2012年01月10日

明六一揆論(5):小林久米蔵(1)

津川原村の本村にあたる妙原村の「顔役」小林久米蔵は,明六一揆の「津川原村襲撃」に関わるkey personである。

「北条臨時裁判所調」に記載されている「小林久米蔵」の自供書について,その読み下しと現代語訳を試みながら,検証と考察を行ってみたい。


あらためて幾度か彼の自供書を読み返し,関連資料を参照しながら,いくつかの疑問点が浮かんできた。

なぜ,彼あるいは本村である妙原村の人間が直接に手を下さなかったのか。
実際は殺害に手を出しているのかもしれないが,裁判記録では「煽動者」「指示者」「造意者」という理由で小林久米蔵と鈴木七郎治が斬罪となっている外に,妙原村の人間は処刑されていない。

ここで,彼ら以外の斬罪に処せられた者を列挙してみる。

川田嘉平治・宇治貞蔵(東北条郡宇野村),高橋弁蔵(東北条郡公郷村)
芦谷島五郎(東北条郡物見村),芦田島吉(勝北郡新野西村)
内田数平(勝北郡新野山形村),内田豊蔵(勝北郡成安村)
水島寅平・大谷類次郎・小島伴次郎・井上良蔵・芦田林平
                               (勝北郡広戸村)
筆保卯太郎(西々条郡貞永寺村)

筆保卯太郎を除く13名が津川原村襲撃(惨殺)の罪に問われている。彼らの村は津川原村の周辺に位置しており,宇野村・公郷村・物見村・成安村は旧加茂町内(現津山市),広戸村・新野西村・新野山形村は旧勝北町内(現津山市)にある。これらの村は津川原村の周囲(谷を挟んだ位置)にあり,距離的にもさほど遠くない。

「明六一揆」経路図(上杉聡『明治維新と賤民廃止令』より転載)

それゆえ,津川原村の人間をまったく見知らぬとは思えない。成安村や公郷村など旧加茂町内にある村々が津山に出る場合は,必ず加茂川側の一本道を往来する以上,津川原村の前を通ることになる。
また,勝北郡に通じる道も川沿いに津川原につながっている以上,広戸村の住民と面識が全くないとも思えない。

久米蔵の供述に従えば,枝村である津川原村を助けてやろうという気持ちが裏切られ,調停役としての面子(プライド)が大きく傷つき,今まで腹に据えかねて蓄積されていた鬱憤と結びつき,ついに憤懣が一気に吹き出しての残虐行為というのであれば,彼が直接に手を下してもおかしくはない。
あるいは,「顔役」としてのプライドから「指揮者」になりたかったのか。

「詫書」と「殺戮」とのギャップの大きさにも疑問を感じている。抵抗する村,反抗的な村に対する容赦のない残酷性はどこ(何)から生まれた感情なのだろうか。


自分儀,壮年の頃相撲を好み,他村の者共と広く相交はり候,村内に縺れ事など出来候節は,すべて談を受け,取り扱ひ致し居り候,当五月二十七日,趣意は相わきまえず候へども,加茂村あたりにて,百姓一揆おこり,追々近村を脅誘致し候,右随行の儀,村内者どもより相談これ有り候に付き,党民ども,押し寄せ来たり候はば,やむを得ず随行致すべし,左なきうちは,是より踏み出し候儀は宜しからざる旨,相示し置き候,


自分は若い頃,相撲が好きで,他村の者とも広く交際していた。そのせいで,何か「縺れ事」(揉め事)があれば,すべて相談を受けて,自分が取り仕切っていました。ところが,5月27日,理由はよくわかりませんが,加茂村で百姓一揆が起こり,近村に対して順々に脅かして(参加を)呼びかけてきていました。(ということで)村内の者からどうすればよいか相談を受けました。それで,徒党を組んだ農民たちが参加しろと強制されて断り切れない場合は,止むなくついて行くしかないだろう。そうなるまでは,こちら側から踏み出すようなことは良くないと指示しておきました。

加茂村から津山城に向かうには加茂川沿いに下っていく。その途中に「妙原村」と「津川原村」がある。一揆勢は,途中にある川筋の村々を強引に脅して参加させて勢力を増やしながら下って来る。

この供述から,久米蔵は一揆の理由をよく知ってはおらず,妙原村の村民から相談を受けて,断り切れなければ参加するように指示している。しかも,自分たちからは参加しないようにとまで言っている。
このことから妙原村も久米蔵も当初から積極的に津川原村を襲撃する考えはなかったということになる。

あるいは,久米蔵は止むを得ず強制されて参加しただけだと強調することで罪を軽くしてもらおうと思ったのか。


翌二十八日払暁,果たして凶徒ども多人数近傍に押し寄せ候に付き,拠んどころなく一同随行いたし候へども,自分は罷りいで申さず候,然るところ,隣村津川原村旧穢多ども,従前の身分を相守らせ候上,強訴の先鋒に致さすべく,その儀相拒み候節は,たちまち村内放火乱暴に及び候よしに,伝承いたし候,
付いては,同村の儀は当村副戸長より兼帯致しおり,公私ともに当村の命令に従ひ候,先般穢多号を御廃止の後は,元身分を忘れ,自然不敬の仕向,少なからざる折からにつき,右躰方,今危急の場合を取り扱ひ凌がせ候はば,向後当村を敬し,すべての儀に随従致すべくはもちろん,隣村の儀,類焼の患もなく,かたがた,両全にこれあるべしと,自分一己に存じつき候,津川原村前田光五郎・鳴瀬森太郎へ面会し,
本日,党民共近傍へ押し寄せ候儀は,穢多号を御廃止の後,近村の者へ対し不敬の仕向少なからず候につき,元身分の通り,下駄傘等は村内より外へは相用ひず,かつ,近村の平民へ用向きこれ有る節は,門外より草履を脱ぎ,途中にて出会候時は,頭を地に下げ礼譲正しく致すべく,その証拠として,今般県庁に強訴の先立致すべき旨の証書を差し入れ候はば,危難も相のがるべくやの旨申し聞かせ候


翌28日の明け方,一揆勢が多数押し寄せてきました。それで止むを得ず,一同はついて行きました。しかし,自分は出て行きませんでした。そうしていると,津川原村の部落民を「従前の身分を相守らせ」て,強訴の先頭に立たせる,もし断れば村内に放火して乱暴をしてやるという話になっていることを聞きました。
津川原村のことは,副戸長が兼任で管理しており,公私ともに妙原村の指示に従ってきました。先般の解放令によって賤称を廃止されて以後,元の身分を忘れ自然不敬な態度が少なくない状況なので,何とかこの急場をうまく凌ぐことができれば,今後,津川原村は妙原村を尊敬するようになり,すべてのことについていうことを聞き従うようになるだろう。隣の村でもあるのだから類焼の恐れもなくなるだろう。両方にとってもよいことだと考えて,津川原村の前田光五郎と鳴瀬森太郎に会いに行きました。
今日,一揆勢がこの近くに押し寄せてくるのは,賤称廃止後,(津川原村の者が)近村の者に対して不敬な態度であることが少なくないからで,従来のように,下駄や傘は村外では使わず,近村の平民に用向きがある場合は,門外より草履を脱ぎ,途中で出会ったら頭を地に下げる(土下座する)ように礼儀正しくしなければならない。その証拠として,今回の県庁への強訴には先頭に立つという旨の証書を差し出すならば,危難を逃れることもできると聞かせました。

久米蔵は,「一同」(妙原村の村民たち)は一揆勢に参加していったが,自分は行かなかったと言う。理由は述べていない。

当時の久米蔵の年齢は51歳である。他の処刑者が20代〜30代前半(芦谷は53歳,大谷は42歳)であることから考えても,一時の感情に流されやすい血気盛んな若者とはちがい,ある程度の冷静さはあると思う。村の「顔役」でもある。

このときになり,久米蔵は一揆勢が津川原村を襲うことを知る。
解放令後の「不敬な態度」については自分も「増長している」と日頃から思っていたので,同感の思いがしたことだろう。懲らしめてやりたいという思いは強かった。
それに,一揆勢は従わなければ火を付けると言っているから,自分の村も類焼の被害を受けるかもしれない。そこで,彼は津川原村が要求に従えば,両方にとって好都合だと考え,「顔役」である自分が調停役をしようと思ったと述べている。久米蔵は善意で行動したことを強調している。


ここで整理しておきたい。

久米蔵の不満・憤激は,一般村の百姓も同様に思っている(感じている)ことである。

「元身分を忘れ,自然不敬の仕向」とは,「穢多(身分)」であったことを忘れ,従来は行っていた「礼譲」をしなくなったことであり,それを「不敬な態度」「増長」として不満に思い,憤激しているのだ。
従来の「礼譲」とは,下駄や傘は村外では使わず,近村の平民に用向きがある場合は,門外より草履を脱ぎ,途中で出会ったら頭を地に下げる(土下座する)ように礼儀正しくすることであった。
だが,これは「身分」が「穢多」であったときに,幕府や津山藩から命じられたことであり,身分制度における「ルール」であった。
明治となり,幕府から政府へと支配体制も変わり,政治や社会のシステムも大きく変化している。「解放令」もその同じ変革として命じられた。

しかし,百姓は「解放令」を受け入れてはいない。身分のちがう(異なる)「穢多」から自分たち百姓と同じ「平人」になったことを認めてはいない。認められないのだ。納得ができないのだ。そのため,喜びをもって積極的に受け入れた「部落民」とは,意識・考えが根本的にちがっている。そして,その「認識の相違」が久米蔵や一般村の百姓にはまったく思いも寄らないのだ。

反対に,部落民の行動原理は,理に適っている。
解放令によって「平人」となった以上は,「穢多」のすべきルールや礼儀は守る必要はない。行う必要もない。一般村の百姓と同様のルールで行動すればよい。だから,従前のような礼譲はしなくてもよいと考える。身分や立場が変われば,行動様式も変わる。

長年,差別されてきた思いは強い。屈辱的な仕打ちを受けてきた。理不尽な要求にも従ってきた。決して「同等の扱い」「同じまなざし」で接してはくれなかった。そこには,いつも「ちがい」と「分け隔て」があった。


だからこそ,津川原村の決意は固い。

もとより当村においては,御県庁へ迫り,強訴致し候存意は更にこれ無き間,承服致し難し。しかる上は,乱暴におよばれ候とも致し方なく決心まかり有り候旨,相答へ候,甚だ失望致し立ち帰り候


いうまでもなく当村では,県庁に迫って強訴しようという気持ちは毛頭ありません。そのような(申し入れは)到底承服できません。その結果,乱暴されても仕方がないと覚悟しています,と答えるので,とても失望して帰宅しました。

久米蔵は打ちのめされてしまう。「顔役」としてそれなりの自負心もプライドもあっただろうが,津川原村の決心の一言で,脆く崩れ去ってしまった。そして,彼は深く傷つき帰宅する。

久米蔵は,このときに気づくべきだった。
時代の大きな変化と自分たちが津川原の部落民にしてきた差別と賤視,それらを撥ね除けようと動き出した部落民の決意と覚悟に気づくべきであったのだ。

下部構造の大きな変動を受けて上部構造が変動しようとするとき,新しいイデオロギーを受け入れることができない勢力による反動が起こる。「従前」に固執する勢力は,変革を阻止するための反動として動く。

posted by 藤田孝志 at 05:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 明六一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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