によって賤称を廃止されて以後,元の身分を忘れ自然不敬な態度が少なくない状況なので,何とかこの急場をうまく凌ぐことができれば,今後,津川原村は妙原村を尊敬するようになり,すべてのことについていうことを聞き従うようになるだろう。隣の村でもあるのだから類焼の恐れもなくなるだろう。両方にとってもよいことだと考えて,津川原村の前田光五郎と鳴瀬森太郎に会いに行きました。
今日,一揆勢がこの近くに押し寄せてくるのは,賤称廃止後,(津川原村の者が)近村の者に対して不敬な態度であることが少なくないからで,従来のように,下駄や傘は村外では使わず,近村の平民に用向きがある場合は,門外より草履を脱ぎ,途中で出会ったら頭を地に下げる(土下座する)ように礼儀正しくしなければならない。その証拠として,今回の県庁への強訴には先頭に立つという旨の証書を差し出すならば,危難を逃れることもできると聞かせました。

久米蔵は,「一同」(妙原村の村民たち)は一揆勢に参加していったが,自分は行かなかったと言う。理由は述べていない。

当時の久米蔵の年齢は51歳である。他の処刑者が20代〜30代前半(芦谷は53歳,大谷は42歳)であることから考えても,一時の感情に流されやすい血気盛んな若者とはちがい,ある程度の冷静さはあると思う。村の「顔役」でもある。

このときになり,久米蔵は一揆勢が津川原村を襲うことを知る。
解放令後の「不敬な態度」については自分も「増長している」と日頃から思っていたので,同感の思いがしたことだろう。懲らしめてやりたいという思いは強かった。
それに,一揆勢は従わなければ火を付けると言っているから,自分の村も類焼の被害を受けるかもしれない。そこで,彼は津川原村が要求に従えば,両方にとって好都合だと考え,「顔役」である自分が調停役をしようと思ったと述べている。久米蔵は善意で行動したことを強調している。


ここで整理しておきたい。

久米蔵の不満・憤激は,一般村の百姓も同様に思っている(感じている)ことである。

「元身分を忘れ,自然不敬の仕向」とは,「穢多(身分)」であったことを忘れ,従来は行っていた「礼譲」をしなくなったことであり,それを「不敬な態度」「増長」として不満に思い,憤激しているのだ。
従来の「礼譲」とは,下駄や傘は村外では使わず,近村の平民に用向きがある場合は,門外より草履を脱ぎ,途中で出会ったら頭を地に下げる(土下座する)ように礼儀正しくすることであった。
だが,これは「身分」が「穢多」であったときに,幕府や津山藩から命じられたことであり,身分制度における「ルール」であった。
明治となり,幕府から政府へと支配体制も変わり,政治や社会のシステムも大きく変化している。「解放令」もその同じ変革として命じられた。

しかし,百姓は「解放令」を受け入れてはいない。身分のちがう(異なる)「穢多」から自分たち百姓と同じ「平人」になったことを認めてはいない。認められないのだ。納得ができないのだ。そのため,喜びをもって積極的に受け入れた「部落民」とは,意識・考えが根本的にちがっている。そして,その「認識の相違」が久米蔵や一般村の百姓にはまったく思いも寄らないのだ。

反対に,部落民の行動原理は,理に適っている。
解放令によって「平人」となった以上は,「穢多」のすべきルールや礼儀は守る必要はない。行う必要もない。一般村の百姓と同様のルールで行動すればよい。だから,従前のような礼譲はしなくてもよいと考える。身分や立場が変われば,行動様式も変わる。

長年,差別されてきた思いは強い。屈辱的な仕打ちを受けてきた。理不尽な要求にも従ってきた。決して「同等の扱い」「同じまなざし」で接してはくれなかった。そこには,いつも「ちがい」と「分け隔て」があった。


だからこそ,津川原村の決意は固い。

もとより当村においては,御県庁へ迫り,強訴致し候存意は更にこれ無き間,承服致し難し。しかる上は,乱暴におよばれ候とも致し方なく決心まかり有り候旨,相答へ候,甚だ失望致し立ち帰り候


いうまでもなく当村では,県庁に迫って強訴しようという気持ちは毛頭ありません。そのような(申し入れは)到底承服できません。その結果,乱暴されても仕方がないと覚悟しています,と答えるので,とても失望して帰宅しました。

久米蔵は打ちのめされてしまう。「顔役」としてそれなりの自負心もプライドもあっただろうが,津川原村の決心の一言で,脆く崩れ去ってしまった。そして,彼は深く傷つき帰宅する。

久米蔵は,このときに気づくべきだった。
時代の大きな変化と自分たちが津川原の部落民にしてきた差別と賤視,それらを撥ね除けようと動き出した部落民の決意と覚悟に気づくべきであったのだ。

下部構造の大きな変動を受けて上部構造が変動しようとするとき,新しいイデオロギーを受け入れることができない勢力による反動が起こる。「従前」に固執する勢力は,変革を阻止するための反動として動く。

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2012年01月03日

「渋染一揆」再考(8):他藩の渋染強制

「渋染一揆」の77年前,1778年(安永7)に岡藩(大分県)で被差別民に対して出された触書(法令)がある。
この年は,幕府が被差別民に対して「風俗取締令」を初めて出した年でもある。岡藩では,この取締令を藩内の被差別民に示した上で,次のような法令を課したのである。

穢多共掛襟申渡之事
  申渡     穢多共
  安永七戌年

一 右の者共,御城下廻且市廻,其外在町市場押えなど都而諸御用に罷出候節は,着物に黄色の襟を掛け申すべく候,是迄着類の差別これなく,紛わしきにつき,自今右の通り申付け候間,此段穢多共え堅く申付け,銘々堅く相守り心得違い致さざる様其方共より申渡すべき旨申渡様,郡奉行中申渡され候也
  八月   代官役

岡藩(「申渡」安永七年[1778年]8月)

 申渡
此度穢多非人身分之儀ニ付,別紙之通公儀より被仰出候間,其旨申渡堅被相守可申候,万一心得違不埒於有之,急度被仰付候間,堅申渡被相守候様被取計候,
一 穢多共着類法外之儀有之候相聞,向後浅黄染・渋染に限可申候尤穢多共御用ニ出候節々掛致候様,着類夏冬共都て掛襟致,常々着可致候,万一心得違百姓町人ニ紛,不法之節於有之,急度可申付候
一 目明共之儀着類染色右同断,尤掛襟不及,是又百姓町人ニ紛れ不法之節於有之,急度可申付候
戌十一月廿九日   郡奉行

岡藩(「申渡」安永七年[1778年]11月)


えたたちへの掛け襟申し渡しの事
 申し渡し     えたたちへ

一 右の者たちは城下下・市の見回り,その他,在・町・市場の警備などすべて役目で出かけるときは,着物に黄色の襟を掛けるように。今まで着物の差別はなかったが紛らわしいので,今からは右の通り申し付ける。このことをえたたちへ厳しく申し付け,銘々が厳守し,心得違いの無いよう,おまえたちから申し渡すよう申し付ける。以上のことを郡奉行に申し付けた。
 八月   代官役

一 えたたちの着物に違反の疑いがあるように聞いている。今後は浅黄染・渋染に限ること。もっとも,えたたちが,役目のために出掛けるときは掛け襟をするように。着物には夏冬ともにすべて掛け襟をして常に着用するように。万一心得違いをし,百姓町人に紛れ,不法の筋があったならば,(罪を)きっと申し付ける。
一 目明かしについても,着物はえたと同様とする。もっとも掛け襟はしなくてもよい。また百姓町人に紛れ,不法の筋があったならば,きっと(罪を)申し付ける。
戊十一月廿九日   郡奉行

岡藩では,同年に農民に対して37か条の「御掟書」を定めている。この御掟書の特徴は,農民の分限や村役人の職分についての規定が多いことである。37か条のうちそれぞれ8か条が定められている。
農民の分限,すなわち農民の義務である年貢納入の遂行を明確にし,さらに農民の風紀が乱れていたことから村役人の職分をあらためて明記したのだと考えられる。

つまり,それぞれの身分に応じた「分限」を明確にすることで身分制度の立て直しを図ることが目的であったことがわかる。

同様の趣旨で,被差別民にも「身分を明確にする」目的で,上記の法令が出されたのである。すなわち,着衣の規制は,見た目で「身分」がわかることが目的であり,逆にいえば百姓や町人と被差別民のちがいがわからない(紛らわしい)状況があったから,このような法令が出されたのである。

幕府の「風俗取締令」では,被差別民が「百姓町人に紛れ」ることは「心得違い」のことだとしている。幕府の命令を受けて出された岡藩の11月の法令でも同様のことが書かれている。


「渋染一揆」の原因となった「別段御触書」と比較してみると,関係があるのは次の3か条である。

25条(別段1条)

穢多衣類無紋渋染藍染ニ限り候義勿論之事ニ候,乍然急ニ仕替候てハ却て費ヲ生シ迷惑可致哉ニ付,是迄持かかり麁末之もめん衣類其儘当分着用先不苦,持かゝりニても定紋付之分ハ着用無用,素藍染渋染之外ハ新調候義は決て不相成事

穢多の着物は,無地の渋染藍染に限ることはもちろんのことである。しかしながら急に仕替えるのでは,かえって費用もかかり,迷惑するかもしれないので,これまで所持している粗末な木綿の着物は,そのまま当分着用してもよろしい。所持しているものでも,定紋付のものは着てはいけない。もとより,藍染渋染の外は,新調することは決してならない。


26条(別段2条)

目明共義ハ平日之風体御百姓とハ相別居申事ゆへ衣類之儀ハ先迄之通差心得可申,尤絹類相用候義ハ一切不相成事

目明かしたちのことは,日ごろの身なりが百姓とは違っているので,着物の件は先ずこれまでのとおりであると心得よ。もっとも絹類を用いることは,一切いけない。


29条(別段5条)

番役等相勤候もの共,他所向役先之義ハ先是迄之通差心得可申,勿論絹類一切弥以無用之事

番役などを勤めている者たちは,他所に行くときや,役目の先に行くときは,先ずこれまでのとおりと心得よ。もちろん絹類は,一切着ることはいよいよもって無用である。

両藩に共通するのは「渋染」の強制であるが,私は「限る」に着目したい。

特別の色や特別の着物の着用を強制したのではなく,特定の着物のみを着用することを命じたのである。
さらに岡藩では「黄色の襟」を付けることで,一目で身分がより明確になるように命じている。

「目明かし」に関しては,岡藩では「掛け襟」を付けなくてもよいとし,岡山藩では「渋染・藍染」の着物でなくてもよいとしている。

このことは,「目明かし」の着装が百姓や町人とは異なっており,身分のちがいが明確に判別できたからであろう。

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2012年01月02日

明六一揆論(4):筆保卯太郎(1)

「明六一揆」の首謀者として処刑された筆保卯太郎,私は彼を首謀者と考えてはいない。彼は,当時の法条県官吏側によって「首謀者」に仕立て上げられたのである。つまり,権力がつくった虚構である。

「明六一揆」において処刑された一揆勢は15名であるが,西々条郡貞永寺村筆保卯太郎と東北条郡宇野村川田喜平次を除いて,すべて津川原惨劇に関わった勝北郡の農民である。筆保は,部落民の殺害にも部落襲撃にも直接には関わっていない。


『現代思想』(vol.27-2)「特集:部落民とは誰か」に所収されている友常勉氏の論文「美作血税一揆と<差別>の語り」より,少し長いが抜粋して引用する。

…明治初頭の刑法である「新律綱領」は,1870年(明治3年12月)に策定され,その修正である「改定律例」は1873年(明治6年5月)に策定され,施行された。「新律綱領」には「凶徒聚衆罪」が盛り込まれているが,「新律綱領」「凶徒聚衆」では@発頭人は斬首刑,A殺人や火付けは絞首刑,B付和雷同者については咎めなし,という内容であったが,1872年に付加された布告では付和雷同者の処罰も定められた。さらに「新律綱領」を改訂した「改定律例」の「凶徒聚衆条例」は,151条から154条までの4条に区分され,罪の軽重は「付和雷同」「脅誘」「ただ助勢したもの」などに参加者の意志によって区分された。首謀者もそれが騒擾に実現しない場合の罪科も定められた。また,騒擾の鎮圧に失敗した「地方官」の処罰も定められた。

…断罪の手続きにあたって,取り調べは罪責追及者(検察・警察)と被罪責追及者(被告人)とが向かいあうだけの糾問主義を取る。そこでは,自白獲得のために拷問を行使することが,取調の真摯さの証明とされる。(筆保卯太郎が「拷問五度」とされていたのは,厳罰さを示すのではなく,こうした手続きにもとづいている。)

…「新律綱領」「改定律例」は,はるかに細分化されている。殺人罪ひとつをとっても「謀殺・故殺・誤殺a・闘殺・誤殺b・戯殺・過失殺」の七類型からなる。こうして分類される心的状態は,「故(意)」と「過(失)」,あるいは「故」と「誤」の対応関係によって規定されている。刑法の対象となる行為の状態ではなく,行為者の主観的な状態が問題となるのである。

彼は,この論文で明治初頭に制定された刑法との関連に着目し,新しい刑法に規定された責任追及(「行為者の主観的な状態」「動機」)の重要な観点により「筆保首謀者説」が捏造されたと考察している。

…美作血税一揆の場合は,「新律綱領」「改定律例」に対応した取り調べをすることで,「故意と過失」の区別にもとづく動機の設定がおこなわれた痕跡が示されているのである。

…噂の審級にあったものを,筆保卯太郎の作為と演出によるものへと実体化させたのである。いいかえれば,「新律綱領」「改定律例」にもとづいて処罰するためには,動機を創出しなければならなかったのである。

…重要な点は,筆保卯太郎自身が,そうした取り調べ側の筋道に従って,一揆過程を一人の視点から整理したということであり,この供述は筆保と取り調べ側との共同作業の産物にほかならないということである。

…私は従って,筆保卯太郎供述は,その話の要素においては時間的に先行する<出来事>の経過を含んでいるとしても,構成からいって,取り調べ官との共同作業のもとでの作為的をもって,先行する<出来事>を再構成してできあがったもうひとつの<事件=出来事>であると想定する。

このことから確実にいえることの一つは,筆保卯太郎はこの一揆の首謀者としては考えられないということである。

つまり,取調官によって恣意的に「明六一揆」が再構成され,その経緯を実証するために,筆保卯太郎の自供が捏造されたのである。

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2012年01月01日

明六一揆論(3):宰務正視

『調査と研究』(岡山部落問題研究所)に連載された「美作血税一揆の周辺より」(水内昌康)を参考に,宰務正視と首謀者とされた筆保卯太郎についてまとめてみたい。


宰務邸の裏山にある墓地の中央に,二段積みの基壇の上に高さ1メートル50センチ,幅80センチの石碑が建っている。

明治六年,明六一揆の際,津川原部落に押し寄せてきた一揆の徒党によって,102戸の家が焼かれ,村人から18名の犠牲者がでた。部落長であった喜市(喜一郎),その子龍太郎,喜平の3人が惨殺された。
その霊を弔うため,五十年忌にあたる大正十一年(1922)に建立したのが,この慰霊碑である。

碑の裏面には,次のように刻まれてある。

廣 明治六酉年五月二十九日  寂
   俗名 宰務喜市   行年四十歳

敬 同             日  寂
   俗名 宰務龍太郎 行年廿二歳

宰 同             日  寂
   俗名 宰務喜平   行年十六歳

智 明治三十四年七月廿七日  寂
   俗名 宰務みゑ   行年七十歳

「廣・敬・宰・智」は,廣道・敬了・宰證・尼智栄の各法号の略である。宰務みゑは凶徒に亭主と二人の子を眼前で殺された正視の母である。事件当時は6歳であった正視は,隣村の知人宅の長持の中に隠されて難を逃れた。彼は,夫と二人の子ども無惨に殺された母のその後を見てきただけに,母もまた犠牲者であることを強く思っていたからこそ,その母を一緒に弔ったのである。

慰霊碑の文面については,積年の風雪によって削れ,判読は難しい。私も幾度か直接に判読を試みたが,諦めた。その後,作陽高校の妹尾進治先生が書き写されたコピーと好並隆司先生の現代語訳から内容を理解してきた。

今回,新たに水内昌康氏の「原文」と読み下し文を知ることとなり,ここに転載し,研究の資料としてもらいたいと思う。

(原文)

明治六年我邸宅漠然帰烏有 而父母則
歿凶徒之刃 遺憾非口頭之所得而盡
籲天哭地 歔欷哀慟 継以吐血 然余
等時齢尚浅 不知其所為 空待官衙之
手 雖慚誅之 亡者之丹心末全徹底
国民回顧今茲大正十一年則其五十回忌
也 上墓而憶往事 愁膓不措 取数行
之涙而代墨 賦七律一首 還而呈霊碑

往事茫々跡亦荒
回顧五十有星霜
恨憑舊蘇生無己
愁共浮雲凝愈長
数縷香煙添寂寞
一雙哀鷓哭蒼茫
喟然呑涙人空立
読尽寒碑送夕陽

   男 楠山 宰務正視 拝選

(読み下し文)

明治六年我邸宅漠然トシテ烏有ニ帰ス
而シテ父兄則チ凶徒ノ刃ニ歿す。
遺憾口頭ノ得テ盡ス所ニアラズ。
天ヲ籲,地ニ哭シ,歔欷哀慟,継イデ以テ血ヲ嘔ク。
然シテ余等時ニ齢尚浅ク其ノ為ス所ヲ知ラズ。
空シク官衙ノ手ヲ待チテ漸クコレヲ誅ストイエドモ
亡者ノ丹心イマダ全ク徹底セズ。
国民回顧ス今茲ニ大正十一年則チ五十回忌也。
上墓シテ往事ヲ憶イ愁傷措カズ。
数行ノ涙ヲ取リテ墨ニ代エ,七言一首ヲ賦シテ還シテ霊前ニ呈ス。

往事茫々トシテ跡亦荒ル
回顧スレバ五十有星霜
恨憑舊蘇生ジ己ムコトナク
愁,浮雲ト共ニ凝リテ愈長シ
数縷ノ香煙,寂寞ヲ添エ
一雙ノ哀鷓,蒼茫ニ哭ク
喟然涙ヲ呑ミテ人空シク立チ
塞碑ヲ読ミ尽クシテタ陽ヲ送ル。

水内氏は,次のように書いている。

宰務正視は,諱は子欽,字は織憲,楠山と号した。また,溶月堂,鶴夢庭とも号し漢詩に造詣が深かった。明治二十二年,父兄達の十七回忌にあたって,すでに,この詩文の草稿を作っていたが,長年世に出すこともなく,五十回忌にあたり序文の一部を改めて碑に刻したのである。

これについて,私は別項において言及しているので,ここでは書かないが,「草稿」と大きくちがうのが,【亡者之丹心末全徹底国民 回顧今茲大正十一年則其五十回忌】である。「草稿」では,【未可謂十分報之,回顧茲明治二十二年則其拾七回忌也】となっている。

この件に関して,好並隆司氏の論文に言及してあったので,ここに転載して真偽を正しておきたい。(「明治六年美作一揆の再評価」『近世中国被差別部落史研究』所収)

…明治二十二年に(宰務)氏は「謁父兄墓」詩を作り,父兄を弔った。…ついで大正十一年は父兄の五十回忌にあたるので,津山市三浦にある宰務家墓地に碑をたてて,みぎ序文と賦とを刻んだ。文章は明治二十二年と十七回忌の語句が変更されているだけである。しかし,大正十一年十一月五日発行,大土井鳧川編集の『隠れたる偉人』と題する小冊子では,右序文の傍点の箇所が「空待官衙之
手雖慚誅之,亡者之丹心末全徹底国民,回顧今茲大正十一年」と改められていて,報復がなお十分でないとする部落民の怨みが,「亡者之丹心末全徹底国民」と死者主体に移されて,国民に真の心がわかっていないとして,国民融和への志向を示している。…原文を改竄をしたものと思われる。


…全解連系「調査と研究」誌37号で,水内昌康氏は石碑を写真にとりながら,本文を大土井氏改竄の国民融合論的文章を本文として紹介している。氏の誤りを訂正しておきたい。

以上の好並氏の解明により,上記の水内氏の紹介している碑文がまちがっていることが判明した。あらためて,好並氏の論文より慰霊碑の碑文を次に引用しておく。

明治六年我邸宅漠然歸鳥有,而父母則歿凶徒之匁(刃),遺憾非口頭之所得而尽,籲天哭地,歔欷哀慟,継以嘔血,然余等時齢尚浅,不知其所為,空待官衙之手雖慚誅之,未可謂十分報之,回顧今茲大正十一年則其五十回忌也,上墓而憶往事,愁傷不措,取数行之涙,而代墨,賦七律一首,還而呈霊牌

往事茫々跡亦荒,回顧五十有星霜,恨憑舊蘇生無己,愁共浮雲凝愈長,数縷香烟添寂寞,一雙哀鷓哭蒼茫,喟然呑涙人空立,讀盡寒碑送夕陽


除幕式の当日,正視は霊前に次のような奉告文を捧げている。

維時大正十一年壬戊之年五月廿九日,回顧スレバ,去ル明治六年国政未ダ緒ニ就カス綱紀尚揚ラサル蒙昧ノ時ニ際シ,我ガ作陽未タ會テ古今ニ見サル大惨事ニ遭遇シ,父兄則チ其渦中ニ投シ千秋ノ恨ヲ呑ンテ空シク匪徒ノ為メニ没セラレシ五十回忌ニ相当ス。
熟々惟レバ春風秋雨既ニ半世紀ノ久シキ子孫尚未ダ其庇護ヲ受ク,不肖正視,転タ追憶ノ念ニ堪ヘス茲ニ粗末ナル碑石ヲ建設謹テ奉告ノ式ヲ挙グ,父兄ノ霊請フ饗ケヨ大正十一年五月二十九日
                 男 正視拝告


正視は明治42年に部落救済のために「備作廊清会」を組織し,官庁などの応援を得るために働きかけている。その趣意書は,風俗の矯正,勤勉貯蓄の奨励など部落改善運動の域を出るものではなく,時代の制約を受けている。
しかし,当時の岡山県知事谷口留五郎を訪問し,廊清会の組織について支援を求め,激励を受けている。また,県下の各部落を訪ね,会の拡大のために尽力している。

残念ながら,進展が望めず志半ば中断し,一時期は津山で「作陽公論」を発刊するなど自己の理想を文筆に託して展開していたが,晩年は自適の生活を送り,昭和十四年に71歳で他界した。

彼の人生を考えるとき,常に脳裏にあったものは父兄を惨殺した「明六一揆」であったと思う。
父兄が殺害された川原を眺め,焼け落ちた屋敷跡で,母親や周囲から津川原の惨劇を聞いて育ち,青年期には郷里を離れて京都に暮らし,後に東京で慶応義塾に学び,一時は大阪に私塾を開校しながら,それでも彼は郷里に戻ってきた。
彼は必死に,その理由を探していたのだろう。なぜ襲われなければならなかったのか。なぜ父兄は彼らに殺されなければならなかったのだろうか。

部落解放運動に身と私財を投じたのも,彼の無念の思いからであったと思う。

焼かれた屋敷跡に暮らし,襲ってきた本人やその子孫を目にしながら日々を過ごす,その心情は如何なるものであっただろう。人力車とお抱えの車夫を持つ彼は,車上から近隣の農民を見下ろし,意趣返しをしたというが,本当の彼の心情はわからない。

それは,今も加茂谷,美作にある「現実」なのだ。決して過去のことではない。

posted by 藤田孝志 at 20:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 明六一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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