2012年02月08日

岡山の「捕亡吏」(1)

人見彰彦氏の「部落史のひとこま」(『調査と研究』)に紹介されている史料に「用留」がある。これは,岡山部落問題研究所に保存されている史料で,備中国の穢多頭の系譜をもつ家に残されていたものとある。「用留」とは,業務日誌あるいは備忘録のようなもので,役務上の記録や見聞したものを書き留めたと考えられる。

この「用留」に,捕亡吏についての記述がある。

徒刑人逃亡之者,探索目印之為メ,判頭申付置候ニ付,右様之者区内え立寄候ハバ,見当次第捕押え差出すべき旨,兼々触達し置候処,かえって徒刑如く頭髪ヲ剃り候者間々これ有哉之趣,案外之事ニ候,ソレ人トシテ恥ヲ戒,善ニ移ルハ古今之通義ニ候所,刑人之刑状ニ倣フハ如何之心得ニ候哉,本人之狂妄ハソレ迄ニシテモ,其父兄タル者,又ハ戸長タル者ニ於テ不怪,傍観候義,以テ之外事ニ付,これに依各区へ捕亡吏ヲ遣し,巡察セシメ,右様狂妄之者有之候ハバ,本人ハ勿論,戸長等迄品々寄,相当申付方もこれ有べく候条,急度醜躰ヲ戒メ,良風ニ移り,巡察吏ニ不被目付様,小前末々迄洩なく懇諭いたすべし,此内意相達候也

明治六年八月    小田県権令   矢野 光儀
             小田県参事   益田 包蔵

右御触書之趣,急度相守,聊心得違これあるまじき事

明治六年八月十日      戸長    三宅 染次
                副戸長   児島徳平次

文意は,徒刑人と同じように頭を剃る者がいるので,「捕亡吏」を巡回させて取り締まるよう命じる「御触書」である。


小田県は,1871年(明治4年)に備中国および備後国東部を管轄するために設置された県であり,現在の岡山県西部,広島県東部にあたる。設置当時は深津県と称した。1872年(明治5年)に小田県に改称となる。1875年(明治8年)に小田県が岡山県に統合され,1876年(明治9年)に備後国側の地域が岡山県から広島県に移管され現在に至る。

小田県は明六一揆に際して隣接する村々への波及を危惧して,県官を派遣して情報を収集し,管内へ「厳密手配」を布達したり,人民に告諭したりしている。また政府へも情況を報告している。明六一揆に関する史料として「小田県史」は重要な史料である。その中にも,次のように「捕亡吏」の記述が見られる。

六月壱日,右妄動ニ付,備中国賀陽軍宮内村及加茂村辺エ多人数集合,全ク伝染ノ趣ニ相聞,同辺戸長共,併最寄巡回捕亡吏ヨリ注進ニ付,権大属杉山新十郎ニ申含,鎮撫トシテ,今朝高松村エ差向候。然ル後,尚不容易形勢ニ付,大属尾木方倫捕亡吏壱名差出シ,百万説諭,集合ヲ解キ,尋デ毎人ヲシテ徴兵令ノ趣意ヲ説解ス。

この史料は明治六年のものであり,また「用留」も明治六年の史料であることから,「捕亡吏」に「穢多」が任命されていたことは明らかである。

人見氏の同記事には,「これとは別の史料ですが」と断った上で,穢多を「捕亡吏」の役務を申し付けた史料が紹介されている。

其方共儀,改めて捕亡吏方頭取申付候,実貞にあい勤むべく候,別段,元仲間の者共儀,一同捕亡方申付候,其方共よりあい達つすべく事

出典や年代が明記されてしないため詳しくはわからないが,穢多頭を捕亡吏方頭取に,その手下共を捕亡方に申し付けていることは確かである。
だが,「捕亡吏」の記述は,岡山では明治4年の史料から登場してくるが,小田県以外の県ではどうであったか,それは不明である。各県の実情によって違っていたと考えられる。
また,部落民が「賤業拒否」として「目明」役や「捕亡吏」の役務を拒否したことも十分に考えられる。実際,警察制度が整えられていく中で,部落民は除外されていった。

posted by 藤田孝志 at 14:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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