2010年09月06日

岡山藩の非人(3):照葉狂言

「山の者」は,その生活手段として門付け芸等の雑芸をしていた。岡山(備前)藩もこれを黙認していたが,無制限ではなかった。

山之者之内,女とも春分三味線弾候て町方え門付ニ罷出候事,前々より出来り之事ニ候得は先不苦候,尤店先又ハ座敷え上り候て弾候事決て不相成事,衣類其外目立不申様可致事

(『市政提要』「次郎九郎両山非人并穢多之事」二十六)

この史料は,天保十四(1843)年の布告である。「山の者」の女たちによる門付け芸は一応は許可されているが,身分相応の態度を厳命され,衣類や派手な興行は制限されている。

第五代藩主の治政は非常に遊び好きで,児島の瑜伽山の門前町における芝居・遊郭・富くじを黙認し,自らも度々ここに遊びに行き,芝居見物などをした。しかし,ここは岡山城より遠く不便でもあったため,その分社を岡山に移して,東山の山上に由伽神社及び松琴寺をつくった。そして,松琴寺にはお籠り堂と称して舞台を作り,児島に来演した上方役者をここに招致して芝居を上演させ,上級武士たちと観劇していた。松琴寺において上方役者による芝居が行われるたびに,その下働きとして,平素から芸事に習熟していた「山の者」を使った。
「山の者」は,このようにして松琴寺に出入りするうちに,上方役者の芸を見真似で覚え,鳴物などの取り扱いにも馴れて,今までの門付け芸ではなく本格的芝居を体得し,「照葉狂言」(能狂言を通俗的娯楽化させたもので,当時は大阪あたりで流行していた)を,彼らで作った一座で演じるようになっていった。

この一座は,岡山の場末の祭礼などに呼ばれて村々を巡業するばかりでなく,小豆島や讃岐にまで出かけていった。明治維新前後には,中村玉造・市川右太次・中村小翫次などと称する役者が出て,播州播磨で催された「隣国大寄名人芝居」にも参加している。明治になっても岡山最初の劇場である旭座・柳川座・花海軒などでも「照葉狂言」を上演して好評を得ていた。

posted by 藤田孝志 at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 穢多・非人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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