2012年02月08日

岡山藩の「穢多頭」(1)

岡山部落問題研究所機関誌『調査と研究』に連載された人見彰彦氏「部落史のひとこま」に紹介されている史料を引用(転載)させてもらいながら,岡山の「穢多頭」について考察してみたい。
その史料は「穢多頭前々動向書上帳」である。これは,穢多頭が命じられている「役務」と「仕置き」に関して述べたもので,仕置や磔に関する
絵図も描かれている。

穢多頭の動向について書上げるように仰渡されたので左のように書上げます。

一,当村が始まってより数代,穢多頭を仰付られ,臨時の御用も大切に勤めてきました。そして,寛延三(1746)念三月十八日,今日より「郡中締方」「備中国穢多惣頭」「帯刀御免」「郡中村々江割賦永代弐人扶持」「御用灯提壱張下置」を仰付けられました。
一,盗賊・悪党はいうまでもなく,すべて不正の者を遠国まで探索するように命ぜられ,御判物をいただいて出発しております。
一,隠密の御用を命ぜられ,御前様御書をいただき勤めております。
一,死罪御仕置の場合,四・五日前からひそかに命ぜられますが,無事に勤めております。
一,当支配下・他所の穢多・煙亡・非人・無宿・御百姓躰のもので,当御役所より当方へ引渡されたものの咎は前例に依って無事にとりはからってきております。
但し,御仕置の時は,その罪の軽重をもって,非人手下,又は遠国非人手下,あるいは日数を定めて留籠に入れたり,あるいは手鎖のうえ禁足,あるいは戸をしめて禁足,又は入墨のうえ重敲にします。
御仕置された者を引渡す時は,入墨のうえ三日留籠に入れ,今後は当支配所や近国を徘徊しないようにきびしく申して追い払います。入墨は,男の場合左の二の腕え墨の幅三歩,間五歩にして輪を二筋引廻し,壱筋は上の方を三歩切り,他の壱筋は下之方を三歩切ります。女は右の腕を同様にいたします。
一,御追放の仕置の場合,棒かつぎ人足を手下の者に勤めさせ,国境まで道中固メ役を勤めております。
一,御引廻しのうえ死罪,あるいは獄門の御仕置者の場合,御定めの場所を引廻した後,御検士様御出張の場合,御定めの場所を引廻した後,御検士様御出張のうえ死刑の御仕置を勤めております。
一,御牢屋の吟味の場合,手下の者をつれてまかり出て,無事に勤めております。
一,庭瀬駅まで御囚人を差出す場合,煙亡・非人共を囚人かつぎ人足として申しつけ,道中固めとして私手下の者壱人差添て,無事勤めております。
一,悪党を捕える道具,すなわち威鉄砲壱挺・三道具壱組・其外の捕方道具一切の使用を許されています。
一,威取強盗・火付・忍取盗賊を召捕った時は,きびしく取調べた後,留籠に入れ,直に報告しております。
但し,留籠壱戸前は,御上様より下し置き,大破した場合は御造り直しを願いあげることとなっております。
一,当御支配下,他所の穢多・煙亡・非人の類を召し出される場合,穢多頭が差添としてまかり出ております。
一,右の外に臨時の御用は,右に準じて相勤めております。

右の通り相違ございません。
                              穢多惣頭
文政十二年五月
大草太郎右馬 様
倉敷御役所

御仕置御用の時,御入用物や穢多頭がつれていく人足や,人足の手当銀・書付等について,左之通り書上げます。

磔御仕置之事

一,御仕置当日,道中先払壱人,此御手当銀三匁
一,紙幟持壱人,此御手当銀三匁
一,同道中読人壱人,此御手当銀三匁
一,捨札持壱人,此御手当銀三匁
一,三道具三人,此節手当銀九匁,但,壱人ニ付三匁宛
一,抜身槍弐人,此節手当銀六匁,但,右同断
一,突人弐人,此節手当銀五拾目,但,壱人弐拾五匁宛
一,棒かつぎ拾弐人,御囚人前後六人宛,
此御手当銀三拾六匁,但,壱人三匁宛
一,非人弐人,但,御囚人を乗せる馬口取夫
此御手当銀六匁,但,壱人三匁宛
一,縄取弐人,此御手当銀拾弐匁,但,壱人六匁宛
一,御囚人押固メ弐人,此節手当銀六匁,但,壱人三匁宛
一,穢多頭鼻紙料として銀拾弐匁くだし置れ候
一,召連夫壱人,此節手当銀三匁
一,御仕置場所手伝四人,此御手留銀拾弐匁,但,右同
一,煙亡・非人十弐人,但,御仕置死骸御晒中番,昼四人夜八人宛,此節手当銀拾八匁,但,壱人壱匁五分宛
一,非人三人,但,御仕置死骸番小屋こしらえ夫 此節手当銀四匁五分,但,壱人壱匁五分宛
一,穢多頭手下弐人,但,磔場所昼夜見つくろい夫 此節手当銀六匁,但,壱人三匁宛
一,同壱人,但,御仕置前日,場所見つくろい,非人共へ万事差図つかまつり候夫,此御手当銀三匁
一,非人拾弐人,但,御仕置前日場所掃除,道具,垣つくろい夫共,此御手当銀拾八匁,但,壱人壱匁五分宛
一,煙亡四人,但,御晒後死骸取片付夫 此御手当銀六匁,但,右同

右御仕置御入用物左之通ニ御座候

一,松六寸角弐間物壱本
一,弐寸角弐間物弐十本
一,松小丸太壱本
一,六尺杭弐拾本
一,六分板壱枚
一,松割木十弐束,但,御仕置場所夜分篝入用,一夕分
一,九分割壱本
一,馬弐疋,但,壱匹は道中用意馬ニ御座候
一,木綿三反
一,芋縄弐拾四尋
一,壱間半大身槍弐筋
一,手堤壱つ
一,柄杓壱本
一,茶碗壱つ
一,半紙弐状
一,日笠紙十弐枚,但,幟ニ仕立
一,莚七枚
一,小竹弐拾束
一,五寸廻竹壱本,但,幟棹長見積り
一,縄拾束
一,鎌五丁
一,四寸針三本
一,ろうそく五丁,但,一夕分

右之通,磔御仕置御入用物相違御座無く候

「文政十二年」は西暦では1829年,第11代将軍徳川家斉の治世であり,幕末に近い。

この史料を見ると,「穢多頭」の役務である治安警察と行刑の内容が具体的に書かれており,よく理解できる。

簡単にまとめれば,郡中の取締・国中の穢多統率・盗賊悪党の探索・隠密の御用・処刑・処罰・取調・逮捕・囚人の護送・臨時の御用などで,これらの役務を実行するために,「帯刀御免」「永代弐人扶持」「御用提灯の使用」「国外での探索」「威鉄砲やすべての捕方道具の使用」「煙亡や非人の使用」等々が許されている。

また,「磔」が実施される場合,70人もの「穢多・非人・煙亡」が動員され,「引廻し」から「処刑」「死骸片付」まで細かく役割が分担され,その役割に応じて「手当」の賃金まで決められている。「磔」が古来よりの「慣例」に従って行われてきたことがよくわかる。

posted by 藤田孝志 at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 穢多・非人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

岡山の「捕亡吏」(1)

人見彰彦氏の「部落史のひとこま」(『調査と研究』)に紹介されている史料に「用留」がある。これは,岡山部落問題研究所に保存されている史料で,備中国の穢多頭の系譜をもつ家に残されていたものとある。「用留」とは,業務日誌あるいは備忘録のようなもので,役務上の記録や見聞したものを書き留めたと考えられる。

この「用留」に,捕亡吏についての記述がある。

徒刑人逃亡之者,探索目印之為メ,判頭申付置候ニ付,右様之者区内え立寄候ハバ,見当次第捕押え差出すべき旨,兼々触達し置候処,かえって徒刑如く頭髪ヲ剃り候者間々これ有哉之趣,案外之事ニ候,ソレ人トシテ恥ヲ戒,善ニ移ルハ古今之通義ニ候所,刑人之刑状ニ倣フハ如何之心得ニ候哉,本人之狂妄ハソレ迄ニシテモ,其父兄タル者,又ハ戸長タル者ニ於テ不怪,傍観候義,以テ之外事ニ付,これに依各区へ捕亡吏ヲ遣し,巡察セシメ,右様狂妄之者有之候ハバ,本人ハ勿論,戸長等迄品々寄,相当申付方もこれ有べく候条,急度醜躰ヲ戒メ,良風ニ移り,巡察吏ニ不被目付様,小前末々迄洩なく懇諭いたすべし,此内意相達候也

明治六年八月    小田県権令   矢野 光儀
             小田県参事   益田 包蔵

右御触書之趣,急度相守,聊心得違これあるまじき事

明治六年八月十日      戸長    三宅 染次
                副戸長   児島徳平次

文意は,徒刑人と同じように頭を剃る者がいるので,「捕亡吏」を巡回させて取り締まるよう命じる「御触書」である。


小田県は,1871年(明治4年)に備中国および備後国東部を管轄するために設置された県であり,現在の岡山県西部,広島県東部にあたる。設置当時は深津県と称した。1872年(明治5年)に小田県に改称となる。1875年(明治8年)に小田県が岡山県に統合され,1876年(明治9年)に備後国側の地域が岡山県から広島県に移管され現在に至る。

小田県は明六一揆に際して隣接する村々への波及を危惧して,県官を派遣して情報を収集し,管内へ「厳密手配」を布達したり,人民に告諭したりしている。また政府へも情況を報告している。明六一揆に関する史料として「小田県史」は重要な史料である。その中にも,次のように「捕亡吏」の記述が見られる。

六月壱日,右妄動ニ付,備中国賀陽軍宮内村及加茂村辺エ多人数集合,全ク伝染ノ趣ニ相聞,同辺戸長共,併最寄巡回捕亡吏ヨリ注進ニ付,権大属杉山新十郎ニ申含,鎮撫トシテ,今朝高松村エ差向候。然ル後,尚不容易形勢ニ付,大属尾木方倫捕亡吏壱名差出シ,百万説諭,集合ヲ解キ,尋デ毎人ヲシテ徴兵令ノ趣意ヲ説解ス。

この史料は明治六年のものであり,また「用留」も明治六年の史料であることから,「捕亡吏」に「穢多」が任命されていたことは明らかである。

人見氏の同記事には,「これとは別の史料ですが」と断った上で,穢多を「捕亡吏」の役務を申し付けた史料が紹介されている。

其方共儀,改めて捕亡吏方頭取申付候,実貞にあい勤むべく候,別段,元仲間の者共儀,一同捕亡方申付候,其方共よりあい達つすべく事

出典や年代が明記されてしないため詳しくはわからないが,穢多頭を捕亡吏方頭取に,その手下共を捕亡方に申し付けていることは確かである。
だが,「捕亡吏」の記述は,岡山では明治4年の史料から登場してくるが,小田県以外の県ではどうであったか,それは不明である。各県の実情によって違っていたと考えられる。
また,部落民が「賤業拒否」として「目明」役や「捕亡吏」の役務を拒否したことも十分に考えられる。実際,警察制度が整えられていく中で,部落民は除外されていった。

posted by 藤田孝志 at 14:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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