2010年09月06日

岡山藩の非人(2):山の者

東山峠は元来乞食屋敷にて御座候処,東照宮御勧請遊ばされ候節,御山より御目付,見苦しく思し召され候由にて奥市へ送られ候。其跡,荒地に罷り成り候処,明暦年中,伴元祭殿願い候に付き少将(光政)様御代三友寺に御寄付仰付下され候

(『撮要録』「寺社の部」)

この史料から,東山峠の登り口(三友寺・現在の博愛会病院)にあった「乞食部落」(非人部落)が,玉井宮の地に東照宮が勧請されると,そこから見下せることになり,それは余りに見苦しいので奥市の谷池(狼谷)に追い込まれ,そこから更に山に追い上げられて湊の山上に移らされたことが推察できる。

岡山藩の「非人」が「山の者」と呼ばれる理由である。その非人部落ができたのは寛文4(1664)年頃であった。この非人村には,百姓または町人で借金により破産した者,家賃を滞納して家主より訴えられた者,駆け落ちして出奔したがつかまって連れ戻された者,その他軽微な犯罪を犯した者が,村や町の人馬帳(人別帳)より外されて「帳外者」とされ,ここに収容されたのである。収容されることを「山登りを命じられる」と言う。

尾上町市郎右衛門借家欠落人七兵衛倅千太郎・同三太郎・娘ふく三人之もの山え揚ル,七兵衛義近年家賃余ほと不足有之由訴訟申出候ニ付て也

(『市政提要』「次郎九郎両山非人并穢多之事」四)

この乞食部落(非人部落)に収容されたもの(「山の者」)を「両山の者」ともいうのは,この地が「古山乞食村」と「新山乞食村」の二つに分かれていたからである。

奥市の谷池(狼谷)に追い込まれたのち,さらに追い出されたとき,一方は網浜村の郷内にある山に移転し,これを「古山乞食村」という。もう一方は門田村の枝村である徳吉村の塔の山(現在の県立岡山朝日高等学校南の丘陵地に塔があったので「塔の山」という)に一度移転し,更に古山乞食の居た網浜の郷内のさらに奥ある内谷に引っ越したので「新山乞食村」といった。この「古山乞食村」と「新山乞食村」をあわせて「両山の者」,あるいは「山の者」と呼んだのである。

この「山の者」の支配責任者は,最初は町奉行であったが,寛文5(1665)年よりは寺社奉行より分かれて新設されたキリシタン奉行に任せられたらしい。その輩下として直接に「山の者」を取り締まっていたのは,城下の常盤町に住んでいた「次郎九郎」という者であった。


 乍恐奉書上

一 私祖先は御野郡銭屋敷ニ浪人ニて住居仕居申候処,正保(1644〜48)年中之頃常盤町引越居申候,当時御用之儀為御雇被仰付候処,延宝(1673〜81)年中之頃御奉行石田鶴右衛門様・岩根周右衛門様御時,町方盗賊見廻り役并両山之者共諸事差配仕候様被為仰付,町方見廻り給御上様より銀百目頂戴仕,惣町中より米拾八石,但壱石ニ付銀五拾目相場ニ〆御割付被為遣候

内町十一町

但御家持一軒より 三十文

借家一軒より  拾 文

中六町

但御家持一軒より 弐拾文

借家一軒より  五 文

外町

但御家持一軒より 拾 文

借家一軒より  三 文

都合銀九百目御座候処,時節悪敷御座候哉,年々減少仕候ニ付迷惑仕居申候,二十年以前ニも御嘆上奉申上御触被為遣候へ共,兎角時節柄悪敷御座候故,只今ニて新銀札三百五拾目程御座候処,先年より私同家之者え相応割遣し,私囉候分弐百三拾目程御座候,同家之者百三拾目程御座,町々より請取申候儀は,其町々町代衆中より取集囉申候,町中御座メ之内年々減少仕候故甚難渋仕居申候,御上様より御銀百目頂戴仕候処,御銀札初り候節より御銀札ニて頂戴仕来り居申候処,森川藤七郎様御時,親次郎九郎銀札五拾目御増被遣,只今迄毎暮古札百五拾目頂戴仕申候

一 広沢喜之介様御時明和六(1769)年丑六月ニ,私見習被為仰付難有奉存上候,見習給銀札百目毎暮頂戴仕居申候処,其後五拾目御増被為遣候段難有奉存上候,天明四(1784)年辰五月十日ニ親次郎九郎病死仕居申候ニ付,其節川口忠左衛門様御時同六月二日ニ町見廻り被為仰付相勤居申候,亡次郎九郎通り銀札百五拾目毎暮頂戴仕候処,森川吟右衛門様御時寛政三(1791)年亥八月十二日,御米拾俵頂戴仕難有奉存上候,翌年河合兵大夫様御時,勝手向難渋御聞および被遊,御米七俵頂戴仕難有奉存上居申候,夫より毎暮七俵ツゝ頂戴仕難有仕合奉存上居申候,湯浅新兵衛様御時寛政八(1796)年辰六月ニ倅吉三郎見習被為仰付,銀札百目毎暮頂戴仕難有奉存上候

一 出火之節町御会所え山之者拾五人召連相詰申候

一 京橋御掛替御普請之間,非常不常之者相渡申候儀,船御用場より船請取山之者渡し守ニ被為仰付,西中島下川原より御蔵前片瀬町構え船着ニ致,西中島町川原渡し場え山之者弐人ツゝ昼夜指置申候,小屋入用代并昼夜扶持方御立被為遣申候,御普請相済候節渡し船山之者え被為遣申候

一 御巡見様御通行之節,私見廻り并御通り道浦筋へ山之者出張被為仰付候

一 御上様御発駕御帰城之節并御祭礼之砌,私見廻り山之者もの御通り道之町々え指置申候

一 御酒折宮・伊勢宮御神事之節,私山之者召連出張申候

一 御尋者御同心様御出之節,旅行御連被成参り申候

一 御獅子狩并備中宮内芝居其外所々御出張之節,御連被成参申候

一 盗賊致候もの帳付之無構押へ取,留籠え入置山之者番ニ付置申候,尤御屋敷懸り合之者ハ其町ニ指置御下知奉待候

一 備中板倉ニ泊り御当地え日々ニ通ひ候諸国種々之商人,先年御指留ニ相成候処,元文四(1738)年ニ私方相届申候者とも他国御尋者御用之節,諸国ニ馴染之者御座候得は手掛りニも相成候と奉存,伺上候処御聞届可被遊候

一 河合兵大夫様御時寛政七(1795)年卯七月十八日,夜より更廻り増番被為仰付候時分,夜更候て帯刀致候人ニても紛敷相見へ候得ハ,帰り候を跡より見届屋敷を見覚へ可申出候,若途中ニて彼是申候得は,及深更ニ何御用ニて御通り候哉御名元可被仰候と申,返答不致腰之物

  抜掛候ハゝ擲落し可申,左様之事有之候ハゝ上下御同心屋敷え早速注進可致,向後其心得ニ相勤可申と被為仰付候

一 同(1795)年十二月二日常念寺様え遊行上人様御出之節,同五日之昼九ツ時ニ備中船尾村小野五郎兵衛殿と申仁参詣致し候処,寺内ニて紙入紛失致し候ニ付吟味致候様被為仰付,段々聞合候得とも相知れ不申候,翌六日ニ被為仰付候て私山之者弐人出張候様ニ御申付,出張場所ハ御同心より指図請相勤可申候,尤七日より山之者は出張ニ及不申,私計出張候様被為仰付,向後群集仕候場所ハ其心得ニて相勤可申と被為仰付候

一 湯浅新兵衛様御時寛政八(1796)年辰五月廿六日より六月三日迄,東岳山松客寺様信州善光寺様出開帳ニ付,出張被為仰付候

一 断罪磔付獄門打首火罪人等御用之儀は先年より被為仰付候,夫々え移り合先格之通取計仕申候

一 両山之非人共先年在方町方より山上り被為仰付候者ニて,凡百五拾年以前ニ相成申候と山之者より承り申候,其後百弐拾年以前,山より東中島町え帰り申者山屋甚兵衛と申候,只今其跡は無御座候,上道郡網浜村郷内之山ニ居申候を古山と申候,同郡門田村之内徳与志村塔之山ニ居申候処,御城下繁昌仕候ニ付,同村郷内之奥内谷辺え引越居申候を新山と申候

一 両山之者共私差配被為仰付候節,御屋敷方町方見廻り一日ニ三人夜ニ五人昼夜ニ八人被為仰付候,但シ一人え御蔵麦壱升ツゝ御立被為遣候

一 丁番弐拾人御定被為仰付,惣町中え一ヶ月ニ米六斗御割付被為遊,但壱人ニ壱合ツゝ山之者惣町中取集囉申候

一 山之者毎日罷出見廻り,野乞食物囉等紛敷者町外レえ払出候様被為仰付候

一 町手無宿牢死人并行倒もの死骸取捨其外勤方之儀ハ,前格之通山之者ニ申付候,右之通乍恐奉申上候,御上様御厚恩之以御影,数代相来り候段重々難有仕合奉存上候,以上

享和三(1803)年亥二月     常盤町 次郎九郎

(『市政提要』「次郎九郎両山非人并穢多之事」十九)

この史料は,享和3(1803)年2月に,次郎九郎より町奉行に出された先祖と今まで勤めてきた役務に関する書上である。次に,この史料からわかることをまとめてみたい。

次郎九郎の祖先は,御野郡銭屋敷(現岡山市二日市・旧岡山刑務所付近)にて浪人をしていたが,正保年中に城下の常盤町(現田町一丁目東部から中央町東部)に引越し,キリシタン奉行の配下として延宝年中に町方盗賊見廻り並びに両山の者(非人)の諸事差配を命じられた。

「次郎九郎」の身分は「烟亡(隠亡)」であり,世襲名として代々相続されて受け継がれている。ただし,文化十一(1811)年に,不祥事件をおこして罷免され他国に追放されたため,その血統は絶えて他の者が同名でその役職を引き継いでいる。

この事件について,『池田家履歴略記』には,次のように記されている。

平井山・泰山に居る乞食ども内信心(日蓮宗不受不施派)の坊主,高遵という者を信仰して乞食の佐五郎という者の家に数年かくまい置きたる事,露顕し,高遵は捕られぬ。両山の乞食一統は四月二日,夫々軽重の咎あり,以後,以前の宗旨に立戻るべしとの証文書せられる。百姓の内にもかの僧を信仰の者あれば其れ又お咎めありしなり。

また,『市政提要』では,次のように記されている。

 次郎九郎義内信一件ニ付御咎被仰付候始末

次郎九郎義東山非人共之内ニ久々内信坊主ヲ指置候ニ付,郡代より目明し罷越右坊主を召捕,并山之者共段々召捕ニ付夫々調らへ之上,文化十一戌二月廿四日於郡会所大御目付手御穿鑿有之,次郎九郎并山之者之内長屋入被仰付,山之もの共追々御免被成別帳ニ委シ,次郎九郎義は同十二亥二月十一日追払被仰付,則目明し御境え召連罷越候由,依之当時欠役と相成候ニ付御咎,早々同家ニ居申隠亡仁平と申者仮役ニ申付,其段大御目付中えも咄し置迄也,尤追々払被仰付候後断絶致し候付,右仁平え跡家内引受之儀願之趣,惣年寄久米屋勇吉より申出候ニ付承届遣候処,仁平請込人ニ板倉衆之進殿御領分備中浅口郡玉島村隠亡利平次と申者之弟利吉と申者引受願,子五月十二日指出候ニ付是又承届,向後次郎九郎と相改可相勤旨,惣年寄江田勇吉え口達ニて申移,此段為念大御目付中えも咄置候事

   右願左ニ記ス

(『市政提要』「次郎九郎両山非人并穢多之事」二十)

この事件で,次郎九郎はその監督責任を問われ,その役職を免ぜられ他国追放となったので非人総領の役も欠員となった。その際,次郎九郎の家に厄介になっていた玉島出身の隠亡仁平という者が代役を命じられたが,その後仁平は郷里の玉島村に居た甥の利吉を次郎九郎の跡目相続に願い出て許され,以後はこの者の子孫が次郎九郎の名で非人の総領となった。

すなわち,正保年中から文化十一年までの約165年間ほど続いた前代の次郎九郎の系統と,文化十一年から明治四年までの約六十年間続いた後代の次郎九郎に二分されながらも,岡山の非人支配はこの次郎九郎によって差配されてきたのである。

明治となり近代警察制度が発足した際,次郎九郎は,両山の非人を率いて町の盗賊見廻り方を行っていた前歴を買われて,県警察官に採用され,姓も能勢と給わって能勢次郎九郎と名乗り,穢多目明しであった岡勝右衛門とともに新町の鬼刑事となったと伝えられている。


「両山の者」(非人部落)の人数は,『備陽記』によれば,竈数百九軒,男百八十四人,女百六十二人,合計三百四十六人とある。

次郎九郎の役目は,盗賊見廻り方と両山非人の差配であるが,この史料に記されているそれまでに勤めてきた役務をまとめてみると,消火の手伝い,船着き場(川渡し場)の番及び渡し守,巡見通行や城主帰城及び祭礼の際の見張り番,捕縛した盗賊の見張り番,同心の下働き,紛失物の探索,断罪等御用(行刑),牢死人や行き倒れ等の死骸処理,野非人や帳外者の追い払い,市中(城下の武家屋敷地・町中)の昼夜見廻り,など多岐にわたっている。だが,基本的には,市中見廻り及び見張り番,行刑の手伝いと死骸処理である。次郎九郎の差配に従い,同心などの下働きを命じられて勤めている。

これらの役務に対する給付をまとめると,次のようになる。

岡山藩より銀百目…目は匁であるから,1両=銀50〜60匁として,約2両

惣町中より米18石…米1石につき銀五拾目であるから,銀900匁として,約18両

ところが年々,減少して,町々の町代(町役人)衆より,家之者の分(百三拾目)と合わせて三百五拾目程になった。藩からは,町奉行森川藤七郎の時に,五拾目の加増があり,毎年の暮れに百五拾目を支給されている。また,寛政三年に米拾俵を給付され,翌年よりは毎年米七俵を支給されている。(武家)屋敷方及び町方の見廻りを1日につき昼夜で8人がおこなっているが,それに対して藩より1人につき麦一升を支給されている。他にも,番役20人に対して町中より一ヶ月に米六斗ほど(ただし1人につき1合)を受け取っている。

また,両山の上に「御免地(免税地)」が1反五畝ほどあり,自作していたようである。

「両山の者」の人数(約三百数十人)から考えれば,乞食としての施しがあったにせよ,生活は苦しく貧しかったと思われる。それを補っていたものが,門付け芸などの勧進であった。

posted by 藤田孝志 at 17:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 穢多・非人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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