2010年09月03日

流人島から流犬島へ

「生類憐みの令」と郷土の関わりは津山藩だけではなかった。

現在の備前市日生町には,陸地部の他に沖合に,鹿久居島・鶴島・頭島・大多府島など日生諸島とよばれる島々が点在している。鹿久居島は,その名の通り野生の鹿や猪の棲息が多く,池田光政・綱政はしばしばこの島で狩猟を行っている。正保三(1646)年,付近の村より勢子を200人〜多いときは4000人も動員して大々的な鹿狩りを行い,数十頭の獲物を得たことが記録に残っている。その後,獲物の数が減少したこともあって,藩主の狩猟も少なくなり,明和七(1770)年の治政の狩猟を最後に禁猟区に指定されている。

鹿久居島が「流人島」とされたのは元禄十一(1698)年の綱政の時であり,宝永七(1710)年に廃止されるまで十二年間続けられた。

『吉備温故秘録』によると,長六間半・横二間半(1間=6尺=1.82mとして,長約11.8m 横4.5m)の茅葺きの御用場一軒,長十八間・横三間の茅葺き流人小屋二軒,長十間・横二間半の敷瓦の長小屋一軒,一間四方の茅葺きの遠見番所二軒,長一間半・横一間の堀立茅葦き御番人当分仮番所一軒などを建設している。監視体制については,約150石取程の武士二名が鹿久居島奉行としてその任に当たり,彼らは平素は陸地部の日生村の役宅で生活し,定期的に渡島して流人小屋を見回る程度で,直接の監視は島に常駐した彼らの足軽が行っていた。

流人たちの待遇は,罪の軽重や刑罰によって決められたのではなく,実際はその属する身分(階級)や男女の性別によって分けられたのである。その待遇は九段階にわかれており,たとえば「上の上」では,武士男の場合,1日あたり米七合五勺,鼻紙1ヶ月一束の支給があったが,「下の下」では,平民女・小供の場合,1日あたり塩三勺,麦二合五勺,下味噌二勺の支給であった。待遇が下がるにしたがって官給だけでは生活ができず,未開地を開拓して食糧の自給をはからなければならなかった。しかし,地味もやせた山地ばかりのため耕作も困難であったため,山の柴を刈り,それを本土から来る舟に売って生活物資の購入にあてていたようである。

罪人はそれぞれに刑期が決められており,その間に改心の情があらわれれば解放されて郷里に帰ることも許されるわけだが,罪人の中で反省もなく役人を困らせる者などは,奉行の命により島の南部にある首切島と呼ばれる小島で斬首された。

流人となった者には,江戸在中に遊里に通い登楼に耽り家法を犯した江戸詰侍,検地の際に賄賂を取った竿先奉行(検地奉行)の若党,博徒,博奕をした流僧や修験者,放蕩に耽った者,自殺した者の遺族(生活困窮のため)など様々である。


綱吉が死去して家宣が六代将軍となると世論にもおされて「生類憐みの令」は廃止された。しかし,今度は反対に,全国的に犬に対する弾圧が始まった。江戸市民の中にはこれまでのお返しとばかりに犬を蹴飛ばしたりしていじめる者もいた。岡山藩においても,増えすぎた野犬に対する「野犬狩り」が行われるようになり,正徳元(1711)年より弘化二(1845)年に至る134年間に,合計25回の厳重な野犬狩りの布告が町奉行より発令されている。平均して5年に1回は出されていることになる。

次に,『市政提要』より野犬狩りに関するものを抜き出しておく。

正徳元年卯七月二日

仰せ渡され候は,殿様御鷹御持ちなされ候に付,夜据(夜の鷹狩)などこれあり候。町方に犬おり申し候ては心もとなく候間,島へやり町方に戻り申さざるようにいたす可く候。御鷹に付き犬を島へつかわし候と取沙汰これなきように心得申す可く一度に数多くつかわし候はば目立ち申す可く候間,少しずつ船便次第につかわし申す可く候。

正徳三年六月九日

御家中(侍町)在町(町人町)共に放し犬多く,ままには無主の犬これあり,害をなし候ように聞き及び候,近在の穢多に申し付け放れ犬を捕らせ,取り候はば後は穢多次第に仕る様に申付候

享保十九年五月二十四日

此度犬捕え鹿久居島へ遣し候義,御家中にて穢多捕え候犬の分は御郡方(郡奉行)より船申し付候て遣し申す筈にて候間,町方にて捕え候犬の分は前の通り町方(町奉行)より船にて遣し候様にこれある可く候。尤も鹿久居島案内の小舟は御郡方より申し付く由に候。

これらは一部であるが,これを読むと,殿様が狩りに使う鷹を飼育していた出石町の鷹匠たちからが,野犬に鷹が傷つけられるのを恐れて願い出たことが主な原因であったことになっているが,病犬などが人に噛み付くことが多く,一般民衆も野犬に苦慮していたからであろう。捕まえた犬は日を定めて旭川河岸の花畠にある船積み場に集められ鹿久居島に送られた。

この史料から,野非人や帳外者などを追い払うのと同様に,野犬狩りを担っていたのも「穢多」身分であったことがわかる。

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「生類憐みの令」と作州津山藩

五代将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」(貞永四年:1687年)を出し,特に犬を愛護し,犬を傷つけたり殺したりした者を厳しく罰したため「犬公方」と渾名されたのは周知のことである。

生類憐みの令は,特定の成文法として存在するものではなく,複数のお触れを総称してこのように呼んでいる。また,「犬」が対象とされていたかのように思われているが,実際には犬だけではなく,猫や鳥,さらには魚類・貝類・虫類などの生き物にまで及んだ。ただ,綱吉が丙戌年生まれの為,特に犬が保護された。このため,江戸市中に野犬が蔓延り人々が大きな迷惑を受けたことから,幕府でも対応に苦慮し,大規模な犬屋敷を建てて野犬を収容することにした。

この工事の普請を命じられたのが,作州津山藩十八万六千五百石の森家である。この史実はあまり知られていないが,この手伝普請により津山藩は財政難に陥ってしまい,やがて取潰しとなってしまう。「生類憐みの令」が招いた悲劇は,郷土の歴史にも深い関わっていたのである。

津山藩が受け持った犬小屋は,児玉郡中野村(現東京都中野区)に,建坪五万坪及び六万坪の大屋敷,三千坪の中屋敷二ヵ所,一千坪,五百坪,三百坪の小屋敷多数で,延べ十二万二千六百坪に達した。

津山藩がこの工事で費やした経費は,人件費だけでも七万七千五百両,このほかに荷車二万七千四百両,荷馬九千九百両,これらは購入費であり,他に借上げ代も加わる。材料費も巨額であるが,さらに食費に道具代,雑費等々の出費も加わる。合計すれば,軽く数十万両はかかったと思われる。1石=1両がだいたいの相場ですから,米10s=5千円として,1石=米150s=7万5千円です。約10万円と考えれば,数百億の出費であったと考えられる。事実,この出費は津山藩の財政を大きく脅かすことになり,後の森家廃絶の遠因になったといわれている。


手伝普請

幕府が巨大な犬小屋を作ったように思われているが,事実はこのように「手伝普請(大名普請)」として,津山藩にその建造を命じたのである。

手伝普請は,江戸城下町建設のために,千石夫(役高1000石につき1人の人足)を徴発したことに始まる。その後,江戸城,彦根城,篠山城,丹波亀山城,駿府城,名古屋城,高田城などの築城が続き,大名が普請に動員された。

江戸時代初期の諸大名は,幕府の普請動員に応えるために,自らの領内の支配体制を整える必要があった。将軍が諸大名に対して強大な権力を誇示したように,藩内においては藩主自らを頂点とした体制を固めさせられることになったのである。家老・一族と藩主との権力闘争は軋轢を生み,多くの御家騒動を引き起こした。また,外様大名は手伝普請に動員されることを通じて,幕府の軍役体系に組み込まれていった。

江戸時代中期になると,河川の普請が多く行われるようになった。宝永の大和川改修工事,寛保の関東水損地域の河川・堤防改修工事,薩摩藩による宝暦期の木曾川・長良川・揖斐川の治水工事(宝暦治水事件)などが有名である。築城・治水の他に手伝普請の対象となったのは,日光山の諸社,徳川家の菩提寺である寛永寺・増上寺,将軍および家族の霊廟,禁裏・御所などの造営・修復である。江戸時代の初期には,各藩が費用を負担し,実際に藩が取り仕切って普請が行われていた。しかし,時代が下るにしたがって,落札した町人などが現場の責任を負う請負形式が多くなり,さらには金納化も進行した。そして,安永四年(1775)以降は完全に金納化が通常の形となった。基本的には,各藩は費用を負担するだけとなり,幕府が直接担当役人を派遣して指揮監督するようになった。

手伝普請による各藩の負担は過重であり,藩の財政を逼迫させる要因の一つとなった。ただし,他の課役・重職を担っている藩には,手伝普請を軽減あるいは免除する処置がとられた。中後期の例では,尾張藩・紀州藩・水戸藩・加賀藩,老中などの要職在任中の藩,溜間詰の大名,長崎警固を担う佐賀藩・福岡藩は免除されていた。

posted by 藤田孝志 at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 岡山藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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