2012年02月10日

岡山藩の「目明し」役(1)

岡山藩で穢多身分の者に「目明し」役を命じるようになった経緯を,人見彰彦氏の「部落史のひとこま」の史料と記述を参考にまとめておきたい。


岡山藩で「目明し」が散見される最も古い史料は,1656(明暦2)年の「若州小浜へ御使者として垣見七郎左衛門つかわされる。これ似せ銀の目明シめしつれつかわされるなり」(『備陽国史類編』)である。

明暦2年,岡山藩では「偽銀貨鋳造事件」がおこり,それに関連して「目明し」が登場した。藩主池田光政は,犯人を逮捕し,拷問し,事件の全貌を解明して幕府に報告している。この史料は本事件の顛末を記した報告書である。

  似せ銀吹共惣目録

一 備前邑久郡虫明村九郎兵衛,こくい二本所持仕候 四度拷問,最前より有様ニ白状仕候,大形ハ此者之口ニ而知申候
一 備前岡山本願寺町五郎左衛門,こくい三本所持仕候 五度拷問
一 同 児島郡槌ヶ原村市郎兵衛,こくい壱本所持仕候 五度拷問
一 同 岡山又兵衛町三郎右衛門,古こくい壱本所持仕候得共役ニ立不申,五郎左衛門こくい借り候而吹申候 五度拷問
一 同 津高郡金川村甚三郎,こくい一郎兵衛手前より請取吹申候 六度拷問
一 同 岡山二日市町久大夫,こくい九郎兵衛ニ借り候而吹申候 五度拷問
一 同 児島郡北浦村七郎兵衛,こくい五郎左衛門ニ借り候而吹申候 九度拷問,此者有姿ニ相見へ不申候ニ付,度々拷問仕候

此七人之者共ハ,度々船ニ而似せ銀吹申候儀,紛無御座候

この史料に続き,「似せ銀ヲ遣荷持仕候者共」として10人の名前と罪状,「似せ銀吹候刻,船ヲ借り,水手ニ罷出者共」として8人の名前と罪状,「他国ニ罷有,似せ銀ヲ買取遣申者共」として3人の名前および「相果申由之者共」として9人の名前と罪状が列挙されているが,ここでは転載しない。

人見氏は,史料の紹介の後,次のように述べている。

このように事件が次々とおこされますと武士の手のみでは捜索しきれません。世間の事情に通じている人々が総動員され,それにともなって治安警察のしくみも整えられていったようです。「目明し」だけでなく「おんぼう次郎九郎,このたび似せ銀穿鑿ニつき,数日相詰骨折候ニつき,麦拾俵つかわさる旨,老中,町奉行大原孫左衛門ニ申し渡さる」(留帳)と「おんぼう次郎九郎」も活躍しており,彼はすぐ後に「町方盗賊見廻り役…つかまつり候様仰せつけなされ」(市政提要)と書いています。


人見彰彦氏の「部落史のひとこま」に,元禄時代に活躍した目明し「嵐山角(覚)右衛門」が書き残した文章が紹介されている。これらの史料も岡山部落問題研究所に所蔵されている。

 乍恐口上

私は貞享四年(1684)のくれにこの村にまいり,おかみの御用を勤めております。その時,手当として,私に一日に米一升,家内人数男女に御蔵麦を御定の通り下されることとなっております。つまり,御野郡・上道郡より米五石・麦五石ずつ下さるようになっていますが,毎年定められたほどは請取ってはいません。ここへ来た時は,少しも耕作はしないで手当のみで生活しているため,やりくりがつかず大部借銀もしました。どうにもならなくなり,元禄七年のくれ,実情を報告しますと,沖新田村の死牛馬掃除権をくださり,それを売って大部の借銀を支払うことができました。しかし,去年より地御用・旅御用がたび重なり出費が激増し,当年の暮れの諸払いは全くできなくなりました。そこで,やむなく女房を離別し里へ帰し,娘二人は備中の知人にあずけ,下人・下女三人は帰し,私一人となり出費を少しでも抑えようとしているありさまです。どうか定められた手当は,各郡ともきちんとくださるように,よろしくご指導のほど御願いいたします。

 元禄十年十二月        御野郡 角右衛門

角右衛門が差配していた「御野郡・上道郡」にはどのくらいの村落があったのか。それを知る史料も紹介されている。それは,角右衛門が配下の「穢多判頭」に命じて「夜廻り」を請け負っている史料である。抜粋して転載する。

右拾七ヶ村□□より夜廻りつかまつる。
子ノ八月廿七日        穢多判頭  弥兵衛
                    同     庄兵衛

右弐拾八ヶ村□□より夜廻りつかまつる。
子ノ八月廿七日      穢多判頭  太左衛門
                 同      清左衛門

右三拾ヶ村□□より夜廻りつかまつる。
子ノ八月廿七日      穢多判頭  八郎兵衛

村数合七拾五ヶ村,其外枝村まで残らず吟味つかまつり,夜廻りつかまつらせ申すべく候。以上
元禄九年子ノ八月廿八日
             御野郡□□村  角右衛門

これを見ると,岡山城下周辺の村々(75ヶ村:この史料にはすべての村名が記されているが,その転載は割愛した)を三分割し,近隣に位置する穢多村3ヶ村にそれぞれ割り当てて夜廻りをさせ,それを采配しているのが角右衛門であることがわかる。

夜廻りの「手当」(費用)は,関係する御野郡・上道郡から郡割として徴収している。


『撮要録』によれば,元禄十一年に嵐山覚右衛門が岩田町に作られた「目明し屋敷」に入っている。以後,「穢多町廻り次郎兵衛下人一人召連,引越」「延享二年より町廻り徳右衛門住宅」「明和元年より穢多庄左衛門住宅」等々と「穢多」が「目明し屋敷」に入っている記述が史料に見られる。

人見氏は,子の池田綱政が父光政が強行した「キリシタン神道請」などの諸政策を改め,村落支配の機構を改編した藩政改革の一貫として,穢多身分の実力者を「目明し」に登用し,各郡より手当を出させる仕組みを整えたのではないかと考えている。

今の私には,それを検証するだけの知識はないが,岡山(美作を含めて)の穢多・非人の歴史について解明したいという思いは強い。

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2012年02月08日

岡山藩の「穢多頭」(1)

岡山部落問題研究所機関誌『調査と研究』に連載された人見彰彦氏「部落史のひとこま」に紹介されている史料を引用(転載)させてもらいながら,岡山の「穢多頭」について考察してみたい。
その史料は「穢多頭前々動向書上帳」である。これは,穢多頭が命じられている「役務」と「仕置き」に関して述べたもので,仕置や磔に関する
絵図も描かれている。

穢多頭の動向について書上げるように仰渡されたので左のように書上げます。

一,当村が始まってより数代,穢多頭を仰付られ,臨時の御用も大切に勤めてきました。そして,寛延三(1746)念三月十八日,今日より「郡中締方」「備中国穢多惣頭」「帯刀御免」「郡中村々江割賦永代弐人扶持」「御用灯提壱張下置」を仰付けられました。
一,盗賊・悪党はいうまでもなく,すべて不正の者を遠国まで探索するように命ぜられ,御判物をいただいて出発しております。
一,隠密の御用を命ぜられ,御前様御書をいただき勤めております。
一,死罪御仕置の場合,四・五日前からひそかに命ぜられますが,無事に勤めております。
一,当支配下・他所の穢多・煙亡・非人・無宿・御百姓躰のもので,当御役所より当方へ引渡されたものの咎は前例に依って無事にとりはからってきております。
但し,御仕置の時は,その罪の軽重をもって,非人手下,又は遠国非人手下,あるいは日数を定めて留籠に入れたり,あるいは手鎖のうえ禁足,あるいは戸をしめて禁足,又は入墨のうえ重敲にします。
御仕置された者を引渡す時は,入墨のうえ三日留籠に入れ,今後は当支配所や近国を徘徊しないようにきびしく申して追い払います。入墨は,男の場合左の二の腕え墨の幅三歩,間五歩にして輪を二筋引廻し,壱筋は上の方を三歩切り,他の壱筋は下之方を三歩切ります。女は右の腕を同様にいたします。
一,御追放の仕置の場合,棒かつぎ人足を手下の者に勤めさせ,国境まで道中固メ役を勤めております。
一,御引廻しのうえ死罪,あるいは獄門の御仕置者の場合,御定めの場所を引廻した後,御検士様御出張の場合,御定めの場所を引廻した後,御検士様御出張のうえ死刑の御仕置を勤めております。
一,御牢屋の吟味の場合,手下の者をつれてまかり出て,無事に勤めております。
一,庭瀬駅まで御囚人を差出す場合,煙亡・非人共を囚人かつぎ人足として申しつけ,道中固めとして私手下の者壱人差添て,無事勤めております。
一,悪党を捕える道具,すなわち威鉄砲壱挺・三道具壱組・其外の捕方道具一切の使用を許されています。
一,威取強盗・火付・忍取盗賊を召捕った時は,きびしく取調べた後,留籠に入れ,直に報告しております。
但し,留籠壱戸前は,御上様より下し置き,大破した場合は御造り直しを願いあげることとなっております。
一,当御支配下,他所の穢多・煙亡・非人の類を召し出される場合,穢多頭が差添としてまかり出ております。
一,右の外に臨時の御用は,右に準じて相勤めております。

右の通り相違ございません。
                              穢多惣頭
文政十二年五月
大草太郎右馬 様
倉敷御役所

御仕置御用の時,御入用物や穢多頭がつれていく人足や,人足の手当銀・書付等について,左之通り書上げます。

磔御仕置之事

一,御仕置当日,道中先払壱人,此御手当銀三匁
一,紙幟持壱人,此御手当銀三匁
一,同道中読人壱人,此御手当銀三匁
一,捨札持壱人,此御手当銀三匁
一,三道具三人,此節手当銀九匁,但,壱人ニ付三匁宛
一,抜身槍弐人,此節手当銀六匁,但,右同断
一,突人弐人,此節手当銀五拾目,但,壱人弐拾五匁宛
一,棒かつぎ拾弐人,御囚人前後六人宛,
此御手当銀三拾六匁,但,壱人三匁宛
一,非人弐人,但,御囚人を乗せる馬口取夫
此御手当銀六匁,但,壱人三匁宛
一,縄取弐人,此御手当銀拾弐匁,但,壱人六匁宛
一,御囚人押固メ弐人,此節手当銀六匁,但,壱人三匁宛
一,穢多頭鼻紙料として銀拾弐匁くだし置れ候
一,召連夫壱人,此節手当銀三匁
一,御仕置場所手伝四人,此御手留銀拾弐匁,但,右同
一,煙亡・非人十弐人,但,御仕置死骸御晒中番,昼四人夜八人宛,此節手当銀拾八匁,但,壱人壱匁五分宛
一,非人三人,但,御仕置死骸番小屋こしらえ夫 此節手当銀四匁五分,但,壱人壱匁五分宛
一,穢多頭手下弐人,但,磔場所昼夜見つくろい夫 此節手当銀六匁,但,壱人三匁宛
一,同壱人,但,御仕置前日,場所見つくろい,非人共へ万事差図つかまつり候夫,此御手当銀三匁
一,非人拾弐人,但,御仕置前日場所掃除,道具,垣つくろい夫共,此御手当銀拾八匁,但,壱人壱匁五分宛
一,煙亡四人,但,御晒後死骸取片付夫 此御手当銀六匁,但,右同

右御仕置御入用物左之通ニ御座候

一,松六寸角弐間物壱本
一,弐寸角弐間物弐十本
一,松小丸太壱本
一,六尺杭弐拾本
一,六分板壱枚
一,松割木十弐束,但,御仕置場所夜分篝入用,一夕分
一,九分割壱本
一,馬弐疋,但,壱匹は道中用意馬ニ御座候
一,木綿三反
一,芋縄弐拾四尋
一,壱間半大身槍弐筋
一,手堤壱つ
一,柄杓壱本
一,茶碗壱つ
一,半紙弐状
一,日笠紙十弐枚,但,幟ニ仕立
一,莚七枚
一,小竹弐拾束
一,五寸廻竹壱本,但,幟棹長見積り
一,縄拾束
一,鎌五丁
一,四寸針三本
一,ろうそく五丁,但,一夕分

右之通,磔御仕置御入用物相違御座無く候

「文政十二年」は西暦では1829年,第11代将軍徳川家斉の治世であり,幕末に近い。

この史料を見ると,「穢多頭」の役務である治安警察と行刑の内容が具体的に書かれており,よく理解できる。

簡単にまとめれば,郡中の取締・国中の穢多統率・盗賊悪党の探索・隠密の御用・処刑・処罰・取調・逮捕・囚人の護送・臨時の御用などで,これらの役務を実行するために,「帯刀御免」「永代弐人扶持」「御用提灯の使用」「国外での探索」「威鉄砲やすべての捕方道具の使用」「煙亡や非人の使用」等々が許されている。

また,「磔」が実施される場合,70人もの「穢多・非人・煙亡」が動員され,「引廻し」から「処刑」「死骸片付」まで細かく役割が分担され,その役割に応じて「手当」の賃金まで決められている。「磔」が古来よりの「慣例」に従って行われてきたことがよくわかる。

posted by 藤田孝志 at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 穢多・非人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

岡山の「捕亡吏」(1)

人見彰彦氏の「部落史のひとこま」(『調査と研究』)に紹介されている史料に「用留」がある。これは,岡山部落問題研究所に保存されている史料で,備中国の穢多頭の系譜をもつ家に残されていたものとある。「用留」とは,業務日誌あるいは備忘録のようなもので,役務上の記録や見聞したものを書き留めたと考えられる。

この「用留」に,捕亡吏についての記述がある。

徒刑人逃亡之者,探索目印之為メ,判頭申付置候ニ付,右様之者区内え立寄候ハバ,見当次第捕押え差出すべき旨,兼々触達し置候処,かえって徒刑如く頭髪ヲ剃り候者間々これ有哉之趣,案外之事ニ候,ソレ人トシテ恥ヲ戒,善ニ移ルハ古今之通義ニ候所,刑人之刑状ニ倣フハ如何之心得ニ候哉,本人之狂妄ハソレ迄ニシテモ,其父兄タル者,又ハ戸長タル者ニ於テ不怪,傍観候義,以テ之外事ニ付,これに依各区へ捕亡吏ヲ遣し,巡察セシメ,右様狂妄之者有之候ハバ,本人ハ勿論,戸長等迄品々寄,相当申付方もこれ有べく候条,急度醜躰ヲ戒メ,良風ニ移り,巡察吏ニ不被目付様,小前末々迄洩なく懇諭いたすべし,此内意相達候也

明治六年八月    小田県権令   矢野 光儀
             小田県参事   益田 包蔵

右御触書之趣,急度相守,聊心得違これあるまじき事

明治六年八月十日      戸長    三宅 染次
                副戸長   児島徳平次

文意は,徒刑人と同じように頭を剃る者がいるので,「捕亡吏」を巡回させて取り締まるよう命じる「御触書」である。


小田県は,1871年(明治4年)に備中国および備後国東部を管轄するために設置された県であり,現在の岡山県西部,広島県東部にあたる。設置当時は深津県と称した。1872年(明治5年)に小田県に改称となる。1875年(明治8年)に小田県が岡山県に統合され,1876年(明治9年)に備後国側の地域が岡山県から広島県に移管され現在に至る。

小田県は明六一揆に際して隣接する村々への波及を危惧して,県官を派遣して情報を収集し,管内へ「厳密手配」を布達したり,人民に告諭したりしている。また政府へも情況を報告している。明六一揆に関する史料として「小田県史」は重要な史料である。その中にも,次のように「捕亡吏」の記述が見られる。

六月壱日,右妄動ニ付,備中国賀陽軍宮内村及加茂村辺エ多人数集合,全ク伝染ノ趣ニ相聞,同辺戸長共,併最寄巡回捕亡吏ヨリ注進ニ付,権大属杉山新十郎ニ申含,鎮撫トシテ,今朝高松村エ差向候。然ル後,尚不容易形勢ニ付,大属尾木方倫捕亡吏壱名差出シ,百万説諭,集合ヲ解キ,尋デ毎人ヲシテ徴兵令ノ趣意ヲ説解ス。

この史料は明治六年のものであり,また「用留」も明治六年の史料であることから,「捕亡吏」に「穢多」が任命されていたことは明らかである。

人見氏の同記事には,「これとは別の史料ですが」と断った上で,穢多を「捕亡吏」の役務を申し付けた史料が紹介されている。

其方共儀,改めて捕亡吏方頭取申付候,実貞にあい勤むべく候,別段,元仲間の者共儀,一同捕亡方申付候,其方共よりあい達つすべく事

出典や年代が明記されてしないため詳しくはわからないが,穢多頭を捕亡吏方頭取に,その手下共を捕亡方に申し付けていることは確かである。
だが,「捕亡吏」の記述は,岡山では明治4年の史料から登場してくるが,小田県以外の県ではどうであったか,それは不明である。各県の実情によって違っていたと考えられる。
また,部落民が「賤業拒否」として「目明」役や「捕亡吏」の役務を拒否したことも十分に考えられる。実際,警察制度が整えられていく中で,部落民は除外されていった。

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2012年02月04日

明六一揆論(8):詫書

部落が農民に対して出した「詫書」(詫状)には何が書かれていたのだろうか。

『備前・備中・美作百姓一揆史料』(第5巻)所収「初屋文書」より「差入申御詫書」を転載し,内容を考察してみる。

       差入申御詫書

私共儀,従来穢多之称ニ而御平民様と格別之隔別有之,御本村様御規定御座候処,御一新ニ付而は難有御趣意ヲ以て,御天朝様ヨリ平民同様被為仰出,古来稀成趣意之程奉戴,格別相慎ミ可申之処,却而心得違ノ廉ニ奉恐入先非後悔罷在候,然ル上は土居内一同相慎ミ,向後従前之通礼譲相守,急度相勤可申候,尚御本村は不及申他村ニ至ル迄,御門内ニおいて履物等仕間敷候,且途中ニ而御出合申候節は,従前之通履物ヲ取,厚ク礼譲ヲ尽可申候間,是迄心得違之段平ニ御免被成下度,偏ニ御詫奉申上候,依之一同連印御詫一礼奉差上候処如件

明治六年五月廿九日
                  勝加茂東村  元穢多  籾吉
                                外廿名
御百姓衆中 様

次の「詫書」は錦織村が差し出したものである。

(前欠カ)

村方へハ御沙汰無之ニ付,銘々一同恐レ罷在共,何卒御違乱之思召ニ候ハヽ,今後御気ニ叶候段順可仕候,尚亦召連之思召ニ候得共,猶更違背仕間敷候間,御焼亡之義偏ニ御容怒被成下度,一村一同臥而御詫申上候,以上

明治六年 酉五月廿八日
                    第廿六区
                    久米北条郡大久保村
                    惣代
                    勘次郎以下 九十三名
各村々
御一統衆中 様    

先日訪ねた「中津井騒擾・美作騒擾」パネル展で公開されていた「詫状」がある。
これは,かつて私が拝見した原文を現代語訳したものであると思う。出典が明記されていなかったので,私も明らかにはできないが,原文の文字には一揆勢に対する恐怖と無念の思い,屈辱が滲み出ていた。

     あやまり一札の事

                 我々義
従前よりは別けて あい慎み無礼等
仕りまじく なおこの上はいかようにも
あやまりいりそうろう間 このたびおたすけ
お願い申し上げたてまつり 後日のため土井内連印
あやまり一札差し出す所 よってくだんのごとし

                 □□□之内
                      □□
明治六年五月廿九日
                  誤主(謝主)
                    十四名
                    以上連印
御旦那中様

一揆勢に襲撃された部落のほとんどが「詫書」を書いて,解放令以後の非礼・増長を詫び,「旧慣」を守って従前通りの身分(の扱い)でかまわないと誓約している。

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明六一揆論(7):小林久米蔵(3)

久米蔵が捕らえた津川原村の村民の名前を行重村の山口徳蔵に書き留めさせた理由を,上杉聰氏は下津川村の副戸長豊田貢の目撃証言から,次のように推察する。

当時八歳の豊田貢は,そのときの様子を,のちに次のように書いた。

「暴徒は津川原に到達すると,夕刻火を一時に放ち,元穢多百余戸を全焼させた。煙と炎は天を埋め尽くし,数里四方をあかあかと照らしだした。元穢多はうしろの山へ非難したが,これを探知した暴徒たちは,山を二重,三重に包囲した。夜が明けるのを待ち銃殺(銃殺は前日のことである)し,捕縛するのが見えた。縛った者は,これを河原に引きだした。縛られた者のうち,日頃おとなしく,言語や動作がすべて穢多のならわしを守っている者へは,頭髪に紙片を結びつけ,それを目印にして解放した。その他は,すべてその場で惨殺した」(履歴書草稿)

ここで注目されるのは,“良い部落民”には頭に白い紙を結びつけ,解放したことである。これをしなければ,ふたたび農民が捕らえて河原に連れてくるかもしれない。繁雑さを避けるため,一目でわかる印をつけたのである。
山口徳蔵が名前をいちいち記録したのも,おそらく,誰を釈放したか,確認するためであったのだろう。

上杉聡『部落を襲った一揆』

「首実検」「人物改め」である。一揆勢は「詫書」(詫び状)を書けば許してもきた。同様に,津川原村の人々を河原に引き立て,「増長」「傲慢」な者とそうでない者を選別し始めたのである。

原文には「平素温順にして,言語動作の凡て穢多の旧慣を守りし者」とある。つまり,選別の基準は,一般村民に対する「不遜」「増長」「傲慢」な言動を(「近村を軽蔑)しているかどうか,「元身分(の態度)を守って」いるかどうかであった。

その数が30人名ばかりになった頃,宰務喜一郎が捕まり,引き立てられてきた。


宰務喜一郎ならびに同人男龍太郎を縛し連れ越し,ただちに殺すべき勢ひにつき,右両人は,兼ねて近村を軽蔑致し候者にて,幸ひと存じ,凶徒共に向かひ,この者どもは平常,所業宜しからざる者につき,殺害に及ぶべき旨相呼ばはり,指揮に及び候ところ,もとより殺すべき勢ひの党民ども,一時に人気相たち,すぐさま両人とも川原の方へ連行候間,自分同所に居合はせては知る人も多分これ有り,後難を差し量り,その場を立ち退き,暫時致し同所へまかり越し候処,もはや両人はもちろん,その他六,七人河原において追々殺され居り候につき,残る婦女子は助命致し遣はし候様,党民どもに申し聞かせ置き帰宅致し,


宰務喜一郎とその長男龍太郎が縛られて連れて来られ,すぐにも殺しそうな勢いであったので,この二人はかねて近村の者を軽蔑してきた者なので,これ幸いと思い,この者たちは平生の言動が良くない者なので殺すべきだと叫び,(殺せ)と命令しました。もとより殺す勢いの一揆勢ですので,一時に気勢が上がり,すぐさま二人を河原に連れて行きました。
自分が(殺害)現場に居合わせたら,(自分のことを)知っている人も多分にあるはずなので,後で厄介なことにならないようにと考えて,その場を立ち退き,しばらくしてから現場へ戻ってみますと,すでに二人はもちろん,その他6,7人が河原で次々に殺されていましたので,残りの婦女子は助けてやれと,一揆勢に言い聞かせておいて帰宅しました。

当時,宰務喜一郎は40歳,隆太郎は22歳であった。河原には,すでに杉原長蔵(63歳)や朝日八郎(31歳)などが縛られて土下座させられていた。

津川原村の長である宰務一族は,久米蔵にとっては最も「心憎い」相手であった。それは,平生から「近村を軽蔑致し候者」だからであり,宰務一族に対して日頃より許し難い怒りを感じていたのである。積もり積もった「鬱憤」を晴らすときと思った久米蔵は,躊躇なく「殺害」を命じた。

なぜ,久米蔵は「軽蔑された」と感じていたのだろうか。

上杉氏は前掲書で,次のように考察している。

部落の人々が「傲慢になったこと」,否,あたりまえの人間の振る舞いをしたことを,彼は「被害者感覚」でのべているのだった。
たしかに,農民たちにとってみれば,これまで被差別部落の側が農民をはばかり,へりくだることで,「御百姓」としての「誇り」を与えられてきた。ということは,部落の側がそうすることがなくなれば,「誇り」も奪われることになる。それはとりもなおさず,いたく「軽蔑される」感覚を生じさせた。
加えて,相手がそれまで人間とさえ見なされなかった者であれば,傷つけられる度合いは,より深刻となる。

一揆勢においても,津川原村のすべての者は知らなくても,村の長である「宰務喜一郎とその長男龍太郎」の顔は知れ渡っていたと考えてもよいだろう。それだけ「宰務一族」は美作でも大富豪であった。宰務家は屋号を「根床」と称し,村の長をつとめてきた家柄であった。

解放令以後,津川原村の人々は「旧慣」を守らなくなる。道で会っても履物を脱ぎ土下座して挨拶することはしない。下駄や傘も平気で使うようになる。

そうなると逆に目に付いてくるのが,津川原村と妙原村の財力の差である。妙原村の主産業は農業であり,それほどに広い田畑を耕作しているわけでもなく,経済的には苦しい農民が多い寒村ある。
それに比べて,津川原村は加茂川を使って薪炭その他の物資を運送する船便の要衝であり,舟運は賤業の一種でもあり,被差別民である津川原村の専業になっていた。舟運による収益に支えられて津川原村の財力は蓄積され,その財力で田畑を手に入れていったと考えられる。さらに幕末から明治になり,商品流通が活発化するにつれてすます運送業の需要は高まり,その収益は増大していく。そして,その利益は津川原村の長である宰務一族が独占し,その財力から美作全域に知られる富裕な資産家となったのである。
また,その財力を活用して高利貸しや地主を行っていた。伝え聞いたことであり確証はないが,近在の一般村民に対しても金や小作地を貸していたともいう。

その富裕な財力で,この時に一緒に殺害された武士出身の「朝日八郎」を手習師匠として雇っている。上杉氏の前掲書には,隣村(津山とも)まで他人の土地を踏まないで行けたとか,小作の届ける米俵が山となったとか,人力車とお抱えの車夫を持つ正視はいつもしれで外出して車上より農民を見下ろして意趣返しをしたとか,財力の豊富さを語る逸話が紹介されている。

宰務家の土塀の上に据えられた「黒塗りの砲身二門」を見た一揆勢が本物の「大砲」と思い,躊躇した理由も,津川原村の財力を知っていたからであろう。(実際は,肥担桶に紙を貼って黒く塗ったものである)

他方,久米蔵たち一揆勢の生業は農業であり,所持する田畑の石高も決して多くない。むしろ美作の地形からも山間の田畑であり,貧しい寒村の百姓がほとんどである。処罰としての「罰金」(二円二十五銭)さえ払えず,借用しなければならなかった貧しい農民が多かったという。


江戸時代,解放令が出されるまでは,収益が多くとも賤業を行う「穢多」であり,身分や社会的位置(社会外の存在)がちがっているため,財力を妬ましいと思うことはあっても「穢多になりたい」とも「賤業をしたい」とも思うことはなかった。彼らを見下し蔑むことは当然の権利であった。彼ら部落民が自分たち百姓に対して礼儀を尽くすことは彼らが守るべき「慣習」(幕府や藩からのお触れ)であった。
しかし,解放令により「身分・職業とも平民同様」となったことで,「外の社会」の存在であった者が「(同じ)内の社会」に入ってくる。同じ振る舞いをする。「慣習」は守らなくなる。

財力の差が「屈辱」として実感させられることになる。
劣等感(コンプレックス)は「被害者意識」に結びつく。従前とは異なる言動は「増長」「傲慢」と感じられ,自分の惨めさを思い知らされ,さらに「被害者意識」は倍加して,抑えがたい「憤怒」となって鬱積していった。

津川原村の豊かさに比べて妙原村の貧しさ,「財力の差」はそれだけで自分が「軽蔑されている」気持ちになっていったことは容易に想像できる。


久米蔵は「指揮」はしたが,処刑の場にはいなかったと再三繰り返している。殺害に関与すれば「後難を差し量り」と思ったからだというが,なんとも勝手な人間である。

残る「婦女子」は助けてやったという。久米蔵の高慢さ,津川原村の部落民に対する意識が伺える供述である。


殺害の状況について他の者の供述書も詳しくはない。久米蔵の「指揮」を合図に誰彼なく一斉に殺害に及んだと考えるべきであろう。

『美作騒擾記』によれば「最初に半之亟(喜一郎)を牽出し,これを水留(溜)の中に突落し,悲鳴を挙ぐるを容赦なく,鑓にて芋刺に串貫き,且つ,石を投げ付けてこれを殺したり」「夫より順次に同一方法を用ひて五人を殺し」たとある。

『岡山県史料』にある「北条県臨時裁判所調書」によれば,喜一郎は「疵六ヶ所」,隆太郎は「疵九ヶ所」,喜一郎の次男喜平(16歳)は「疵四ヶ所」,朝日八郎は「疵総身に数ヶ所,創痕詳に記難し」とあり,別には「五体実に蜂の巣の如くなりし」とも伝えられている。

翌三十日に至り,前書指揮に及び候末,その場の人気とは申しながら,ついに惨殺相成り候儀を,何となく底気味悪しく候より,後難をのがるべしと存じ,津川原村,昨日打ち洩らされし者ども,なおも討ち取るべしとの風聞これあるを幸ひに,助命の儀取り扱ひ遺すべき旨,前書光五郎へ申し聞かせ,従前の身分を相守り候趣の村々宛証書へ,右村総代として,光五郎に調印致させ取りおき,副戸長鈴木春太郎手許へ預けおき候。右始末は,すべて自分一己に取り計り候儀にて,いささかも関係の者と相謀り候儀にはない候事。


翌30日,(先に書いた)指揮によって,その場の雰囲気とはいえ,ついには人を惨殺してしまったことを,何となく底気味悪く思われ,後難を逃れようと考えました。津川原村の昨日殺されなかった者をなおも殺せという噂が聞こえるのを幸いに,(彼らの)命を救う段取りをするため,先に出てきた光五郎に,従前(通り)の身分を守るという村々宛の証書を書かせ調印させ,それを副戸長の鈴木春太郎の手許に預けて置きました。右(今回の)始末は,すべて自分一人が計画して行ったことで,少しも関係者と共謀したものではありません。

翌日,自分の指揮により惨殺させたという「何となく底気味悪しく候」という気持ちがあったのだろうが,再び河原に行き,昨日殺さなかった者をなお殺してしまおうという雰囲気が一揆勢にあると知り,残りの者の「助命」をしてやろうと考えたと久米蔵は述べている。
そして,津川原村の光五郎に村々宛の「詫書」を書かせ調印させている。

多くの者の殺害を命じていながら,その惨殺死体がそこにあり,津川原村の人々が仲間の死を悲しみながらも我が身も殺されるかもしれぬ恐怖を感じて平伏している姿を見下ろして,なお久米蔵は「詫書」を書かせている。

助けてやったという思い,顔役としてのプライド,ついに詫びさせたという思い,はたして彼の心はどうであったのか。自分の「指揮」で殺害してしまったことを「何となく底気味悪しく候」とは思っても,自分の行動に対する反省はなかったのではないだろうか。津川原村の人々の思いなど,彼には最後まで届くことはなかったのではないだろうか。

従前通りの「旧慣」を守らせる「詫書」を書かせたこと,これが彼の「目的」であったのである。旧来の秩序を回復することが彼の,そして一揆勢の「大義名分」だったのである。


小林久米蔵は,筆保卯太郎らとともに,明治7年2月2日津山伏見町にあった監獄内において処刑された。享年52歳である。
なお,上杉氏の前掲書には処刑地を「兼田橋近くの八出河原」とあるが,好並先生の調査では「懲役百日以下の者を一日を一笞杖に換算して尻を鞭ったのが宮川大橋西詰であり,その地点が八出に近い所からこうした伝承が生まれた」とあるように誤認である。また,処刑の月日も上杉氏は「翌7年7月2日」と書いている。なお,好並先生の調査した「西法寺の過去帳」によれば7月2日没であり,53歳である。

処刑者の屍は戸板に載せられて街道を運ばれたと伝えられている。
津川原村の前を,村人に担がれた戸板に載った斬首された死体が加茂谷に帰って行く。その様子を津川原の人々はどんな思いで見つめていたことだろうか。

宰務正視も幼い目に,その情景を母親とともに見つめていたことだろう。

私は正視の建立した碑文を読むたび,この情景を眺めたであろう彼の心情を思う。私が明六一揆をライフワークにした理由もそこにある。差別は人間の心を残酷にする。決して癒されることのない傷を残す。

posted by 藤田孝志 at 06:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 明六一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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