2010年09月04日

岡山藩の非人(1):両山乞食

近世岡山藩においては,「穢多」と「おんぼう」と「両山乞食」の三身分が賤民の中心として存在していたものと考えられている。

治安維持については,「穢多」の動員に関して,貞享四年に「穢多」から「目明」役に就任した嵐山覚右衛門が画期となっている。岡山藩の「評定記録」によれば,覚右衛門の就任以後に「穢多」による「夜廻り」や盗人逮捕の事例が見られるようになる。したがって,覚右衛門の「目明」就任は,「穢多」を治安維持に動員する上で重要な意味を持っていたと考えることができる。

「おんぼう」次郎九郎は,「町方盗賊見廻り役」を務めている。「両山乞食」の支配を開始する延宝期以降は,「両山乞食」を伴って,取締り・追払(見廻役)を行うようになる。この見廻役は,城下の「葬式火葬」独占と不可分の関係にあり,「おんぼう」としての特徴である葬送権確保のための見廻役であったと考える。

「野乞食」追払を在方で担う「非人番」は,「穢多」と「非人」双方が行っている。ただし,「非人」による「非人番」の事例においても,「穢多」の「世話」によって「非人番」に就任しており,「非人番」は基本的に「穢多」によって組織化されていたものと考えられる。

この他にも賤民の活動として,死体処理や斃牛馬処理・勧進行為などがあげられる。これらのうちで,死体処理に関しては,正徳期の藩による確定以外,具体像をつかむことができていない。また,斃牛馬処理に関しても,「穢多」による讃岐への牛皮買集や死馬獲得の事例と「平人」による牛皮集荷や大坂「役人村」への牛皮輸送の事例が見られる程度であり,その具体像は解明できていない。


以下の史料は,享保16(1731)年,岡山藩の城下校外にいた両山乞食が,城下常盤町にいた隠亡頭の次郎九郎の手下であることを拒否したため追払処分となった経緯を町奉行がまとめたものである。

史料に見える岡山藩の「乞食」は,承応年間(17世紀中頃)前後からである。『市政提要』に収録されている享和3(1803)年の次郎九郎の「書上」によれば,次郎九郎の祖先は,御野郡銭屋敷にいた浪人であったが,正保年中のころ,常盤町に引っ越し,延宝年間(1673〜81)には,「町方盗賊見廻り役并両山之者共諸事差配」を命じられたとある。さらに,承応2(1653)年ごろ,両山の非人が「在方町方より山上り」を命じられたともある。

このことから,17世紀中頃,岡山藩が乞食統制を行ったと考えられる。支配(統制)形態としては,町奉行−町惣代−「隠亡」次郎九郎−両山乞食頭−両山乞食 であった。

両山とは,古(本)山(上道郡網浜村郷内之山)と新山(同村内之奥内谷辺)をいう。


元禄15(1702)年,万成(刑場)での「はりつけ」の死骸取り片付けについて,「隠亡」次郎九郎が「穢多」多左衛門と争論をしている。町奉行は,次郎九郎や両山の乞食頭らを呼び出し,「前々之通穢多共ニ以後は取なやミ仕候様ニ」と言い渡している。(『市政提要』)

正徳2(1712)年9月,岡山藩は,穢多は「罪人之作廻并死骸取捨又は番等仕候儀,共に一切刑罪被仰付候分」とし,隠亡は「行倒レ逆死人有之節,死骸片付并番,又は牢屋ニて無縁之者致病死節取捨一切」として,それぞれの役目を固定している。(『法例集』)

こののち,乞食のうちに逆死人(自殺,事故死など正常でない死人)の死骸片付け拒否をめぐって,「隠亡」次郎九郎の支配の不正を追及する闘争がおこっている。

両山乞食之内追払一件 自享保15年 至同18年

関清水大明神御祭礼例歳九月廿四日参社仕処御免紛無之候

一 従 御公儀被 仰出御法度堅相守可申事,
一 国法何事不寄急度相守可申事,
一 筋目分明成者共於所々新法取立且亦氏抔之儀申出シ穿鑿仕間敷事,

  右之条々堅相守可申者也,

              三 井 寺

近松寺別当

役 人 中

 享保15年戌十二月

宮本執次京都

 日 暮 八 大 夫

備前国上道郡岡山之内本山新山番人共江

一 両山乞食之内,六介・半兵衛・長太郎三人之者,此度京都本寺江罷登リ申候ニ付,いか様之用ニ而登候哉と相尋申候得者,旧冬京都本寺より取下り申候書付 御上江指上候ハヽ御おろし可被遊候間,其趣申登リ候様ニと被申付候,次郎九郎自分用ニ遣候儀得不仕候ニ付此段も申参候由申候,次郎九郎自分用ニ遣候儀

御公儀様より被仰付ニ而候ハヽ奉畏候旨申候,然共此段も京都本寺江窺申由申候,右長太郎と申者ハ此度京都江登リ申候ニ付,両山之乞食共エ之証人ニ召連申由申候,只今迄次郎九郎自分用ニ遣来リ申候儀ヲ,此度ニ至リつかわされ申間敷と申埒ハいか様シ之儀ニ而候哉と相尋候得ハ,只今迄用事承候得共此度本寺より申付ニ而御座候ニ付,自分用ハ聞不申旨申候,右六介・半兵衛両人之者共常々頭之申付も聞入不申者之出承申候,以上

 二月十二日        惣代 万右衛門

申渡条,今度其方手下者共之内,美州上道郡岡山之内本山新山ニ罷有者共,去冬其方江申付呼為登,本地表御執行御代替,依之前度彼等江被下置候書朱印取替遣之,弥古法之通不浄穢敷職堅仕間敷与申付返シ候所ニ,備前国ニ滅骸手掛ケ候次郎九郎手伝申付候由,本地表古法之掟ニテ彼等例年九月大神御祭礼節神役相勤来候得者,不浄職手伝抔堅ク仕者ニ而ハ無之,併備前国法ニ而是迄手伝仕来候得者今以難指止メ,然者本山新山両山之内より四・五人相極メ,此以後不浄手伝右四・五人之者共相勤申候様,備前国町会所御役人中迄其方より可申遣候,猶又,両山之小頭之者共江も右之段急度可申遣者也,

三井寺寺門

  近 松 寺

二月廿七日         役 人 中

京都祝教教頭

日 暮 八 大 夫 江

乍恐以飛脚奉申上候,然者従御本地様如斯之御書被為下,其御地江此通可申遣旨被為仰下候付差下シ申候,御披見可被為遊候,此者罷登候節御書御戻シ可被下候。以上,

                       御本地御取頭京祝教頭          三月八日     日 暮 八 大 夫

町 御 会 所

両山乞食共之内両人,去年十二月京都江罷登リ帰候上ニ而町惣代共迄申候ハ,本地表代替ニ付江州関明神別当三井寺門近松寺役人より掟書相渡シ取帰申候,京都ニ居申頭日暮八大夫申聞候ハ,明神祭礼之節毎歳罷登候筈之処其儀無之不届ニ候,向後毎歳祭礼之節罷登リ役儀可相勤候,神事役人相勤候得者,於御国穢敷物取扱又者穢敷者共与出合候儀堅仕間敷候,尤其趣掟書之内ニも有之旨申渡候由,

 右之通惣代共申聞候ニ付私申聞候ハ,穢敷物取扱候儀仕間敷由申段ハ,逆死人等有之節番等勤片付之取扱之儀与祭候,当春も右取扱等之儀仕間敷由彼是不埒成儀共申,大勢申合町会所江致推参候ニ付,村上勘左衛門屹申聞候得者,其節あやまり書仕候処奉行替リ故,此度又事を相工候而之儀与相聞候,近松寺よりの書付ニも其趣有之候与申候得共,左様成儀紙面ニ無之候,先規より成来リ候儀故御国法同事之儀に候処,今更何かと申段不届成儀に候,急度可申付旨申聞候処,御上より被仰付候儀ハ,只今迄之通何事ニ不依相勤可申候,次郎九郎申付候自分用之儀者得相勤申間敷由申候,

一 当春乞食共三人又々京都江罷登リ候,右之者共帰候以後当二月近松寺役人より日暮八大夫江申渡候紙面ニ八大夫致添状町会所宛にて差越候,

 右紙面ニ

両山之者共去冬呼為登本地表代替ニ付,古法之通不浄穢敷職仕間敷と申付返シ候処,備前国ニ滅骸手掛ケ候次郎九郎手伝申付候由,古法之掟ニ而彼等例年九月祭礼之節神役勤来候得ハ,右手伝仕者ニ而ハ無之,併国法ニ而是迄仕来リ候得者今以難指止メ候,然ハ両山之内より四・五人相極手伝此以後相勤候様ニ備前国町会所役人申迄可申遣候

右之通八大夫より町会所宛ニ而差越候段慮外之仕形,勿論八大夫江可及返答儀与不存,尤申越候趣御取上ケ難被成儀奉存候旨当三月十三日申上相伺候処,先規より仕来リ之儀ニ候得ハ御取上ケ難被成儀ニ有之候,勿論返書遣候埒ニ而無之候間,惣代共より此趣使之者江口上ニ申聞,使之者覚ニ右之通り書付遣し候様ニ仕,八大夫よりの書状も返し可然与被仰渡候ニ付,其通申聞返し申候,

一 右之通本地より申来候趣共相考申候処,両山乞食共之内より申出候儀と奉存候,乞食共不残左様申ニ而ハ無御座候,捨人計も公事ケ間敷者有之様子ニ相聞江,其内別而左之両人頭取与相聞申候間,此者共御追払ニ被仰付候ハ,跡々〆リ可申様ニ奉存候,夫共存候様ニ無御座候ハヽ残り七・八人之者共も追而御追払ニ被仰付候様ニ支度奉存候,

古山乞食 半 兵 衛

同 六  介

一 乞食共何廉と申候儀ハ次郎九郎ヲ頭ニ用候儀を嫌候而之儀ニ御座候,次郎九郎儀ハおんほう故筋目悪敷候付手下ニ付候ヲ嫌申由,近き頃ハ次郎九郎申付候儀共用不申町廻り等之勤方も不精ニ相見申候,

右之趣ニ御座候得ハ,京都より申越品ニハ御拘リ不被成,常々次郎九郎申付候儀をも用不申,我儘成様子ニ付,御追払ニ被仰付候趣可然哉と奉存候,

右者町奉行差出候書付也,

   口 上 之 覚

当所乞食頭次郎九郎手下両山乞食ども滅骸手伝申付候,三井寺本地表古法之掟ニ而神役勤来候得者右手伝仕者ニ而ハ無之,併国法ニ而是迄仕来候得ハ今以難差止候ハヽ,両山之内より一両人相極此以後手伝勤候様にと,近松寺役人中より之紙面逐一覧之候,当所町御奉行所役人中迄右之趣申達候所ニ,先規より仕来リ候之儀ニ有之候得ハ,御取上難被成と町御奉行仰之由役人中申聞候,右之壱通相返し候,以上

      岡山町惣代  万 介

三月十四日 万 右 衛 門

右之通八大夫飛脚之者江両人口上ニて申聞候,口上ニ而ハ間違も有之物故,其方覚ニ書付遣シ候間,罷帰此書付出候共又者出し申間敷共,其段ハ其方了簡次第之儀と申聞させ候,右同日飛脚之者罷帰候,尤次郎九郎并与頭惣兵衛・忠兵衛下頭両人も町会所江呼寄せ出合候,

右之八大夫飛脚,亥三月十一日之夜来リ翌十二日於町会所別紙両通町奉行拝見,翌十三日相伺万介・万右衛門江申付,飛脚之者へ右之段申聞させ候也,

享保十六年亥七月廿七日

一 左之乞食共兼而被仰付置候職分之死骸取扱之儀仕間敷由申,御国法背候ニ付,妻子共追払被仰付

半   兵   衛

六       介

六介       妻

同    娘  弐人

同年八月廿三日 〆五人

一 右之者共追払被仰付候後も次郎九郎申付ヲ不用我儘申ニ付,八月廿一日乞食共不残町会所江呼出し同心之者惣代両人ニ申付,此以後仕来リ之通次郎九郎申付ヲ用勤来リ之儀相勤可申哉と申聞候得共,用ち申事仕間敷由申ニ付,半兵衛・六介通ニ追払ニ被仰付候而も不苦哉と申聞候処,左之八人之者共ハ如何様ニ被仰付候而も次郎九郎申付ヲ用ひ候儀ハ不仕候由申候,残ル者共ハ先規より之通相勤可申由申候に付,書物仕せ山江返し申候,八人之者共ハ申付候儀得不仕と申切候ニ付,町奉行相伺追払ニ申付ル,

三 郎

長 右 衛 門

勘 介

太 郎 大 夫

惣 吉

平 九 郎

権 介

享保十八年丑十二月,三井寺寺門近松寺より寺社奉行広沢喜之介江来状

其後者以書中も不得御意,弥御堅固ニ御勤仕珍重奉存候,然者御国本岡山之内元山新山ニ罷有候者共,一両年此辺関清水大明神御神事御役儀相勤不申候ニ付様子承合候所,御国本ヲ御追放被仰付候由,其意味承候得ハ有両山之者共江次郎九郎滅骸之手伝申付候故,両山のものとも町代万介殿・同万右衛門殿迄御断申上候得者,中々御聞入も無御座候由,依之穢申ニ付御神事相勤申事難成,本地三井寺江訴申ニ付,本地役人より御国本町代万介殿・万右衛門殿迄去ル亥二月ニ以書中申入候へハ如此之返答ニ而御座候,則写掛御目申候,元来両山之者共筋目正敷ものともニ御座候間,以御了簡追放御免帰参被仰付候ハヽ何も大悦可仕候,右両山之者共儀御国本ニ而去ル四拾四年以前元禄三年歳ニ寺社御改被成候時分,両山之者共迄御改被成候ニ付,岡山之者共可相頼寺無御座,依之京日暮八大夫方へ罷登リ右之様子咄シ,則京都西寺町松原下ル善寺御国本江罷被下,寺社御役人中御対談之上正敷ものとも相極リ,夫より今ニ至テ毎歳善寺より宗門差下シ被申候,成程筋目正敷ものとも御座候,滅骸手掛ケ不被申様被仰付可被下候,右之段為可得御意如斯ニ御座候,恐惶謹言,

                       三井寺寺門

霜月十二日                近 松 寺

松平大炊頭様寺社御奉行

広沢喜之助殿

猶以前了簡之上御追放之者共帰参被仰付被下候ハヽ,何茂大悦可仕候,以上,

右之品寺社方裁許之筋ニ無之故,町奉行吉川藤七郎より左之通返書遣ス,

広沢喜之介方江被指越候去月十二日之御状相達候処,御紙面之趣寺社方役所裁許之筋ニ無之ニ付,拙者致被論及御報候,然者先年当国令追払候乞食共当国住居指免候様にとの儀御申越候得共,右之者共古来よりの国法相背,段々不届之仕形ニ付難取上儀ニ候,左様御心得可被成候,恐惶謹言,

吉 川 藤 七 郎

十二月

三井寺寺門

近 松 寺

posted by 藤田孝志 at 17:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 穢多・非人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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