2012年01月28日

「渋染一揆」再考(9):動機

以前に,弊HPのBBSに書いた一文である。


先月に送付された『岡山地方史研究』の最新号(117号)に,ひろたまさき氏の『差別からみる日本の歴史』に関する井久保伊登子さんの書評が掲載されていた。その中に,渋染一揆について述べた次の一文がある。

著者(ひろたまさき 引用者)は,一揆の動機が部落民の平等思想の覚醒にあったとする従来の学説に反論して,彼らはキヨメ役としての存在を否定されたために立ち上がった,と主張する。その理由として嘆願書の,一命が危うい仕事も出仕し忠勤を尽くして任に当たっている自分たちの穢多役割を強調している一文を引用する。
しかし,筆者(井久保伊登子 引用者)は,この一文から,これほど忠誠を尽くしているのに,この上に巷での差別をさらに強化するようなことをしないでほしい,という異議申立てが読みとられる,と思う。差別に苦しめられた者としては,差別の象徴であるキヨメ役を返上したい,というのが自然な真情ではないだろうか。
この一揆に参加した人々に,道筋の百姓が部落民への同火共食の禁を犯してまで水をふるまうという連帯の芽生えがあった。商品経済の発達による金銭を媒体としての対等化や視野の拡大,民衆の旅行ブーム,また後期の印刷物や芝居などの大衆文化が人々の自由な交流を助けた。そして次第に平等観念が普及した。津山藩の百姓一揆には部落民が参加したという。

井久保氏がこのように感じたのは,次のようなひろた氏への批判が根底にあったからだと思う。

本書を何度か読み通したが,当初期待した現実的な差別の輪郭が掴めず,そのために差別への著者の憤りや痛みが伝わってこない。「あとがき」に,<差別はきわめて多様な形態で発露するものですから,それは部落史とか女性史などと被差別集団ごとに追究することも重要ですが,差別者の側に視点を定めれば,多様な差別も相互に関連し一つの問題に収斂するのではないか>という問題意識でこの本が書かれたとあった。<差別者の側に視点を定め>て,多様な差別の相互関係をとらえて<一つの問題に収斂>させる,ということは,高いところから差別全体を俯瞰して,差別の問題を整理して概説する,ということになるのではないか。それでは,差別されている人の姿は見えず,痛みは伝わってこない,と思われる。
やはり,<被差別集団>の一つを選び,その中の一人一人の言葉に耳を傾け,その苦しみの原因を歴史的に掘り下げていくことで,差別の全体史に突き当たるのではないか,と思う。

実は,私はこのひろたまさき氏の著書を出版された直後に購入しながら斜め読み程度にしか読んでいない。井久保氏の書評を先に読んでしまったのである。

ここではまず結論的な私見を述べておく。両者ともに賛同もする部分もあるが論旨に満足もしていない。

ひろた氏の主張については著書を読んで後日意見を述べるつもりだが,「キヨメ役の存在を否定された」と穢多身分の者が感じる理由が「無紋渋染藍染」の着衣を強要されたことであるとする根拠は如何なるものなのだろうかという疑問を持つ。ひろた氏が言う「キヨメ役としての存在を否定された」と穢多身分が受けとめた記述は関連史料から読み取ることはできない。ひろた氏が「理由」としている嘆願書の一文では「キヨメ役」は番役や警吏役であるが,それも他の嘆願理由の一つとして書かれているにすぎない。

また,井久保氏が言うように「キヨメ役」は「差別の象徴」なのか。これについても周囲(差別者の側の視点)と穢多身分(被差別者の側の視点)で認識はちがうのか同じなのかという議論がなされていない。

「無紋渋染藍染」が「キヨメ役」をさらに強調することになるのであれば,井久保氏の論理もうなずけるが,はたしてそうであろうか。「渋染一揆」の原典史料には,井久保氏のいう「キヨメ役を返上したい」という穢多身分の「真情」は読み取れない。むしろこの一文からは,ひろた氏の言うように「忠勤を尽くして任に当たっている」という自負心や誇りを感じる。

前提としての認識が,ひろた氏と井久保氏では異なっているように私には思えるし,渋染一揆の動機を単純化しすぎているようにも思える。さらに付け加えるならば,「津山藩の百姓一揆には部落民が参加した」のは,渋染一揆の随分前であり,社会状況や理由も異なっている。同列に論じるべきではない。なぜなら,同じ津山(美作)において「解放令反対一揆」が起きているからである。

渋染一揆の動機を解明するには,「無紋渋染藍染」の意味,穢多身分の者はこれをどのように認識し,この御触書をどのように受けとめたかが重要である。

ひろたまさき氏は『差別からみる日本の歴史』で「渋染一揆」の動機を次のように述べている。

…私は,部落民が禁令撤回に立ち上がった理由は,部落民のアイデンティティを否定するものであったからであると考えています。

…部落民の嘆願書では,自分たちは百姓と同じように年貢を上納しているのに差別するのは迷惑だと言いますが,自分たちは百姓だとは言っていないのです。むしろ,「身分広き御百姓とは間違い,狭き穢多の類村ゆえ」と自称しているのです。そして他方で,「兼ねて役人村と御唱なされ候」「一命相拘わるべくも厭わず候て,御用出情致し,御忠勤を尽くし奉るところ」と「穢多」役を担っていることを誇示しています。そういう盗賊取り締まりの任にあるわれわれが目立つ渋染の着物を着ていては,御用を果たせないではないかと言うのです。へりくだった表現を使いながらも,嘆願書は,自分たちは百姓と同格であり,なおかつ「穢多」役という役割を果たしている立派な領民であり,差別を受けるいわれはないと,堂々と主張しています。嘆願書は部落民が社会的に不可欠な独自の存在であるという自負を示しているのです。

…他の多くの部落民の脱賤の方向も,農業生産を高めて百姓になろうという方向や,部落からの逃亡という方向も,「穢多」に対する差別そのものを否定するものではないのです。
しかし,渋染一揆の嘆願書は,そうしたこれまでの方向ではなくて,まさに「穢多」役の重要性を自覚し,そこに自分たちの任務があることを差別反対の論拠としている点で,画期的だといわねばならないのではないでしょうか。「キヨメ」役そのものを評価しているというよりも,藩主に命じられた任務という点を強調していることは問題として残りますけども。

「穢多」役の妨げになるとの主張を根拠に「部落民のアイデンティティを否定」されたことで渋染一揆を起こしたとの考えに,私は賛同できない。

『御倹約御触書』の第26条(別段2条)「目明共義ハ平日之風体御百姓とハ相別居申事ゆヘ衣類之儀ハ先迄通達心得可申」や第29条(別段5条)「番役等相勤候もの共,他所向役先之義ハ先是迄之通差心得可申」にあるように,警吏や刑吏などの「穢多」役を勤めるときは従前通りでよいと認めている。このことから,「穢多」役を勤めるときの衣服は「無紋渋染藍染」でなくてもよいと考えられる。「無紋渋染藍染」は通常の衣服として命じられたのであるから,常日頃に着用することに対する抵抗と考えるべきである。

次に,『嘆願書』にある「穢多」役に触れている箇所を抜き出してみる。

殊ニ,非常ニ御備ニも相成居申者候得ば,右躰之衣類被為仰付候ては,老若男女に至迄精気落,農業守も打捨可申程之義,心外歎鋪奉存候

御国中穢多共之内,御城下近在五ケ村穢多共,番役等仕居申者有之。猶又,御牢屋鋪并ニ川下死罪之者有之候節,其手御用相勤居申者も数多御座候ハ,五ケ村穢多共ハ素より,其外類村同様,兼て御用替之穢多共役人ト,年々ヘ,御米四俵宛奉頂戴居申義,諏訪御用之節,奉御忠勤尽身分ニて,乍恐御座候故,御百姓一同ニ,御承知可有候得ば,兼て役人村と御唱被成候故,盗賊又ハ強盗・荒破者等参居申時,其村引請番役人ハ不及申上,其外無役之者迄,即座一命可相拘も不厭候て,御用出精致,奉尽御忠勤所,右躰之衣類着用仕候てハ,御城下或は在々浦々致迄,盗賊又ハ胡乱ケ間鋪者,遠見より道ヲ替,逃隠行逢ひ不申,色々徘徊,左候得ば,人相見立ハ猶以難出来。然上ハ,召捕候義相成り不申。其時,御用懈怠ト罷成候様,乍恐奉存候。

備前では「穢多」役として番役を命じられている城下五ケ村が役人村として「御用」を勤めていた。また,その中には牢番や刑吏役を勤めている者もいた。また,城下五か村以外にも類村として同様の「御用」を勤める村もあった。その報奨として百姓より米四俵を受け取っていた。

この文面から,彼らが「役人」としての自負心をもち忠勤に勤めていることは推察できるが,「無紋渋染藍染」が藩から命じられた役務の妨げになるとは考えられない。なぜなら,上記の『御倹約御触書』の条文にあるように,役務の際は従前通りでよいと認めているからだ。それに対して,彼らは番役などの「御用」を勤めていない常日頃からも「御用」に「忠勤」していることを理由に,「無紋渋染藍染」の衣類を着用すれば,見分けられてしまい「御用」を果たすことができにくいと言っているように思える。ここに藩側と穢多側の見解の相違がある。

予防や追い払いが目的であれば,現在の警官のように特別なそれとわかる着衣の方が効果的だと思う。犯人逮捕が目的であれば,現在の私服警官のような見分けのつきにくい着衣の方がよいだろう。原文には「召捕」とあるから後者とも考えられるが,藩が役務として命じているのは「番役」などである。

ところで,『嘆願書』からも,彼らは常に「盗賊又ハ強盗・荒破者」を探索・捕縛することを仕事(生業)として常日頃の生活をしているのではないことは明らかである。警吏・刑吏役,番役は「御用」(役務)であって,彼らの生業は農業であり,武士のような役務を勤めながら日々の生活をしているのではない。

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2012年01月03日

「渋染一揆」再考(8):他藩の渋染強制

「渋染一揆」の77年前,1778年(安永7)に岡藩(大分県)で被差別民に対して出された触書(法令)がある。
この年は,幕府が被差別民に対して「風俗取締令」を初めて出した年でもある。岡藩では,この取締令を藩内の被差別民に示した上で,次のような法令を課したのである。

穢多共掛襟申渡之事
  申渡     穢多共
  安永七戌年

一 右の者共,御城下廻且市廻,其外在町市場押えなど都而諸御用に罷出候節は,着物に黄色の襟を掛け申すべく候,是迄着類の差別これなく,紛わしきにつき,自今右の通り申付け候間,此段穢多共え堅く申付け,銘々堅く相守り心得違い致さざる様其方共より申渡すべき旨申渡様,郡奉行中申渡され候也
  八月   代官役

岡藩(「申渡」安永七年[1778年]8月)

 申渡
此度穢多非人身分之儀ニ付,別紙之通公儀より被仰出候間,其旨申渡堅被相守可申候,万一心得違不埒於有之,急度被仰付候間,堅申渡被相守候様被取計候,
一 穢多共着類法外之儀有之候相聞,向後浅黄染・渋染に限可申候尤穢多共御用ニ出候節々掛致候様,着類夏冬共都て掛襟致,常々着可致候,万一心得違百姓町人ニ紛,不法之節於有之,急度可申付候
一 目明共之儀着類染色右同断,尤掛襟不及,是又百姓町人ニ紛れ不法之節於有之,急度可申付候
戌十一月廿九日   郡奉行

岡藩(「申渡」安永七年[1778年]11月)


えたたちへの掛け襟申し渡しの事
 申し渡し     えたたちへ

一 右の者たちは城下下・市の見回り,その他,在・町・市場の警備などすべて役目で出かけるときは,着物に黄色の襟を掛けるように。今まで着物の差別はなかったが紛らわしいので,今からは右の通り申し付ける。このことをえたたちへ厳しく申し付け,銘々が厳守し,心得違いの無いよう,おまえたちから申し渡すよう申し付ける。以上のことを郡奉行に申し付けた。
 八月   代官役

一 えたたちの着物に違反の疑いがあるように聞いている。今後は浅黄染・渋染に限ること。もっとも,えたたちが,役目のために出掛けるときは掛け襟をするように。着物には夏冬ともにすべて掛け襟をして常に着用するように。万一心得違いをし,百姓町人に紛れ,不法の筋があったならば,(罪を)きっと申し付ける。
一 目明かしについても,着物はえたと同様とする。もっとも掛け襟はしなくてもよい。また百姓町人に紛れ,不法の筋があったならば,きっと(罪を)申し付ける。
戊十一月廿九日   郡奉行

岡藩では,同年に農民に対して37か条の「御掟書」を定めている。この御掟書の特徴は,農民の分限や村役人の職分についての規定が多いことである。37か条のうちそれぞれ8か条が定められている。
農民の分限,すなわち農民の義務である年貢納入の遂行を明確にし,さらに農民の風紀が乱れていたことから村役人の職分をあらためて明記したのだと考えられる。

つまり,それぞれの身分に応じた「分限」を明確にすることで身分制度の立て直しを図ることが目的であったことがわかる。

同様の趣旨で,被差別民にも「身分を明確にする」目的で,上記の法令が出されたのである。すなわち,着衣の規制は,見た目で「身分」がわかることが目的であり,逆にいえば百姓や町人と被差別民のちがいがわからない(紛らわしい)状況があったから,このような法令が出されたのである。

幕府の「風俗取締令」では,被差別民が「百姓町人に紛れ」ることは「心得違い」のことだとしている。幕府の命令を受けて出された岡藩の11月の法令でも同様のことが書かれている。


「渋染一揆」の原因となった「別段御触書」と比較してみると,関係があるのは次の3か条である。

25条(別段1条)

穢多衣類無紋渋染藍染ニ限り候義勿論之事ニ候,乍然急ニ仕替候てハ却て費ヲ生シ迷惑可致哉ニ付,是迄持かかり麁末之もめん衣類其儘当分着用先不苦,持かゝりニても定紋付之分ハ着用無用,素藍染渋染之外ハ新調候義は決て不相成事

穢多の着物は,無地の渋染藍染に限ることはもちろんのことである。しかしながら急に仕替えるのでは,かえって費用もかかり,迷惑するかもしれないので,これまで所持している粗末な木綿の着物は,そのまま当分着用してもよろしい。所持しているものでも,定紋付のものは着てはいけない。もとより,藍染渋染の外は,新調することは決してならない。


26条(別段2条)

目明共義ハ平日之風体御百姓とハ相別居申事ゆへ衣類之儀ハ先迄之通差心得可申,尤絹類相用候義ハ一切不相成事

目明かしたちのことは,日ごろの身なりが百姓とは違っているので,着物の件は先ずこれまでのとおりであると心得よ。もっとも絹類を用いることは,一切いけない。


29条(別段5条)

番役等相勤候もの共,他所向役先之義ハ先是迄之通差心得可申,勿論絹類一切弥以無用之事

番役などを勤めている者たちは,他所に行くときや,役目の先に行くときは,先ずこれまでのとおりと心得よ。もちろん絹類は,一切着ることはいよいよもって無用である。

両藩に共通するのは「渋染」の強制であるが,私は「限る」に着目したい。

特別の色や特別の着物の着用を強制したのではなく,特定の着物のみを着用することを命じたのである。
さらに岡藩では「黄色の襟」を付けることで,一目で身分がより明確になるように命じている。

「目明かし」に関しては,岡藩では「掛け襟」を付けなくてもよいとし,岡山藩では「渋染・藍染」の着物でなくてもよいとしている。

このことは,「目明かし」の着装が百姓や町人とは異なっており,身分のちがいが明確に判別できたからであろう。

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2011年08月15日

「渋染一揆」関連図表

「渋染一揆」に関係する図表を掲載しておくので,授業などで活用してもらいたい。

@ 差別と闘い続けた岡山藩の被差別部落(略年表)

A 「渋染一揆」とは,どのような歴史的事実であったのか(経緯)

B 「渋染一揆」関係者処分一覧表

C 岡山藩の窮乏状況:財政収支

D 岡山藩領地図

E 「渋染一揆」関係地図

これらの図表は,岡山県・岡山市・岡山県同教などが作成した「渋染一揆」関係資料集および『岡山県史』,谷口澄夫『岡山藩』『岡山藩政史の研究』,柴田一『渋染一揆論』などの参考文献より引用・転用して作成したものである。

posted by 藤田孝志 at 16:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 渋染一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月14日

「渋染一揆」原典史料覚書

『岡山部落解放研究所紀要 第6号』に収録されている「渋染一揆」関係史料の概略について「解説」をもとに簡略にまとめてしておく。

1 「禁服訟歎難訴記」(原題「穢多渋着物一件」)

渋染一揆参加者の手によって書かれた記録である。原題は「穢多渋着物一件」であったが,粘紙をして「禁服訟歎難訴記」と改題されている。

作者については神下村の豊五郎あるいは笹岡村の良平とする説があるが,豊五郎の子孫が所蔵しておられることや,本書(紀要)に収録されている寺田憲生氏の論考(「『禁服訟歎難訴記』の作者について」)などから豊五郎の作と考えられる。

なお,豊五郎は,神下村の判頭として一揆の指導をおこない,判決直前に逐電している。また,自宅で手習師匠もしていた。

この記録は,五七調を基調に書かれた上下二巻の和綴じ冊子である。上巻は,一揆の歎願運動までの経緯について,下巻は強訴運動の経過,事後の取調について,牢内生活の状況などが詳細に書かれている。

内容としては,城下周辺の動きが中心であり,また脚色や誇大的記述,誤記もある。しかし,一揆指導者の直筆であること,また客観的な記述であることから,一揆の全容を知るためには貴重な歴史的史料である。

2 「屑者重宝記」

国守村の判頭豊吉の書いた一揆の記録である。現在,原本の所在は不明である。

豊吉は,一揆の前半,歎願運動の段階で竹田村の紋之介とともに運動をリードした。惣連判の訴状も豊吉の筆によるものである。

この記録は,客観的事実の経過を克明に記しており,資料的価値は高い。ただし,豊吉は強訴段階では指導的立場を降りており,強訴には参加していないため,後半部分は後からの「聞き書き」である。

3 「穢多共徒党一件留帳」

和気郡藤野村の大庄屋万波七郎右衛門の組下である藤野・稲坪・森の三ヶ村(被差別部落)の一揆への参加に関する動向を記した報告書である。

この記録の前半は,一気に参加した三ヶ村の動向が詳細に記されており,後半は藤野村に残留した者たちをどのように阻止したかを記している。「禁服訟歎難訴記」や「屑者重宝記」に詳述されていない備前東部の動向を知るうえで,また農村部の村役人・被差別部落民の人間関係や意識状況を知るうえでも貴重な史料である。

作者については下原村の名主高原国平であり,彼がまとめ,浄書して万波七郎右衛門に提出したと思われる。本史料は国平の書いた草稿である。

4 「御野郡竹田村穢多紋之介等の口書」

岡山藩の公文書で,一揆後に指導者に対する藩役人による取り調べがおこなわれた際の十六人の供述書である。いわゆる権力側の史料であるが,一揆指導者の意識や行動を個々に知ることができる貴重な史料である。

5 「御倹約御触書写」味野村控

安政二年の「一統御倹約御触」二十九ヵ条の内容と,各村々の対応(どのような手続きで請印を提出したか)を知ることができる。

6 「年々御触書留帳」清水村

和気町藤野・稲坪・森の三ヶ村の一揆参加者に対する処罰の覚書である。この三ヶ村の一揆への参加状況を知ることができる史料である。

7 「御請書上」

安政二年倹約令を徹底させるためにとられた支配層の動向を知ることができる。

8 「穢多結党」

安政二年倹約令を徹底させるためにとられた支配層の動向を伺い知ることができる史料である。

9@ 「御触書写」菅野村 多賀治控

天保十三年に触れ出された倹約令の内容を知ることができる。この触書のうち穢多身分に出された「別段御趣意」を歎願によって撤回させた経験があり,これに基づき,今回も歎願運動によって撤回を要求した。

なお,本史料には,渋染着用の条項はない。

9A 「御取締御触書」藤戸 祐太郎控

天保十三年に触れ出された倹約令の内容を知ることができる。9@(「御触書写」)には渋染の条項はないが,本史料には渋染の条項がある。


上記史料のいずれも「渋染一揆」を研究する際に貴重な原史料である。特に,一揆の指導者である豊五郎および豊吉の書き残した「禁服訟歎難訴記」「屑者重宝記」は,全容を解明するうえで基本史料である。また,藩側の史料である「穢多共徒党一件留帳」「御野郡竹田村穢多紋之介等の口書」も重要な史料である。前者と後者では立場のちがいが,「渋染一揆」の要因に対する意識のちがいや認識のちがいとなっており,江戸時代の身分社会を考察するうえでも重要な史料となっている。両者の相違を比較検討することを通して「渋染一揆」の歴史的意義も解明することができると考える。

従来の「渋染一揆」に関する読み物教材や小説本,教材資料には,近世政治起源説や階級闘争史観(唯物史観)など特定のイデオロギーの影響を強く受け,主観的脚色や誇大表現が多く見受けられ,必ずしも原典史料に忠実であるとは思えない。また,独自の解釈によって「渋染一揆」の実像とは大きく懸け離れた歴史像を描いているものもある。

原典史料に基づくといっても,それを読み解く個人の主観や歴史認識,歴史観等によって史実そのものが歪んでしまうこともある。

本書の序文では「…本史料につきましては皆様の研究,学習,教材などに広く活用されることを望むもの」であると述べられ,また「はじめに」においても,次のように本史料の活用を期待する趣旨が述べられている。

…部落史研究の動向を踏まえ,教育現場においても,輝かしい部落解放の闘いとして「渋染一揆」が取り上げられさまざまな形で教材化・教育実践が進められていることは喜ばしいことと言わねばならない。

しかしながら,こうした,教材化,教育実践の中には,まま,原史料に当たっていないのではないか,また,原史料の理解が不十分であるのではないかと思われるものが見受けられる。

言うまでもなく,歴史学は史実に基づき,歴史の真実を明らかにし,民衆の解放への歩みを教訓化するものでなければならない。

…教育現場に於いても,すべての教職員が同和教育に取り組むことが要請されているところである。部落史学習も独り歴史教育専門教師にのみまかせるべきではないと考えられる。

以上の観点から,本書では,渋染一揆関係史料の大部分を一冊に収録し,併せて現代語訳を付することによって,関係者の便宜に供しようと考えた次第である。

これらのことから,本書発刊に携わった関係者の方々の願いに応えるためにも,現在入手が困難な本書に所載されている史料を公開し,多くの方々が活用できるようにすることは意義があると考えている。

「渋染一揆」に関する教科書記述も,部落問題に関する記述と同様に,改訂の度に簡略化されている。それに呼応するかのように,教育現場において部落史及び部落問題学習が縮小化・形骸化されている。本書が発刊されて20年が過ぎているが,この史実から学ぶべきものは多いにもかかわらず,その間の時代の変化は,「渋染一揆」を過去の遺物であるかのように押し流している。実にさみしく,憂うべき状況と思わざるを得ない。今一度,新しい視点で「渋染一揆」が再考されることを期待する。

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「渋染一揆」原典史料

『岡山部落解放研究所紀要 第6号』に収録されている「渋染一揆」の原典史料を書き下し文と現代語訳を対照させて掲載しておく。
(PDFで作成してリンクさせているので,各表題をクリックしてください)

本紀要は発行部数も少なく,現在は入手困難である。
数人が分担しての訳業であったために文体・語句の統一が不十分であり,やや誤読・誤訳もある。また,字義の解釈や資料の考察においても不十分な面がある。
原資料が岡山大学や個人所蔵,所在不明などのため,一次史料そのものを読むことはむずかしい。私も一部のみ複写で持っているだけである。
いつの日か,研究者たちの手によって,原文(一次史料)よりの現代語訳が完成版として出版されることを期待する。

先々,時間的な余裕が生まれ再び「渋染一揆」を考察するときがきたら,現代語訳に取り組みたいと思っている。


 『御倹約御触書』(安政二年:1855):『御倹約御触書写』(味野村 控)

岡山藩が郡奉行・大庄屋(村役人)宛に出したもので,同様の触書が多くの村方文書に残されている。本史料は味野村に残されていたものである。
条文中の24ヵ条までが全領民を対象とされたもので,25ヵ条〜29ヵ条が特に穢多身分に対して出されたものである。

 『別段御触書』:『禁服訟歎難訴記』よりの抜き書き

上記の『御倹約御触書』のうち,後段の25〜29ヵ条が,いわゆる「別段御触書」と呼ばれるもので,触れ出しの時期が遅れている。

 『別段御触書』:『屑者重宝記』より抜き書き

 『歎願書』(安政三年:1856):『禁服訟歎難訴記』よりの抜き書き

『禁服訟歎難訴記』では,最初の寄合のときに庄太郎(一日村)が作成してきたもの,それを参考にして各村が作成してくるとして,その後に集まった神下村助三郎宅の寄合で豊吉(国守村)が作成し総連判の歎願書に決定したもの,その後に村役人から調印の催促が厳しくなり各村ごとに書いて提出したもの,これら3通の「歎願書」が記述されている。
本史料は,そのうち総連判の「歎願書」を転載した。

4 『歎願書』(安政三年:1856):『屑者重宝記』よりの抜き書き

『屑者重宝記』では,豊吉(国守村)が作成し総連判の「歎願書」に決定したものしか記述されていないので,それを転載した。
この両者では,条文の順序が違っていたり,内容的にはほぼ同じでありながら表記や表現がまったく違っていたりする。両作者の記憶違い(「歎願書」の原文が手元になく,記憶が曖昧であるのか),あるいは数種類の「歎願書」が作成されたので間違えているのか不明である。

 『御触書』(天保十三年:1842):『御触書写』(菅野村 多賀治 控)

『歎願書』の中に「歎願によって撤回させた」とある天保十三年の触書である。
『御触書写』には「渋染着用」の条項はない。それまでに岡山藩で触れ出されたものを再録する形になっている。

6 『御触書』(天保十三年:1842):『御取締御触写』(藤戸 祐太郎 控)

『御触書写』と同じ触書ですが,内容(条項)に異なるものがある。「無紋渋染藍染の衣類」着用命令の条文がある。

 講演録

1999年に京都府高同研山城ブロック冬季現地研修会においての講演を記録したものである。
解明や論考の不十分な点もあり,やや強引な解釈も見られる。

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なぜ「無紋渋染藍染」に抗したのか

「渋染一揆」の最大の疑問は,なぜ岡山藩は穢多身分に対して「無紋渋染藍染」の着物を強要したのか,なぜ穢多身分の人々は「無紋渋染藍染」の衣服を強要されたことに抵抗したのかです。従来より諸説ありますが,それらを批判・検証することは考えていません。人それぞれの方法論で史実の解明に向かえばいいとは思いますが,私は,史料や参考文献を読みながら他説を参考にして自分なりの考えをまとめていきたいと思っています。

気になったのは「目明」「牢番」の役負担と着衣との関係,「身分相応」「礼義引下」という言葉と「御触書」との関係です。

「別段御触書」(安政2年「御倹約御触書」の24条〜29条)の2条と5条について原文と現代語訳文を書き出してみます。

目明共義ハ平日之風体御百姓とハ相別居申事ゆへ衣類之儀ハ先迄之通差心得可申,尤絹類相用候義ハ一切不相成事(別段2条)

目明かしたちのことは,日ごろの身なりが百姓とは違っているので,着物の件は先ずこれまでのとおりであると心得よ。もっとも絹類を用いることは,一切いけない

番役等相勤候もの共,他所向役先之義ハ先是迄之通差心得可申,勿論絹類一切弥以無用之事(別段5条)

番役などを勤めている者たちは,他所に行くときや,役目の先に行くときは,先ずこれまでのとおりと心得よ。もちろん絹類は,一切着ることはいよいよもって無用である

これに先立つ天保13年(1842年)に出された「御取締御触」にある同様の条文を書き出してみます。

目明シ共義ハ平日ノ風躰平人とハ相別り居申事故,衣類之義ハ先つ是迄之通差心得可申,尤絹類相用候義ハ一切不相成事

素朴な疑問ですが,「目明」の風体=身なり(服装・衣類)は百姓(平人)とは日頃より異なっていたということはどういうことなのでしょうか。「風体」とは『広辞苑』によると「なりかたち。みなり。特に、身分や職業をうかがわれるような外見上のようす」とあります。つまり,日頃から「目明」とわかる特別な身なりをして「役目」についていたということです。ただし,実際にそのような「風体」で日常生活,あるいは役務に従事していたかどうかは定かではない。百姓や平人とは「相別」ということは,百姓や平人から見ると,一目で自分たちとは異なる「風体」から「目明」であることがわかるということです。だから「衣類之儀ハ先迄之通差心得」なのです。
ところが「嘆願書」には,次のように書かれています。

…盗賊又は強盗・荒破者等参居申時,其村引請番役人ハ不及申上,其外無役之者迄,即座一命可相拘も不厭候て,御用出精致,奉尽御忠勤所,右躰之衣類着用仕候てハ,御城下或は在々浦々到迄,盗賊又ハ胡乱ケ間鋪者,遠見より道ヲ替,逃隠行逢ひ不申,色々徘徊,左候得ば,人相見立ハ猶以難出来。然上ハ,召捕候義相成り不申。

盗賊や強盗,乱破者などがやってきた場合,その村の番役人は言うに及ばず,その外の一般の者まで,即座に,一命を投げうつのもかまわず御用向きを勤め,忠勤を尽くしておりますところです。右のような衣類を着用するようになりますと,盗賊とかあやしい者は遠くからこの衣類を見て道を替え,城下,あるいは村々や浦々まで,番役に行き逢わないように逃げ隠れし,処々を徘徊します。そうなれば,捕らえることができなくなります。

「御触書」と「嘆願書」のちがい(矛盾)をどのように考えればいいのか。藩側(「御触書」)は,「目明」を勤めている「穢多」は日頃から身なりがちがっているから着衣は今まで通りでよいという。穢多側(「嘆願書」)は,「無紋渋染藍染」という「特別」な衣服では,盗賊などに遠目からでも見分けられてしまうから「役目」を果たすことができないと主張する。

藩側の主張からわかることは,穢多の中では「目明」「番役」を勤めている者とそうでない者がいる。「目明」を勤めている者は直衣は従前通りでよい。その理由は「百姓や平人」とは「ちがう」身なりであるからで,「番役」も他所に行くときは従前通りでよい。

穢多側の主張からわかることは,「目明」の「役」についていない者も「御用」に協力している。だから,特別な衣服では盗賊などにわかってしまうので「御用」の協力ができなくなる。

「目明」の「御用」を勤める穢多は百姓とはちがう特別な身なり(衣服)をすることになっている。しかし実際には特別な衣服を着ていなかった。あるいは着る必要性が少なかったので,現実にはそれほどに問題とは感じていなかった。つまり百姓とのちがい,見た目での分け隔てはなかった。日常生活における不自由・不満はなかった。しかし,「無紋渋染藍染」に衣服を限定されれば,「見た目」での相違が明確になる。身分の差がはっきりと確認できてしまう。このことは彼らにとって非常に難渋することになる。なぜ「難渋」することになるのか。

このように考えていくと,「無紋渋染藍染」の衣服は,藩側にとっても穢多側にとっても「特別な衣類」であることはまちがいない,問題はその「意味する」ところです。藩側は「目明」の「風体」(身なり)を百姓や平人とは異なるから構わない=「無紋渋染藍染」でなくてもよいとしている。「風体」であって「衣類」と書いていないこと,「嘆願書」に「無紋渋染藍染」では見つかってしまうと主張していることなどから,もしかしたら「衣類」ではないかもしれない。見た目の様相(姿)であるかもしれない。たとえば,捕物帖などに出てくる十手を持った「親分」の姿であったのかもしれない。しかし,それこそ遠目からも見分けられることになり,まして「鬼平犯科帳」に出てくる「密偵」などのようにはなれない。
「密偵」を現在の「私服警察」と考えれば,百姓や町人と同様の容姿でなければ役に立たないでしょう。「鬼平犯科帳」には「変装する」同心が描かれていますが,江戸時代は「面体」(髷においても身分や職業,住む地域に応じた髷があった)によって身分が(「面体を隠す」の言葉が残っているように)はっきりと分けられていました。あるいは,見分けられる様相(風体)であっても,それが睨みをきかす「親分」であれば,今更,衣服がそれ以上の「特別」になっても構わないだろう。

「御触書」から考えると,「無紋渋染藍染」は「特別な衣服」ではあるが,「目明」という役目には直接は関係ないことになる。着る必要がないからです。「番役」にしても同じく,「他所向役先之義ハ先是迄之通差心得可申」ですから関係ないはずです。当然に「色」にも意味はないと考えます。「色」に関係があったとしても「見分け」「相違の明確化」に関連してのことであったと考えた方がいいと思います。「嘆願書」にある「役目」の妨げになるという先の一文は主の「理由」ではないと思います。藩側を説得するための「理由」でしかないと考えます。

むしろ,注目すべきは「右躰之衣類被為仰付候ては,老若男女に到迄精気落」「右躰之衣類,追々着用仕候てハ,世間通行相叶不申程の御趣意被為仰付」の一文ではないかと思っています。

それから岡山藩城下は江戸のような大都市ではない。役人村であった城下五ヵ村にしても町ではなく城下周辺の農村に位置しています。城下町の「目明」として犯人逮捕というより番役として街道筋を見張っているか不審者の村内侵入を見張るのが役目です。


「渋染一揆」に関しては未だ不可解・不明確な部分が多くあります。「無紋渋染藍染」に抗した理由についても藩側・穢多側の両方の史料に明確に記述されていません。「口書」(供述調書)にも書かれていません。不思議にさえ思うのは,なぜ明確に理由が書かれていないかです。しかも,今回(安政2年)が初めての御触ではなく,天保13年(1842年)にも全く同じ御触が出され,それは「嘆願」によって撤回させている。「藍染」は通常の衣類にも用いられているが,「渋染」は脚絆や前掛などに用いられるのみで衣類には不適用な素材です。潜んで見張る際に強盗や害虫などに対する防護服とでも考えたのかどうか。そのような理由付けの記述もない。
「渋染・藍染」に関してはもう少し考えてみたい。ただ,彼らが「無紋渋染藍染」に抗して立ち上がったことは史実であり,事実上の空文化に成功したことも史実です。


ここで疑問点を2つほど。1つは,「歎願書」に書かれた言い分(理由)の真偽です。「歎願書」には自分たちが経済的には貧しい状況であると書いています。しかしながら,相対的ではあっても果たして経済的にはどうだったのでしょうか?「歎願書」が実態であったのかどうか,疑問に感じています。相対的に考えて,平人(百姓)と同等かそれ以上の暮らしであったと思います。前後の文脈から考えて,貧しさを強調する一方で,それでも年貢をきちんと納めていると,自分たちの農業や番役についての忠勤ぶりを誇張するための方便とも受け取れます。

2つは,「歎願書」に書かれた穢多身分の生活実態が事実として,それにも関わらず(それを知っていて),なぜに「定紋」の禁止を命じたのでしょうか。また,穢多身分の生活状況を知らなかったにせよ,なぜ「定紋」の禁止を命じたのでしょうか。つまり,穢多身分の側からではなく,命じた岡山藩側の意図を考える必要があります。平人に向けた24ヵ条には「定紋」に関する規定はありません。

もし,29条が「倹約」を意図してのものであれば,穢多身分より圧倒的人数の多い平人にこそ,着物の新調を禁止した方が,救済米の減少や年貢納入の不足などによる経済効果をはかることができるでしょう。

彼らの「歎願書」を「屁理屈」と大庄屋が言い捨てています。平人は穢多身分の生活状況や経済力を見知っていたのではないでしょうか。そして,彼らの生活実態を役人や郡奉行に報告していたとも考えられます。だからといって,平人以上の倹約を命じて一体何のメリットがあるのでしょうか?この考えでは,従来の「近世政治起源説」の「分断支配」「百姓に優越感を感じさせる目的」と同じです。私は,「別段御触書」の目的を経済的な意味での「倹約令」ではなく,身分制の乱れを正すという意味があったと考えています。そのための見た目の「差異」の強調化・顕在化であったと考えています。

「定紋」を付けることは許された身分と,そうではない身分に「分け隔てる」ことが目的であったと思います。平人との「分け隔て」こそが彼には耐え難い「差別」であったのではないでしょうか。この意味から,「家紋」は彼らにとって「こだわる」必要があったのではないでしょうか。日頃は安い他家の家紋の着物であっても構わないが,磯部さんの言う特別なときには自らの「家紋」「定紋」を着る。それさえもが禁止される。このことは自らの「家紋」の否定とさえ感じられたのではないかと思います。江戸時代は自家の「由緒」にこだわりをもっていました。また「家」にも強い意識をもっていました。穢多身分とても同じではなかったかと思います。

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「渋染一揆」再考(5):「倹約令」の目的

天保13年(1842)の『御触書写』(清水村)より,穢多身分に出された触書を転載する。

穢多・隠亡之類,居小屋・衣類等平人ニ紛不申様別て下り可申,素商売等之義皮類は格別,其外之義は堅不相成候事

「但居小屋其外瓦付并門かまい等致候者有之候ハヽ早々取払せ候事 着類棒嶋可為事」

穢多や隠亡たちの居小屋や衣類などは,平人と紛れないように,特に引き下がること。言うまでもなく,商売などについては皮類は特別とするが,その外の物については堅く禁止する。

「ただし,居小屋などに瓦を葺いたり,門構などをしている者があれば早急に取り払わせること。着物などは,棒縞とすること」

「衣類淺黄空色無地無紋,羽織・脇差差留 但捕もの之節ハ脇差指免候事」

衣類は,浅黄色・空色・無地・無紋とすること。羽織・脇差は禁止する。ただし,捕物のときは,脇差は許可する。

まず,この史料が天保13年(1842)であることから,ペリー来航(1854)に端を発する対外国防備と治安維持を目的とした「御触書」(穢多の「制服」説)ではないことは明確である。たとえ,1837年の米船(モリソン号)浦賀来航以降,諸外国が日本近海に出現していたとか,阿片戦争の余波を警戒したとかを背景とする理由を述べようとも飛躍した論考であることは疑いようがない。むしろ,幕府による「天保の改革」にならっての(諸藩の)藩政改革であったと考えるべきである。

『禁服訟歎難訟記』の冒頭部分には,ペリー来航に関する記述があるが,国防に協力して褒美として藩主慶政が少将に任ぜられ,五家老が順番で房州へ出勤しており,そのため国内は平穏であったと書かれているだけである。

このことと合わせて,安政2年(1855)の触書は天保13年(1842)の触書を基底としており,天保13年の触書に「無紋渋染藍染」ないしは「衣類淺黄空色無地無紋」があるということから,衣類の規定が対外国勢力への示威・牽制を目的(「制服」着用)としたものでないことは明らかである。

続けて『禁服訟歎難訟記』の冒頭部分を転載してみる。

…間には非礼我察の者成ハ,分限不応衣類衣服を餝り,古来の御掟等を背,散ざんに勝手而巳に諸人増長ニ及。御上様にも,五ヶ年七ヶ年ト間を置,御倹約御触書被成けるといえ共,平百姓を始,皮多百姓共慎方,至て宜しからず。

私は,この部分が「渋染一揆」の核心と考えている。つまり,幕藩体制の要である身分制を崩す実態に対する危機感である。百姓や穢多身分の贅沢は,一方で「質素・倹約」への違反であり,他方では「身分制・身分相応」への違反であったと考える。それゆえ,「倹約令」の中に身分制を立て直すための「身分引き締め」の条項が加えられたのだと考える。それは「穢多・隠亡之類,居小屋・衣類等平人ニ紛不申様別て下り可申」に示されている。

穢多身分が「捕り物」に動員されていたのは,それが「役目」であるからで,衣類の統制とは一切関係ない。まして,外国人に対する示威・牽制として穢多身分の衣類を統一(制服)するのであれば,従来のように「羽織・脇差」を認めれば,平人とは違う風体となるわけだから,その方が十分に効果があるだろう。

「羽織・脇差」については,彼らが「番役」「目明」「捕方役」の御用に従事していたから許可されたのであって,武士の末端に位置づけられていたからではない。あくまでも身分は「穢多身分」であって武士身分ではない。役目上の組織図と身分を混同してはいけない。治安維持は役務として命じられていたに過ぎない。また,「御法」に従っていたのは穢多だけでないし,「御法」に従うことが偉いのでもない。現在でも法律に従うのは当然のことで,それを遵守したからといって偉いわけでもない。また周囲が偉いと思うわけでもない。「目明し」や「番役」と同じく「牢番」にしても,役務に忠勤したことや囚人に親切であったから偉いのでもない。

同様に,穢多身分の人々を差別した者もいただろうし,何ら差別もせず普通に接した者もいただろう。差別の具体的な実態ではなく,穢多身分と平人身分とが分け隔てられていた意味,賤視されていた事実,そこから身分差別・賤民・賤視観について考えてみたいと思っている。

何より,衣類の規定の目的は「平人ニ紛不申様別て下り可申」であって,平人との対比である。それに対して,穢多身分は何を求めたか。自らを穢多と書き記さず「皮多百姓」と書いた意味,「我等は皮多百姓である」こそが自意識であろう。武士身分の末席に位置する「穢多」としての自意識など彼らにはない。「下賤成ル穢多共候得共」と武士に対して認める一方で,彼らは自らを穢多ではなく「皮多百姓」と呼ぶ自意識をもっている。穢多であることを誇っていれば,自らを「穢多」と呼ぶだろう。そう呼べない,呼びたくない思いがあったからではないだろうか。また,「皮多百姓」と「百姓」にこだわったのも,彼らの目指した「平人化」のゆえである。彼らは,武士に対して,周囲に対して,穢多ではなく「同じ百姓」としての扱いを願ったのだと考えている。

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「渋染一揆」再考(6):古着と新調

『屑者重宝記』所収の「別段御触書」に,次の一文がある。

新ニ調候義ハ無紋渋染藍染之外ハ決て相成不申

一,家内不手廻ニて衣類新ニ拵候義難相成者共へハ木綿古着之類買調用へ候義先不苦事。

一,家計が苦しく着物を新調することがむずかしい者たちは,木綿の古着の類を買って着ることはかまわない。

「無紋渋染藍染」の衣類の強制は,新調の場合であって,古着の場合は構わないと許可している。「歎願書」の文面を信じるならば,定紋付の着物を新調できるのは10人中1〜2人であり,他の者は古着とのことであるから,実際にすぐ難渋することはないはずである。にもかかわらず彼らは気落ちし,昼夜に涙して歎いている。

「新調」にこだわっているのは岡山藩側であり,その目的が「倹約」であれば,穢多身分の実情は「歎願書」とはちがって,皆が新調しているほどに豊かであったことになる。また,豊かであり新調できる財力をもつ穢多身分ということになれば,純粋に「倹約」に反対したことになる。だが,平人(百姓)と同じ「倹約令」については承服すると言っていることから,「倹約」に反対しているとも思えない。「渋染・藍染」の衣類が木綿と比べてそれほどに安価とも思えない。

では,なぜそれほどに「無紋渋染藍染」の衣類に反対したのだろうか。はっきりしているのは,平人(百姓)との格差(差異)をつけた「倹約令」であることだ。身分による格差(差異)は,身分による別が当然であった江戸時代にあっても,これは「身分差別」である。穢多身分が平人とは「ちがった扱い」を受けていることは事実である。そして,この不当な扱いに対して彼らは「難渋」「心外」と思っている。それゆえ,穢多身分が差別されていないとは言えない。


『御倹約御触書』及び『禁服訟歎難訟記』『穢多共徒党一件留帳』に記載されている「別段御触書」にも,【乍併,急仕替候事ハ,却て費事,迷惑可致哉ニ付,麁抹之木綿衣類,其儘当分着用先不苦シ】(しかしながら急に仕替えるのでは,かえって費用もかかり,迷惑するかもしれないので,これまで所持している粗末な木綿の着物は,そのまま当分着用してもよい)の一文がある。

【麁】という文字,訓読みでは「あらい」である。「麁服」=「麁末」な衣類 であるから,「倹約」であると思う。むしろ,あえて「別段御触書」に書かれたことに意味があると考えている。

『御倹約御触書』の第1条には,次のように書かれている。

男女衣類可為木綿ゑり袖口にも田舎絹之類之外無用,綿服目立敷染物不相成夏物ハ木綿ゆかた染地布類,帷子奈良縞高宮稿生平之類持掛り不苦候

但七十以上十歳已下之者共有合せ候麁末之絹類裡下着ニ相用候義ハ不苦候,尤小児は小切継に持懸り不苦,併目立候品は不相成候事

領民に対しては【有合せ候麁末之絹類裡下着ニ相用候義ハ不苦候】(有り合わせている粗末な絹類は,裏地・下着に用いることはかまわない)であるが,穢多身分には「別段」にて【麁抹之木綿衣類】(粗末な木綿の着物)である。

「粗末な絹類の裏地・下着」(年齢制限はあるが)と「粗末な木綿衣類」のちがい,あるいは「木綿の許可」と「木綿の禁止」のちがいが何を意味しているのだろうか。単なる「差異」の強調だろうか。それとも経済的な「格差」を顕在化させるためなのだろうか。逆に考えれば,穢多身分の経済力が平人(百姓)よりも高いことが身分制の弛みに関係していたのか。だが,『歎願書』には自分たちの貧しさが記述されている。「倹約御触書」の目的と「別段御触書」の目的,これらについても再考しなければならないだろう。


『禁服訟歎難訟記』は,神下村判頭豊五郎が書き記したものである。彼は「穢多身分」である。この『禁服訟歎難訟記』は,拙HPに現代語訳版を転載しているが,良く読めばわかると思うが,会話文の箇所では,庄屋及び村役人は「穢多」と呼んでいるし,彼らに自らのことを述べる場面でも「穢多」を使っている。また「御倹約御触書」及び「歎願書」でも「穢多」と呼ばれ,自らを「穢多」とも呼んでいる。しかし,他の箇所では「皮多百姓」と記述している。つまり,会話を含めて客観的な場面(事実)の記述では「穢多」を使い,豊五郎が自らの意見や考えを述べている箇所,たとえば冒頭の部分では「皮多百姓」と自らを呼んでいる。

『禁服訟歎難訟記』も『屑者重宝記』も共に記録書である。事実を客観的に記述しているのがほとんどであり,自分たちの言動や庄屋・村役人との会話によって成り立っている。だが,所々に豊五郎の所感が書かれている。その部分では「皮多百姓」と自分たちのことを記述している。このような点,他身分との関係性に留意して読み深めれば,彼らの自意識がわかるだろう。

「穢多(身分)」であることを誇りに思っていれば,「皮多百姓」の呼称を使うことはなく,謙った表現とはいえ「下賤なる穢多」などと自らを呼ぶこともない。私には「謙虚さ」だけとも思えない。やはり自らの身分的立場に対する「卑屈さ」を感じると同時に,自らが置かれている身分的立場への怒りも感じられる。それが「皮多百姓」であるという自負心となっていると思う。

「賤民」であるかどうかが問題ではない。「賤民」と見なしている人間と社会が問題なのである。「同じ人間」であるかどうか,同じ人間であっても「賤民」であるかどうか,同じ人間であっても自分たちとは「ちがう」かどうか,それを決めるのは,見なす側の意識の問題である。「賤民」が存在したかどうかの問題ではない。

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「渋染一揆」再考(4):家紋

『池田家履歴略記続集・後編』に「穢多結党」と題する「渋染一揆」に関する記述がある。『池田家履歴略記』とは,岡山藩主池田家の通史であり,歴代の重要事件を編年体で物語風に記述したものである。

「穢多結党」の冒頭に,穢多たちに対して別段条項を出した理由が書かれている。

旧来穢多共銘々定紋の服は停止なりしかとも近来法度ゆるみてひそかに新調せしかは此度の改革にて復古すへきとて命を出せし也。

旧来,穢多たちは,それぞれの家紋の付いた着物は禁止されていたけれども,近年,法度がゆるんで,こっそりと新調しているので,この度の改革で元のとおりにすべきだと倹約令を出したのである。

また,『穢多共徒党一件留帳』には,次のような興味深い記述がある。この『穢多共徒党一件留帳』は,下原村の名主高原国平が書いて,和気郡藤野村の大庄屋万波七郎右衛門に提出した報告書の草稿である。大庄屋万波七郎右衛門の組下であった藤野・稲坪・森の三ヵ村の被差別部落民が「渋染一揆」に参加した動向を記したものである。

尤,外部穢多共も大意同様歎書出シ候由。篤と相考候処,願面甚潤餝ニて御下知相拒候文意ニ当り,是ニては御趣意ニ障り,御聞上も有之間敷,郡中大庄屋中内談之上,指当り迷惑之廉,藍染・渋染両条御歎申上遣候ハヽ,何も指支も有之間敷,其段組合三ケ村ニも及理解候処,定紋御免之儀歎出。併,是ハ指支之訳ニ無之段,及理解候得共,聢と承服不致に付,則,内々歎書左之通相認。郡中同役へも移合候処,外組々ハ承服致候様子ニ相聞候得とも藤野村穢多とも兎角定紋之処御歎ニ外れ候ては,外部穢多共御免相成候節当郡定紋丈洩れ候様相成候ては迷惑仕候段,先御見合可被下と村役人之申出全承服不仕ニ付,正面指出不申候得とも,御両頭様へも御内見ニ入れ候ニ付,左ニ留置申候。

もっとも,他の村の穢多たちも,大意は同じような歎願書を差し出したとのことである。よく考えてみたところ,願いの書面が甚だしく屁理屈をこね命令を拒否する内容になっているので,これでは,お上の趣意に障って,聞き上げられることはない。そこで郡中の大庄屋たちが内々に相談し,「差し当たり迷惑する藍染・渋染に関する両条について歎願を申し上げてやるから,何も差し支えることはなかろう」と,そのことを組合の三カ村に説得した。ところが,「定紋付についても許可してもらいたい」と,歎き出てきた。しかし,これは差し支えることはないと説得をしたけれども,はっきりと承服しないので,則ち,内々に歎願書を左のとおり書いた。

郡中の同役の者にも連絡したところ,外の組々は承服した様子に聞いたけれども,藤野村の穢多たちは,ともかく定紋のところが,歎願から外れたのでは,外の郡の穢多たちにお許しがあった際,当郡の定紋だけが洩れるようなことになる。それでは,迷惑すると言って,先ず,見合わせてくれと村役人に申し出て,全く承服しないので,正式の書面は差し出さなかったけれども,御両頭様(郡奉行・代官)へも内見しておいたので,左に記しておく。

この2つの史料から,「無紋」と「渋染藍染」は別々の問題として考える必要があるように思う。「渋染藍染」が許されても「定紋」が許されなければ困ると歎願していることからも,彼らにとって「家紋」「定紋」は重要な問題であったことがわかる。

他の史料(口書)に「渋染藍染」の「染色」を問題にして歎願したとの記述もあった。「家紋」「定紋」と合わせて,「無紋渋染藍染」の意味と歎願の理由について考えてみたいと思っている。

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「渋染一揆」再考(2):嘆願の本旨

歎願の本旨は,「嘆願書」の最後に書いている「乍併右御趣意之印形奉指上候へば弥以向後渋染藍染之外ハ着用不相成哉と乍恐奉存」(右の御趣意を承諾する押印をしてしまえば,いよいよもって,今後,渋染・藍染の外の着物は着られなくなるのではないかと存じます。)であるが,その本旨の理由として述べている8ヵ条より,役目との関係を理由にしている部分について考察してみたい。

非常之御備ニも相成居申者共ニ候得ば右躰別段御隔被為仰付候ては最早一同無甲斐。勿論,若者共は農業等も打捨可申程ニ性気ヲ落し心外歎敷奉存候」

(非常の際の警備にもついている者たちですから,右のような別途のお触れで百姓とわけ隔てをなさっては,もはや,私たち一同生きる甲斐もありません。もちろん,若者たちは農業等をほってしまうほど元気をなくして,心外で歎かわしく存じます。)

城下近在五ケ村穢多共番役等仕居申者数有之。尚又御牢屋敷死科之者有之節其手御用相勤居申者も多人数御座候へば五ケ村穢多共ハ素より其外之類村同様兼て御用害之穢多役人故年々村々え御米四俵宛奉頂戴居申義諏訪御用之節奉尽御忠勤身分ニて乍恐御座候故御百姓様一同御承知被為有候得ば兼て役人村と御唱被成故盗賊又は強盗荒破者等参居申時其村引請番役人は不及申上ニ其外無役之者共迄即座一命ニ可相拘も不厭候て御用出情致奉尽用忠勤候処ニ右躰之衣類着用仕候ては,御城下或は在々浦々迄も盗賊又は胡乱ケ間敷者遠見より道ヲ替逃隠行逢ヒ不申。左候へば人相見立は尚以出来かたく然ル上は召捕候義相叶不申。其時御用忽懈怠と罷成候様乍恐奉存候。

(城下近くの五ヵ村の穢多たちは,番役などの役目についている者が多くいます。また,牢屋で死刑になった者があった時には,その処理のための仕事についている者も大勢います。従って,五ヵ村穢多たちはもとより,その外の穢多村も同じように,かねてから御用害の穢多役人であるので,毎年村々に米四俵宛をいただいているのです。いざ,御用のとき,忠勤を尽くす身分の者です。それ故百姓一同は,このことを承知しておるので,かねて,役人村と呼んでいるので,盗賊又は,強盗・スパイなどがやってきたときには,その村の引請の番役人は言うまでもなく,その外,無役の者までが,すぐに一命にかかわるのもいとわず,御用に精を出し,忠勤を尽くしてきました。それなのに,右のような着物を着たのでは,城下あるいは村々・浦々でも盗賊や怪しげな者たちが遠くから見つけて道をかえて逃げかくれして,行き合うこともできなくなります。そうなると,人相を確かめることは一層むつかしくなり,その上,捕らえることはできなくなります。その時は,忽ち,御用を怠ることになると存じます。)

                             (『屑者重宝記』「歎願書」)

私は,【右躰別段御隔被為仰付候ては】の一文に彼らが「渋染藍染の衣類」を拒否したいと思った「理由」があると考えている。彼らは「渋染藍染の衣類」の強要を「百姓との分け隔て」であると受けとめている。つまり,彼らは岡山藩が別段の触書を出した目的を「百姓との分け隔て」と見ているのである。

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「渋染一揆」再考(3):「別段御触書」

安政2(1855)年に岡山藩より出された『御倹約御触書』のうち,穢多身分に対してのみ出された「別段5ヵ条」を原文と現代語訳(『岡山部落解放研究所紀要』6号)より転載して,若干の私見(疑問)を述べておきたいと思う。

25条(別段1条)

穢多衣類無紋渋染藍染ニ限り候義勿論之事ニ候,乍然急ニ仕替候てハ却て費ヲ生シ迷惑可致哉ニ付,是迄持かかり麁末之もめん衣類其儘当分着用先不苦,持かゝりニても定紋付之分ハ着用無用,素藍染渋染之外ハ新調候義は決て不相成事

穢多の着物は,無地の渋染藍染に限ることはもちろんのことである。しかしながら急に仕替えるのでは,かえって費用もかかり,迷惑するかもしれないので,これまで所持している粗末な木綿の着物は,そのまま当分着用してもよろしい。所持しているものでも,定紋付のものは着てはいけない。もとより,藍染渋染の外は,新調することは決してならない。

研究所の現代語訳では「無紋」を「無地」としているが,「紋の付いていない」の意味である。
確かに「無紋渋染藍染」となっていることから「無紋」で(の)「渋染」か「藍染」の衣類と解釈すれば,「無紋」も「規制(禁止)条件」ではある。また,「持かゝりニても定紋付之分ハ着用無用」とあるように「定紋付」の即禁止が命じられている点を考えれば,「紋付きの衣類」着用が岡山藩にとって政治上(支配・統制上)の妨げとなったと考えられる。ただ,このことが穢多身分の者にとってはどうであったのかは考察の必要がある。

「定紋付」に対比する歎願の一文を「歎願書」より転載してみる。

持掛りニても,定紋付之分,決て着用不相用候様,被為仰付,奉恐入,然共,新調銘々定紋付抔仕居申者御座候。尤,一ケ村ニ壱人ト弐人は有問鋪程も,乍恐無叶,十人ハ七八迄縞紋之古着買求,着用仕候ゆへ,紋付等之染地は別て値段下直御座候得ば,皆他之定紋ニて乍恐御座候。難渋之者ニてハ,兎角代物引合,値段下直之物ヲ好ミ,損益不厭,当分の身凌致衣類之義ハ,只壱匁ニても御年貢指支之時分引当致,兎角手早上納仕義,一同心配相励居申処,此度之御趣意承り候てハ,老若男女共,身分如何相成り候哉と,昼夜之苦ミ難尽申上,明々涙ヲ流し,如何之因縁ニて,又候別段之御下知被為仰付,心外歎鋪奉存候。

現在所有している物でも,定紋付の着物は決して着用してはならないと仰せ付けになられ,恐れ入っております。しかしながら新調するとき,銘々の定紋付のものなどを作る者などはこざいません。もっとも,一ヵ村に一人や二人は定紋付を作る者があるかもしれませんが,恐れながらほとんどみんなそういう物は作れません。十人の中,七〜八人までの者は縞柄紋付の古着を買って着ております。紋付などの染地はとりわけ安価なので,恐れながら,皆他の家の定紋でごさいます。難渋している者はとかく代金の引き合う,安価な物を好み,損得をあれこれ言わす,当座の暮らしを切り抜けています。年貢を納めるとき不足があれば,衣類はたったの一匁であっても年貢が差し支えたときにその不足を埋めるのに使い,とにかくさっさと年貢を納めることをみんなが心配りし,励んでおるところです。ですのにこの度のお触れを承知しますと,老若男女とも,身の上がどのようになるだろうかと,昼夜をとおして苦悩しておりますことは筆舌に尽くし難うごさいます。みんな涙を流し,何の因果でまたしてもこのような別段の命令を下されたのか,心外で歎かわしいことだと思っています。

「歎願書」全文を見ても,「定紋付」のみに関して難渋な思いを述べている部分は上の一文だけである。他は「右躰之衣類」と表現している。「定紋付」が着用できないことのみが彼らを一揆にまで走らせた理由とは思えない。

上記の「歎願理由」から推察できることは,古着屋において定紋付の着物が安価であるということは,無紋(無地)の着物よりも定紋付の着物が多かったということであり,定紋付の着物を新調していた町人や武士が古着を売っていたということであろうか。無紋の方が高いとは,染め直して自家の紋を入れることができるからか,それとも他家の紋を着ることは「貧しさ」の証左であったのか。あるいは「格式」から皆があまり購入しなかったからか。「損益不厭」の意味するところは何か。

定紋付を新調する穢多身分の者(家)があるということは豊かさの証左であり,経済格差があったということだが,「皆他之定紋ニて乍恐御座候」ということはそれぞれ自家の紋があったということでもある。ならば,自家の紋と同じ紋の古着を購入すればよいと考えるが,そうはならず,定紋付の方が安いということは,同じ家紋が少なかったということだろうか。

定紋付の着物であれば,生地にしてもよいものを用いると考えるのは妥当だろう。まして町家や武家であれば尚更だろう。しかし,それが安価というのは,生地に関係なく新調の際は皆「定紋付」にしていたと考えるべきだろう。

ここでは「定紋付」を着用できないことは,<自家の家紋を否認された=他身分との隔て>と受けとめたと考えるか,あるいは経済的困窮につながると不安感を募らせたと考えるかだと思う。

私は「無紋渋染藍染」はワンセットであると考えている。つまり,「無紋渋染藍染」=他身分との差異を明確にする目的である,と考えている。

『高槻市史』(第4巻 史料編)に所収されている「87 皮多服装規制につき連判請書」を転載してみる。

御請書

此度,当所本照寺御堂地築御座候ニ付,私共去十五日右地築ニ罷出候節,身分不相応之衣服等着用仕候儀,御差当御叱リヲ受,此儀一言之申訳

茂無御座恐入候,此上右躰之儀御座候而,私共罷出候とも,身分相応之麁服を着し候而,随分竊ニ相慎罷出候間,何分此度私共心得違不調法之段御免被

成下候様願上候,此上御当村者勿論他村江稼ニ罷出候節,一切不礼ヶ間敷儀決而致シ申間敷候,若雨天之節本郷江罷出候共,傘・けた等是又急度着用致シ申間敷候,何卒此度心得違不調法之段幾重ニ茂御免被成下候様御願申上候,仍而御請書一統連判差上候,以上

江戸時代の「御触書」に頻繁に出てくる「理由」がここにも書かれている。それは「身分不相応之衣服」「身分相応之麁服を着し候而」「心得違不調法之段」「心得違不調法之段」である。つまり,身分不相応な衣類を着用したことは心得違いである,という身分制社会のルール違反を咎めていることである。これは「渋染一揆」も同じである。

『禁服訟歎難訟記』に,村々の役人が穢多たちを呼び集めて「御倹約御触書」を命じるとき,次のように言い聞かせている。

元来身分賤者之義故,平の百姓ニ対シ,身分之程考候て,礼義引下,万事相慎可申義,勿論之事候。前々より,触為知候得共,間にハ心得違,非礼我察之挙働致候者共有之候趣相聞,不埒之事ニ候。

つまり,着衣には「身分相応」の衣服があり,それを守ることは「礼義」であり,守らないのは「心得違い」である。これが江戸時代の身分制社会なのである。

このように考察すれば,「無紋渋染藍染」の着衣強要は「身分統制」であると解釈できる。逆に,穢多身分がこれに対して反対したのは,身分統制が他身分との分け隔て(差異・差別の強化)となるからであると考える。

穢多身分の者が「目明し」などの役務に忠実であり,法を遵守する立場の考えから「無紋渋染藍染」に反対したのであれば,まして「制服」着用に対する反対であれば,上記のような村々の役人からの言い聞かせなどあり得ないことだろう。まして外国人に対する「威圧」の存在として顕在化させる必要があれば,その旨を明確に示して言い聞かせるだろう。そんなことはどこにも書かれてはいない。

26条(別段2条)

目明共義ハ平日之風体御百姓とハ相別居申事ゆへ衣類之儀ハ先迄之通差心得可申,尤絹類相用候義ハ一切不相成事

目明かしたちのことは,日ごろの身なりが百姓とは違っているので,着物の件は先ずこれまでのとおりであると心得よ。もっとも絹類を用いることは,一切いけない。

この一文の趣旨は「平日之風体御百姓とハ相別居申事」にある。この一文から「無紋渋染藍染」の衣服が武士や町人ではなく百姓との相違を明確にするという目的であることが推察できる。「目明」の役務に従事している者は従前通りでよいのだから,この一文からも「制服」などでないことは明らかである。まして「尤絹類相用候義ハ一切不相成事」など付け加える意味(必要性)はない。

百姓との風体が異なるから,あえて「身分統制」(衣服によって身分の差を明らかにすること。穢多身分と一目で見分けられること)の必要性がないのである。

『江戸の犯罪白書』(重松一義)には同心・与力の風体について書かれているが,いわゆる捕物帖に描かれる「目明」「岡っ引」「下っ引」の服装にしても態度にしても,やはり一目でそれとわかる。「捕方」「行刑役」「番役」も同じである。

27条(別段3条)

雨天之節隣家或ハ村内同輩等へ参候節も土足ニ相成候てハ迷惑可致哉ニ付左様之節ハくり下駄相用候義先見免シ可申,尤見知候御百姓ニ行逢候ハ,下駄ぬき時宜いたし可申,他村程隔候所へ参候ニ下駄用候義ハ無用之事

雨天のとき,隣家や村内のなかま等の家へ行くとき,はだしであっては迷惑するであろうから,そのようなときは,くり下駄を履くことは,先ず認める。もっとも,顔見知りの百姓に行き会ったならば,下駄をぬいで,お辞儀をせよ。他村などの遠くへ行くときは,下駄を用いることは無用である。

この一文は,村内と村外での風体を「下駄の有無」で差異の明確化をはかっている。村内であれば,誰が見ても穢多身分の者と識別できる。しかし,村外で,しかも服装等が百姓と大差なければ穢多身分の者とはわからない。当然,態度も言動も「礼義」を失したり,「非礼我察」ともなるだろう。何より身分の差異はわかりにくく,身分統制はとれない。この一文の目的は,下駄の有無による身分の明確化である。

では,「歎願書」において,なぜこの一文に関しては反対(拒否)していないのか。その必要性が少ないからである。「歎願書」には日頃から百姓に対して礼義を守って慎んでいると書いてあることは事実であろう。だから,百姓への「下駄ぬき時宜いたし可申」はさほどに問題視していないと考えられる。現在とちがって村内人口も多くないだろうし,日に幾度も近隣の百姓に出会うこともなかったのではないだろうか。また村外に出ることが度々あったとも思えない。

それに,「無紋渋染藍染」の着衣でなければ,平人(百姓・町人)と見分けの付かぬ衣服であれば,村外に出ればわからないだろうから,「無紋渋染藍染」の強要を撤回させることができれば,この条文も実質的には無意味となる。

28条(別段4条)

身元相応ニ暮し御年貢米進不致もの之家内女子之分ハ,格別ニ竹柄白張傘相用候義見免可申事

身分相応に暮らし,年貢を滞納していない家の女子については,特別,竹の柄の白張傘を使用することは認める。

この条文からは,雨天時の傘の使用を禁止しているかどうかは不明である。ただ,先の「尤絹類相用候義ハ一切不相成事」(26条)や「勿論絹類一切弥以無用之事」(29条)から,さらに「御倹約御触書」の趣旨と合わせて考えれば,贅沢禁止と受け取ることができる。

「竹柄白張傘」は安価で粗末な傘である。これに「限定」することは,百姓身分との差異の明確化と,穢多身分であることの顕在化を意味している。「御倹約御触書」の領民全員に対して出された(別段以外の)24条のうち,20条と21条に「傘」に関する規制がある。

20条

日傘雪駄相用申間敷候,但女ハ白渋張傘は不苦候事

日傘・雪駄は用いないこと。ただし,女は白の渋張傘はかまわない。

21条

雨天之節みの笠相用可申,手傘相用候とも竹之柄白張傘くり下駄之外無用

雨天の日は,蓑傘を用いること。手傘を用いても,竹の柄で白張傘。栗下駄の外は使用してはいけない。

20条は「日傘・雪駄」は贅沢品であることから,倹約の目的であることは明らかである。「渋張」は「柿渋」に撥水性があることでよく使われていた。

21条と28条を比べて,内容に特別の差はない。「身元相応ニ暮し御年貢米進不致もの之家内女子之分ハ」という「条件」の差だけである。この「条件」から年貢確保を促していることはまちがいない。だからこそ,逆に「歎願書」に,自分たちがどのように苦労しながらも年貢を納めようとしてきたかを述べている。また,岡山藩が同じ身分内にも格差・差異を付けていることがわかる。

これら(別段御触書)により,否応なく「穢多身分であること」「穢多身分に限定された生活を強いられること」を甘受させられることになる。彼らが反対・拒否した理由であると考えている。

29条(別段5条)

番役等相勤候もの共,他所向役先之義ハ先是迄之通差心得可申,勿論絹類一切弥以無用之事

番役などを勤めている者たちは,他所に行くときや,役目の先に行くときは,先ずこれまでのとおりと心得よ。もちろん絹類は,一切着ることはいよいよもって無用である。

この条文にも「条件」が付いている。「番役等」を勤めている者で,「他所」に行くときや「役目先」に行くとき,に限られている。なぜ,他所に行くときは「無紋渋染藍染」の衣類を着用しなくてもよいのかが疑問である。先の26条との関わりから,日頃の風体がちがうからだろうか。あるいは,「役目」(番役)を勤めていること自体が「平人とのちがい」(身分の差異)を明白にしているからだろうか。


「身分の差異」を「差別」と捉えるかどうかで意見の分かれるところだが,支配者側(岡山藩)からの「規制命令」であることから身分統制は「身分差別」であると考える。先の21条と28条を比べてみるまでもなく,「御倹約御触書」において,穢多身分と他身分に対する身分統制の差異,岡山藩による「扱い」が身分によって差を付けていることは歴然である。これを「身分差別」と言わず何というのだろうか。

「御倹約御触書」の目的は「倹約令」と「身分統制」である。このことは「別段御触書」においても同じである。

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「渋染一揆」関連史

●1702(元禄15)年,「御役目拒否(返上)」

「穢多頭」の多左衛門が「(処刑した罪人の)死骸を取り片付ける役目は,御百姓であるわれわれがやるべき仕事ではないはずだ」と主張し,役目を公然と拒否し,争った。

慣例(死刑囚の死骸の片付けは穢多,処罰以外の死骸の片付けは隠亡)ではあっても,藩令に拒否し,係争となった。

所轄の大庄屋南方村の庄次郎の「御百姓は(死骸の片付けなど)しない。するのは乞食(非人)である。」という意見から「我々穢多は乞食(非人)とは違い,御百姓である。したがって死骸の片付けは我々の仕事ではない。」と考えたと伝えられている。

また,「穢多」身分であっても「御百姓」であるといった意識を持っており,この「御百姓」意識は,岡山藩主池田光政の言説に由来するといわれている。穢多を不浄であるという側近をたしなめ,自分の領内に住む者であれば「穢多も一統わが百姓」といった。また,光政の問いに,穢多の米は不浄の米ゆえ米で納めさせていないといったため,わが百姓に相違ない部落の者を左様に分け隔てするいわれはないと,米納に改めるように申しつけた。

身分が異なれば扱いが違うのは当然のことであり,「同じ人間」であるという意識から「穢多」扱いを受けていることに抵抗したのではなく自分達は「御百姓」なので「御百姓」として扱って然るべきといった主張である。

●1782(天明2)年,「真宗(浄土真宗)への改宗拒否」

備前・備中・美作12ヶ寺に対し,真言宗から浄土真宗に改宗するように命じる。幕府の改宗強制に対し,岡山藩常福寺の檀家は徹底的に拒否する。

岡山における被差別部落の「旦那寺」は,慶長19年頃に実施された宗門改めによって檀家制度とともにつくられた。備中・美作は,被差別部落の方で僧侶を招き入れ寺をつくった。備前は,先の中納言(宇喜多秀家)の時,国守に刑番を置き,寺も置いた。元禄元年以前は,高野山寿福院を本山とし,備中の大宝寺を中本山とした。備前の常福寺,備中の増福寺,美作の大法寺という関係があったが,本山が退転したため1688(元禄元)年以降は本山をもたない単独の寺となった。

改宗は,大法寺の住職であった海順の訴状が契機となった。海順は修行のために本山を求め,高野山の金剛峯寺に本山を頼むが,皮田の寺で真言宗の末寺はないと断られた。海順は,本山を求めるきっかけとなった本願寺の塔頭・金福寺の僧,玉琳の「もし浄土真宗でよければ金福寺の末寺になりなさい」という言葉に従おうと考え,檀家に話した。15ヶ村の内11ヶ村は賛成するが,有力な檀家が反対する。そして,海順が所用で大阪に行っている間に,海順を寺から追放した。海順は困り,久世の代官所や大阪奉行所に訴え出るが取り上げてもらえず,ついに,大阪で目安箱に訴状を投書した。老中田沼意次のもと審議され,12年後の1782(天明2)年,万年七郎右右衛門(大阪代官)によって「真言宗に皮田寺はないのだから,一向宗(浄土真宗)であるべきだ」と判決が下された。この結果,美作・備中の寺は改宗した。備前には皮田寺は常福寺しかなく,その頃の住職であった智信(智心)は檀家の強固な反対のため退院してしまう。これに対し,岡山藩は強制的に改宗を命じることはなく藩内の真言宗の仮旦那とした。仮受入先となった真言宗の寺院は常福寺の檀家に対し,葬式があっても戒名だけつけて葬式には行かない(送戒名),法事があっても行かないといったことをし続けた。しかし,常福寺の檀家は常福寺の再興を要求し続けた。1796(寛政2)年,新しく神社奉行となった湯浅新兵衛によって,明王院の弟子「周温」を住職とし真言宗の寺院として常福寺は再興した。

「渋染一揆」において指導者的役割を果たした城下5ヶ村も常福寺の檀家であり,最初の惣寄合が開かれ,以後も度々寄合いがもたれた場所が「常福寺」でもある。

●1794(寛政6)年,「伊勢大神楽事件」

岡山県上道郡の村々を伊勢大新楽の一行が神楽を勤めていた。穢多達が自分たちの村でも神楽を勤めてくれるよう楽頭に依頼したところ拒否された。そこで,穢多達は,楽頭に激しく抗議した。そのため楽頭は,その地域を治めている名主の元を訪れ,穢多達を抑えるよう訴え出た。ところが,名主はなにもしなかった。困り果てた楽頭は岡山藩に訴え出た。その結果,伊勢大新楽の一行はこの地域にて神楽を勤めることを禁止され,以後,慶応3年まで来ていない。

当時の社会的地位の向上,分け隔てに対する抵抗・抗議が日常的に行われていたことが窺える。穢多村は少数であり本村(百姓)が多数の環境でありながらも,百姓に引けを取ることなく自分達の主張をしていた。百姓と同等の扱いを求め,拒否された場合は実力行使も行っている。

●1796(寛政8)年,15年にわたる(常福寺檀家による)改宗拒否および抗議を受け,常福寺が(真言宗のまま)再興となった。

●1833(天保4)年,衣類・家の造作・傘下駄の使用などの取り締まり令を発令する。

●1842(天保13)年6月,「穢多隠亡之類居小屋衣類等平人に紛し不申様別て引下がり可申(えた おんぼう)などといった者の家の造りや身なりが平人(百姓・町民)と区別できない状態となっているため,それぞれが身分をわきまえるべきである)」と申し渡す。

●同年7月,「風俗取締令(倹約令)」を発令し穢多の衣類について紋なし藍染・渋染に限定したが,目明かしを通じて嘆願し撤回となる。

●1843(天保14)年,1833年の取締令を繰り返し発令する。

●1850(嘉永3)年,1833年の取締令を繰り返し発令する。

●1855(安政3)年12月,倹約御触書(倹約令29箇条)を発令する。

●1856(安政4)年1月,発令された「別段御触書(5箇条)」の撤回を求め,嘆願運動を始める。

●1871(明治4)年,解放令 → 解放令反対一揆

●1902(明治35)年8月,三好伊平次が備前・備中・美作など県下の同志に呼びかけ,岡山市外石井村の常福寺に,県下の部落代表52名を結集して「備作平民会」の創立大会を開催した。三好は,岡崎熊吉とともに総務として,この運動を全県下に拡げた。全国に先駆けて結成された部落民が自らの力で差別を摘廃しようとした全県的組織であった。

●1921(大正10)年,水平社創立

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「渋染一揆」再考(7):染色

「渋染一揆」に関して,従前の「渋染」の衣服が存在しない(庶民の通常の衣類ではなかった)という説や認識は訂正する必要があると考えている。昨年末より衣服について調べていて,柿渋の衣服は存在したし,安価な実用的な衣服であるとわかった。では,なぜ岡山藩の穢多身分の人々が一揆まで起こすほどに反発したのだろうか。

岡山部落解放研究所の好並隆司氏が「所報」に『渋染一揆再論』として,「渋衣は非人が用いたという歴史的経緯」をもとに,渋色(柿色)の衣服は非人系の着けるものという認識が穢多にあったから反発したとの論を展開されている。

この渋着物については,“迷惑至極”“一同共……気落ち……生甲斐なく”とある。百姓と全く同じだとは思っていないのだから,その落胆というのは何に基づくのだろうか。嫁や婿もこないということも挙げている。他国の「穢多」が結婚相手だから,この渋着物が障害になるということは「穢多」以下の扱いというしかないだろう。先述の「非人」系衣類が渋色であるというのがここで思い出せるのである。備前の「穢多」は他領のそれよりも一層,普通の百姓に近い(年貢納付)のに他領の「穢多」よりも一層低い地位に下げられることが憤懣の理由であったろう。

…ただそのことは反面,「非人」と同視されることに対する,“迷惑至極”という意識も同時に胚胎しているのを認めないわけにはいかない。

   (好並隆司 「岡山部落解放研究所所報」第193号『渋染一揆再論』)

年末の大掃除の際,書籍や資料の整理をしていて出てきたもので,10年前にはさほど気にもとめていなかった論考だが,読み返してみて合点がいく部分もある。確かに岡山藩においては,それ以前にも非人と穢多の対立は幾度かあり,訴訟・裁判にまで至っている。また,非人系の村も幾ヶ所か散在していましたが,渋染一揆には参加していない。

「非人の衣服であるという認識」が前提として彼らにあったかどうかがポイントである。私は「渋染一揆」の原因は「色」ではないと思っている。「非人の着衣の色」ではないと考えている。「色」に差別生があるのであれば,住本氏が言うように,一般民衆は「柿色(赤褐色)」や「灰色」を避けるはずだ。しかし,尚も疑問は残る。それは「藍染」である。最も一般的な木綿の衣服であり,染めであった「藍染」をなぜ拒否したのか。また,なぜ「渋染」だけでなく「藍染」も命じたのか。


久保井規夫氏は『江戸時代の被差別民衆』において,次のように述べている。

なぜ,渋染(柿色・赤茶色・赤錆色)や藍染(青色),浅葱色(うすい藍色)や白色などが,部落の人々に強要されたのでしょうか。

…(中略)…

渋染(柿色)は,中世からの偏見で血の色を表しているとして恐れられ,平人とは違った修験者(山伏)・悪党(無法者),検非違使(警察)たちが着たり,また犬神人のような下級神人や従者とか,あるいは乞食・「癩者」(ハンセン病)の着衣の色でした。

また,藍染・浅葱色・薄灰色などは青衣とよばれ,あの世の亡者・死人とか,乞食・「癩者」とか,従者・召使などの色とされてきました。そして,渋染(柿色)・藍染は「ひ人」の着衣や芝居小屋の幕,遊女屋の暖簾,あるいは牢獄に入れられたときの罪人の獄衣の色とされました。

だから,幕府や藩は目立つということだけでなく,偏見で差別されてきた色の着衣を部落の人々に強要してきたのです。

これに対して,住本健次氏は「渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か」(『脱常識の部落問題』)で,次のように批判している。

藍で染めると,布が堅牢になるばかりでなく,洗えば洗うほど色がさえてくるので,浴衣や職人の作業着に使われた。商店の暖簾もたいてい藍染の紺色であった。また,藍染は特有の匂いのために,マムシや毒虫避けの効果があった。そのため,野外で働く人や旅の人は,たっぷり藍にひたした紺色の野良着や足袋や脚絆などが必需品であった。つまり,江戸時代の農民はたいてい藍染を着ていたのである。

藍染は何回も染めて色を濃くしていくが,色名も薄い順に「甕覗き」「水浅黄」「浅黄(浅黄)」「縹」「藍」「納戸」「紺」「紫紺」などと呼ばれた。その中に「褐色」(かち色)とか,「勝色」と呼ばれる色名があった。これは濃い藍色であるが,褐色は「勝つにつながり,縁起がよい」ということから,武士がもっとも愛好した色であった。…(略)…

藍染業者は「紺屋」とよばれたが,紺屋町という地名がほとんどの城下町に残っている。紺屋町は藍染業者が集住した町であるが,藍染に対する需要がなければ,こんなに全国各地に紺屋町が成立するはずがない。…(略)…

このように,藍染の藍色・紺色は「人が嫌がる色」であるどころか「武士から庶民まで,多くの人々が愛好した色」であったのである。

        …(中略)…

柿渋には防水効果があるので,傘や団扇,漁網や釣り糸の染に使われたりしたが,備後,つまり「渋染一揆」の舞台となった付近では,木綿の渋染が行われていたことがわかる。…「渋染の前垂れ」といえば,造り酒屋や醤油屋の職人を意味することばであった。つまり,渋染はひとの嫌がる特別の染ではなかったことがわかる。

        …(中略)…

網野善彦さんは「蓑笠と柿帷」で,「中世では,山伏や非人・乞食は柿色の衣服を着ていた」ということを明らかにしている。山伏や非人が着ていたという柿色の衣服は柿渋を塗った渋衣であり,それはまた,防水の必要のためであったと考えられる。そのため,中世では柿色は差別のシンボル色とみなされたのであるが,しかし江戸時代もそうであったとは限らない。

じつは江戸時代には,「四十八茶,百鼠」という表現があった。これは「微妙に色合いの違う多くの茶色やねずみ色が流行した」という意味のことばである。

        …(中略)…

「茶の色は江戸時代の代表色であり,しかもこの系統の色はわが国ではどの時代でも愛用されて,日本伝統の基調色となっている」と述べている。そのなかには,「団十郎茶」「路考茶」「利休茶」「憲法茶」など,人名に由来する色名も少なくないし,「唐茶」「江戸茶」「遠州茶」など,現在では,どんな色か想像もできない色名もある。こうしたことは江戸時代の人々の茶色に対する関心の高さを示している。

つまり,江戸時代の人々にとって,茶色系統の色は「人をはずかしめる色」でも,「人々が嫌った色」でもなく,むしろもっとも好んだ色であったのである。

久保井氏と住本氏の論点は,「特定の色」を「差別の対象」「差別の根拠」としたかどうか,また「特定の色」を避けたかどうかである。つまり,「色による差別」があったかどうかである。換言すれば,「差別・賤視の対象」を「色」によって選別したかどうかである。久保井氏は中世における賤民の着衣の「色」(特定の色の衣服を身につけていた)を前提に論を展開している。

(ここで,住本氏の間違いを指摘しておきたい。「備後」は岡山県西部から広島県東部であって,渋染一揆の舞台は「備前」である。)

同様に,上杉氏も次のように述べている。

江戸時代の各藩の賤民の服装規則に,穢多は藍染めの場合が多い。これを「浅黄」色とすることもある。正式には「浅葱」色と書き,いずれも「あさぎ」と読み,青(空)色のこと。

一方,非人は柿色ないし渋色とされることが多い。どちらも赤茶色のこと。とはいえ,穢多が青色,非人が赤茶色と完全に決まってばかりはいない。入れ替わって逆に穢多が赤茶色,非人が青色の場合もあった。いずれにせよ,これらは賤民の色だったのだ。

ただ,この二つの色が賤民の色だということは,ごく一部の藩を除けば,ほとんど忘れられ始めており,その点では,これらの色が囚人の衣服に使われていたことの方がよく知られていた。江戸時代の囚人たちは,赤茶か青色の服を着せられていたのだ。

…(中略)…

非人が渋(赤茶)色の衣装を着る風習は,中世にさかのぼる。当時ひろく非人とよばれていた宿非人(犬神人),ハンセン病者などが赤茶色の服を着ていた…

そのような目で見ると,江戸時代に入っても歌舞伎の市川団十郎が,柿(渋)色を代々の家の色と定めていたこともうなずける。役者には,「河原者」とさげすまれた歴史があったからだ。

…(中略)…

明治の初めまで囚人にこの色の服が着せられたのも,罪人は非人と同一視される傾向が,中世以来あったことを考えれば納得できる。

(上杉聰「部落史こぼれ話」『部落史がかわる』所収)

これに対して,住本氏は「色」による賤視・差別はなかったと主張し,その根拠として江戸時代の着衣に用いられた「染色」を例示して,庶民がそれらの「色」を好んだと論じている。

ここで両者の根拠に対する疑問を述べてみたい。

まず,中世における「色による差別」があったのかどうか,あるいは「特定の色」が「偏見で差別されてきた色」であったのかどうか。また,中世における「偏見で差別されてきた色」が近世においても人々の認識は変わらず同じであったのかどうか,である。

では,その「特定の色」を人々は避けたのかどうか,つまり着衣の色に用いなかったのかどうか。これについては,住本氏が述べているように必ずしもそうではなかった。
『江戸の庶民の朝から晩まで』に次の一文がある。

ファッションリーダーとなったのは,歌舞伎役者たち。男はひいきの役者が身に着けた衣装の模様や配色を真似た。

たとえば,「團十郎茶」と呼ばれる色は,歌舞伎界のスーパースター市川團十郎が,歌舞伎十八番のひとつ「暫」のなかで身に着けた巨大な大紋の地色のこと。ベンガラと茶渋で染めたやや黄みがかった茶色で,舞台の引き幕にも使われるなど大流行した色だ。

もともと,茶色は江戸時代の流行色だったが,茶系とひと口にいっても,俗に「四十八茶」と呼ばれたほど,さまざまな色合いがあった。

さらに,茶色よりも多数の色があったのは,「百鼠」と呼ばれる鼠色。灰色やグレーといった色だけでなく,彩度が鈍く感じられる色全般をさした。ひと言に鼠色といっても,緑がかったグレーをさす「利休鼠」から,赤みがかったグレーをさす「梅鼠」まで,じつに多様な色があったのだ。江戸っ子の色彩感覚は,敏感で繊細だったのである。

岡山県史 民俗1』の第5章「衣食住」にも「藍染」「草木染」に関する記述がある。これによれば,「着物や布団など衣料の地糸はすべて紺で藍染にした」とあり,その理由は「藍に染めれば,堅牢で,虫がつかず,糸も強くなった」からである。ただし,「藍は発酵が難しく染めるのに時間と技術がいったから,紺屋に頼んで染めて」もらったそうである。当時は「綿を植え,糸にひき,機で織りあげるまで,ほとんど自家の作業であったが,綿打ちと藍染だけは職人に頼んだ」ことから,「各地に紺屋があり,自分の近所になくても隣村にあるというふうであった。」と書かれている。

藍染の色合いは,漬け加減と中干しの回数により,染め賃の高い方から,上紺・中紺・下紺・オリイロ・浅黄・カメノゾキであった。仕事着は浅黄やカメノゾキであった。古着や色が褪せれば再び染め直した。

草木染で,茶系統の色合いを出す場合に「柿渋」を利用したとあるが,同じ茶系統でも媒染剤によって「渋茶・うぐいす茶・黄茶・赤茶」などに染まり,灰色や鼠色には「桐の木・灰・ドングリの渋」が利用されたとある。

これらのことからも,藍染・渋染は百姓・町人の日常の衣類・衣服であり,「染色」も様々な色があったことが推測できる。また,繰り返し出される「倹約御触書」では,他藩においてもだが,必ず「絹類」を贅沢として禁止している。度々触れ出すことは,実態としては守られていないと考えていいだろう。


住本氏は「藍色」「茶色」と一括りにして論じているが,藍染も渋染も多様な種類の「色」があるということは,藍色・茶色の中で特定の色,たとえば好並氏や久保井氏の言う「浅黄色」「赤茶色」のみが「賤民の色」だったとも考えられる。

住本氏の批判に答えて,久保井氏が「渋染一揆,被差別民衆が柿渋染を拒絶した思いを正しく認識するために……渋染一揆再考への反論」を展開している。

住本健次氏は『脱常識の部落問題』(かもがわ出版,1998年)所収の「渋染一揆再考:渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か」で,報告者を批判し,渋染も藍染もひとの嫌がる特別の染ではなかったと主張している。ここには重大な誤解があるので,反批判をおこなう。

住本氏は岡山藩の布令でなぜ別段倹約令として「無紋,渋染・藍染に限る」とされたのかに,きちんと答えていない。無紋とは,家紋のあるいわゆる紋付だけでなく,ひろく紋様やがらのない無地単色を指す。当時すでに紋様の染め織りが一般化しており,貧困層は古着を買いもとめて着ていた。ところが無紋となれば新調するしかなく,倹約どころか,かえって出費がかさむと,一揆側が反論している。

住本氏が渋染を茶色一般にすりかえたうえで,江戸期にもっとも庶民から好まれたと記しているのは,誤りである。渋染は赤系統の色として受けとられていた。中世では渋染が布の強化や防水や防腐のため麻布に用いられたが,これは被差別民の装いであった。近世には木綿の染め織りが爆発的に普及したが,渋染は木綿に適さず,染めると固くなるので染糸もできないため,当時すでにすたれていた。なお,茶系色の流行は,幕府の奢侈禁令による色の制限との関連が深い。

ここでいわれる藍染とは,浅葱(浅黄・浅藍)と呼ばれる,染めの一番浅い,安物の青灰色のことである。他藩での衣服統制令では「浅葱」と明記される例が確認できるうえ,渋染一揆以前の岡山藩の御触書でも「浅葱空色無地無紋」との文言が見られる。この浅葱色とは,じつは獄衣,つまり囚人服の色なのである。なお,明治政府の獄衣も,柿渋色と浅葱色を伝統的に踏襲していた。

住本氏はまた,問題を倹約令一般と取りちがえているため,断罪を覚悟で一揆にたちあがった民衆の思いを説明できていない。一揆参加者の著作であると考えられる『禁服訟嘆難訴記』は原題が『穢多渋着物一件』であり,ここからも彼らが渋染を強く拒絶したことがうかがわれるが,同史料所収の嘆願書には「倹約令が百姓同様なら承諾もするが,衣類を別段にされることはお断り申し上げる」「無地の渋染のところを免じて,百姓同様にしてください」という旨の記述がある。一揆の論理はさらに,役人としての実務の観点から,識別されやすい衣服では,盗賊や不審者に気づかれてしまって不合理だとの批判も展開している。領主にたいしての務めを果たしていることに百姓と「何の違いぞあるや」とする強い自負心が,その抵抗の源泉にあったことを感じ取られる。これは一般の百姓との差別分断政策であり,差別が子孫にまでおよぶことを阻止した彼らの思いに心を重ねたい。

私も住本氏が結論としている「それでは,渋染や藍染の強制が倹約令として意味を持つのはどういう状況であろうか。たとえば,当時の被差別部落の人々のなかに,渋染・藍染以上の高価な染物を着ている者がいたならば,藍染の強要は『倹約令』としての意味を持つ。」には賛成しかねる。確かに,「別段御触書」といわれるが,まったく別の法令として出されてはおらず「御倹約御触書」として29か条が出されている。だからといって「倹約令」としての目的と意味で出されたとはいえないだろう。

岡山藩の「御倹約御触書」の24か条はすべての領民(穢多・非人・隠亡も含む)に出されているから,穢多・非人もまた経済的に百姓や町人と大差のない暮らしをしていた以上,絹類の衣服も所持していたと考えてもいいだろう。それがたとえ「古着」であっても「絹類」であったことは想像に難しくない。「別段御触書」は,穢多身分に対してのみ出されている。つまり,穢多身分は24か条+5か条を命じられたと考えるべきで,そのうえで「別段御触書」5か条の目的と意味を考えなければならない。

穢多身分を対象とした「別段御触書」の5か条には次のように書かれている。これは明らかに百姓との差異を明確にすること,身分差別を目的にしている。「倹約令」ということで「はだし」「くり下駄」を強要する意味がそれほどにあるだろうか。私は,「倹約令」の目的に,つまり「別段御触書」として穢多身分のみに強要した5か条には,身分の差異を明確にすること,すなわち身分差別の徹底があったと考える。

27条(別段3条)

雨天之節隣家或ハ村内同輩等へ参候節も土足ニ相成候てハ迷惑可致哉ニ付左様之節ハくり下駄相用候義先見免シ可申,尤見知候御百姓ニ行逢候ハ,下駄ぬき時宜いたし可申,他村程隔候所へ参候ニ下駄用候義ハ無用之事

もっとも雨天のとき,隣家や村内のなかま等の家へ行くとき,はだしであっては迷惑するであろうから,そのようなときは,くり下駄を履くことは,先ず認める。もっとも,顔見知りの百姓に行き会ったならば,下駄をぬいで,お辞儀をせよ。他村などの遠くへ行くときは,下駄を用いることは無用である。

『禁服訟歎難訟記』にある「嘆願書」では「藍染渋染」を<別段衣類>と書いている。何が「別段」なのだろうか。百姓とは異なるという意味か,あるいは「藍染・渋染」が「特別」なのか。先に見たように,「藍染・渋染」は「特別な」衣類ではない。普通の日常着である。つまり,「藍染・渋染」自体は,差別を強要するものではない。では,あらためて「色」が関係するのであろうか。先に述べたように,「藍染・渋染」のうちで,特定の「色」(浅黄色・赤茶色)が「賤民の色」であるならば,差別の強要という目的・意味も考えられる。だが,中世の社会通念が,たとえば延喜式におけるケガレ観が近世の服忌令に反映されているように,近世においても人々の認識にもあったのかどうか。

現時点での私の結論は,「特定の色」が「差別・賤視の色」であったかどうかは別にしても,その強要が「身分の差異の明確化」であったと考えている。

偏見や独断,先入観を排して史実を客観的事象として考察することが重要である。

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2010年09月13日

「渋染一揆」再考(1):衣服統制

「渋染一揆」最大の謎は,岡山藩のほぼすべての穢多が一揆を起こすほどに「渋染藍染の衣類着用」に反対したのか,である。この謎の解明の前提となるのは,近世岡山藩における穢多身分の社会的・身分的な存在関係である。岡山藩が穢多身分をどのように社会的・身分的に位置づけていたのか,「役目」として何を負担させたのか,また,他身分が穢多身分をどのように認知(社会的認識)していたのか,そして,穢多身分は自分たちの置かれている社会的・身分的な位置と関係性をどのように認識していたのか,である。つまり,岡山藩・他身分・穢多身分・他の賤民身分の相互関係を明らかにする必要がある。


穢多身分は「番役」等の治安維持に関する「役目」を自分たちの本来の「仕事」(生業)とは受けとめていない。岡山藩及び町村から命じられた「役務」と認識している。このことは「歎願書」の次の文からも明らかである。

非常之御備ニも相成居申者共ニ候
(非常の際の警備にもついている者たち)

城下近在五ケ村穢多共番役等仕居申者数有之。尚又御牢屋敷死科之者有之節其手御用相勤居申者も多人数御座候へば五ケ村穢多共ハ素より其外之類村同様兼て御用害之穢多役人故年々村々え御米四俵宛奉頂戴居申義
(城下近くの五ヵ村の穢多たちは,番役などの役目についている者が多くいます。また,牢屋で死刑になった者があった時には,その処理のための仕事についている者も大勢います。従って,五ヵ村穢多たちはもとより,その外の穢多村も同じように,かねてから御用害の穢多役人であるので,毎年村々に米四俵宛をいただいているのです。

つまり,「番役」や「行刑・処理役」などは「非常」(日常ではない)の際の「役務」(義務として労力を提供すること)であって,本来(日常)の仕事(生業)は百姓と同様の農業である。このことは「歎願書」にもはっきりと書いてあるし,『禁服訟歎難訟記』にも明言している。また,「倹約御触書」の「目明共義」(26条)「番役等相勤候もの共」(29条)と書いてあることからも明らかである。たとえ(「番役等」を)命じられていない者までもが「即座一命可相拘も不厭候」「一統不顧身命」の覚悟で「忠勤」しようとも,それはあくまでも「御用」としての「役務」であって,その「役目」の代価である「御米四俵」によって生計を立てているのではない。武士が生活苦から内職や庭先で農作物を栽培しているのとは根本的にちがい,彼らの本来の仕事(生業)は「農業」であり,百姓同様に「年貢」も納めている。

【諏訪御用之節奉尽御忠勤身分(いざ,御用のとき,忠勤を尽くす身分の者)】とは,「番役等」の「役目」を命じられた者として「忠勤」を尽くしていると述べているのであって,武士身分につながる(と同じ)身分(社会的立場)と自らを認識してはいない。「役務」としての「役目」を自覚して一生懸命に勤めていると述べているに過ぎない。「役目」はすべての身分に応じて定められており,その身分に相応した生活・生き方が義務づけられるのが身分制社会のあり方である。それぞれの「役目」を果たすことは「役務」であって,当然守るべきことである。まして「御用」に対して「米四俵」を出している(出すことを命じられている)町方や百姓にしてみれば,「番役等」など「穢多役人」としての役務を「忠勤」するのは当然と思っている。「役務」に忠実に責任と使命感をもって働くのは他身分においても同じである。なにも穢多身分だけが特別に責任と使命感をもっていたわけではない。「役目」を「忠勤」することと「差別」・「賤視」されることは別である。

「渋染藍染」の衣類着用が(「番役」「穢多役人」などの)「役目」の妨げになるというのが「理由」であれば,「歎願書」に書かれた他の「理由」は不必要だろう。もっと具体的に根拠を例示して述べることで説得力をもたすだろう。しかし,寄合での話し合いにおいても,そのようなことが議論されたとは書かれていない。何よりも,「倹約御触書」の【目明共義ハ平日之風体御百姓とハ相別居申事ゆへ衣類之儀ハ先迄之通差心得可申】と矛盾することになる。これについて,命じられた者(村)以外(其外之類村)も同様に(「目明」などに)「忠勤」を尽くしている(そのように日頃から心がけている)から穢多全員が困ることになるという理由では,藩側は納得できないだろう。なぜなら,「目明」に着衣を免除した理由を【平日之風体御百姓とハ相別居申事】としているからである。つまり,藩側の「渋染藍染」の着衣強要の理由は「百姓との区別」であるからだ。だからこそ,「歎願書」の中にも「御隔」という言葉(此度別段御隔ニ預り候ては巳後他国通行も難相成)が書かれているのである。

私は,この「御隔」がキーワードと考えている。身分制社会にあって「身分のちがい」(隔)は絶対である。「歎願書」にも【古来穢多共身分御隔ニ相成候故】【下賤成ル穢多共】の文言が書かれている。その一方で,百姓と同様の倹約内容については受け入れるが自分たちだけの別段の内容についてはお許しくださいと歎願している。

「渋染藍染」の着用により「役務」を果たせなくなることが「世間通行相叶不申程」「老若男女に至迄精気落,農業守も打捨可申程」までに彼らを苦慮させる理由だろうか,疑問である。「役目」の妨げになることは,「歎願書」に書かれている他の内容と同じく「理由」の一つでしかないと考えている。


「御倹約御触書」が出されたのは安政2(1855)年であるが,その2年前(嘉永6年:1863年)にペリーが来航し,黒船来航と大騒ぎとなり,岡山藩にも房総半島や摂津沿岸の警備が幕府から命じられた。岡山藩でも,そのための費用や防備のための費用に相当の出費を強いられた。その対策として「安政の改革」断行,その一環としての「御倹約御触書」であった。

ペリー来航による外国への驚異に関しては,『禁服訟歎難訟記』に【よって,両御国郡静に納りけれハ】と書いてあるように,「渋染一揆」との直接的な関係は伺えない。また,岡山藩の関係文献にも外国に対する防備の記述はあるが,外国人を対象とした治安維持などは書かれていない。
外国人に関する取り締まりの法令が出されてもいない。

岡山藩では,安政2年の「御倹約御触書」とほぼ同じものを,天保13年(1842年)にも出している。これは,阿片戦争(1840〜1842)によって清が敗れ南京条約が結ばれた年である。「御取締御触」は6月,穢多身分に「渋染藍染」を命じた「覚」は8月に出されている。南京条約が結ばれたのは8月29日であるが,岡山藩はその影響を逸速く察知していたのだろうか,そんなことはありえない。私は「渋染一揆」と外国との関係はないと考えている。そこまでの驚異を外国に感じていれば,他の方法を考えるだろうし,穢多の歎願を受け入れることもしなかっただろう。何よりも,その趣旨を明確に書き伝えているであろう。


「渋染一揆」の強訴形態は,他の百姓一揆と同じである。『カムイ伝』に描かれている竹槍・斧や鍬,筵旗という様相などは,よほどの一揆の場合であり,通常の強訴は武力衝突ではない。これについては,近年出版されている百姓一揆に関する研究を読めば理解できる。「渋染一揆」の強訴は,その計画性や準備は万全を期しているが,それほど悲壮感の漂うものではなく,伊木若狭との交渉の場であった野営地においては飲酒もあったようである。


では,「渋染藍染」がなぜ「平人」とは異なる衣服であるのか。それほどに特殊・特異な衣服なのだろうか。遠見にも穢多とわかるほどの衣服とは如何なるものだろうか。それほどに「平人」が着用しない衣服なのだろうか。目立たせること(見た目の相違をはっきりとさせること)が目的であれば,たとえば明治の近代軍制による「軍服」(戊辰戦争時の統一された軍服のような)にすればいいと思うが,はたして「渋染藍染」の衣類とはどのようなものだったのだろうか。しかし,実際には着用していないし,そのような(渋染の)衣類が存在していたことも聞かない。他藩における衣服強要(統制)とも比較して考察する必要を感じている。

長崎人権研究所『もやい』(50号 特集「身分と身形−衣服統制を中心に」)に掲載されている九州各県の報告と史料は,他藩の「衣服統制」との比較として参考になる。

結論的に言うならば,「衣服統制」の目的は「身分統制」である。江戸社会にあって「身形」こそがその人物が何者であるかを尤も端的に示す指標であったから,穢多・非人身分の者が百姓・町人身分と同様(混同)の「身形」をすれば(分不相応となり),身分社会の秩序の根幹を揺るがすことになる。身分の「分」は服装や所作に表れる(服装や所作を身分の外的表示)と認識されていたのである。

「衣服統制」として紹介されている今回の史料にも,「紛れ」という文言が随所に見られる。つまり,「不似合之身形」「法外之働いたし」といった「平人ニ越」すような行状,つまり平人(百姓・町人)と混同するような「身形」をして,平人と交わり(交流・付き合い)をする行いが「不埒」「心得違い」と認識され,それを立て直すために様々な「衣服統制」の法令が出されたのである。

穢多共掛襟申渡之事
  申渡    穢多共
  安永七戌年

一 右の者共,御城下廻且市廻,其外在町市場押えなど都而諸御用に罷出候節は,着物に黄色の襟を掛け申すべく候,是迄着類の差別これなく,紛わしきにつき,自今右の通り申付け候間,此段穢多共え堅く申付け,銘々堅く相守り心得違い致さざる様其方共より申渡すべき旨申渡様,郡奉行中申渡され候也
   八月   代官役

     岡藩(「申渡」安永七年[1778年]8月)

 申渡
此度穢多非人身分之儀ニ付,別紙之通公儀より被仰出候間,其旨申渡堅被相守可申候,万一心得違不埒於有之,急度被仰付候間,堅申渡被相守候様被取計候,
一 穢多共着類法外之儀有之候相聞,向後浅黄染・渋染に限可申候尤穢多共御用ニ出候節々掛致候様,着類夏冬共都て掛襟致,常々着可致候,万一心得違百姓町人ニ紛,不法之節於有之,急度可申付候
一 目明共之儀着類染色右同断,尤掛襟不及,是又百姓町人ニ紛れ不法之節於有之,急度可申付候
  戌十一月廿九日   郡奉行

岡藩(「申渡」安永七年[1778年]11月)

従来,「分断支配」として「上下の差」を強調して「優越感を抱かせて不満をそらす」は,「結果」であって「目的」ではなかったと考える。確かに「同一身分内」では「上下の身分格差」は強調されていた。同じ平人であっても,町人には「軽い絹類」は許しても,百姓には停止し着類は木綿に限るというように,身分格差を表している。同一身分内における「身分格差の明確化」と,他身分間との「身分の明確化」は別として考えるべきだと思う。

「身分の明確化」としての「身分表示」では,各県の史料に「札」が紹介されている。

非人頭勤方,其外手子之者取掛之儀,不行届筋茂相聞,如何鋪候,近年ニ至,諸事俗人ニ紛敷致方茂有之,其上賄之諸勝負等相催,平人交り仕候者茂有之様ニ相聞,不届ニ候,尤他所より相越候非人・乞食類留置候カ,宿致候者,其段早速町同心小頭江申達,聞届之上留置,春之二月人別書可差出候処,是又近頃無其儀,我儘ニ他所者差置候筋茂間々有之候様ニ相聞候,以来右躰猥之筋於有之ハ,非人頭御糾明之上,急度被仰付有之事

一 非人札不相下ケ,他出等仕間敷所,札不相下ケ非人有之様相聞候,巳来右躰之者於有之ハ,手当次第御領内追払可申付候間,其段相心得可申候

一 平人ニ交り,博奕ハ勿論,喧嘩口論仕間鋪候,於相背ニハ,急度被仰付方有之事候,

   右之通被仰付候,急度相守候様可被申渡候

   八月朔日  明和二酉年

明和二酉(1765)年八月一日(延岡藩『内藤家文書』)

非人頭江

一 御城下江罷在ル非人共江先日札相渡置候処,此度相改男女共ニ人別ニ新札相渡候間,町在江罷出候節ハ人別ニ腰江付紛敷無之様可致,乍去  召捕候もの又ハ尋者等為穿鑿罷出候節,札見へ候而ハ差支ニ意味て有之候ゝ,其事ニ限懐中致候儀は不苦候

文化十四(1817年)四月十四日晴(延岡藩『内藤家文書』)

「非人札」「勧進札」のない者は寮内への立ち入りを禁止している。この「非人札」は勧進の許可書でもある。「非人札」の強制は,上記史料の明和二年からですが,強制する藩側の理由は「俗人に紛らわし」く区別できないからと述べている。

文化十四年の史料では,「非人札」のない者は名前と住所を聞き,門立を禁止するように通達している。だが,犯人の逮捕や尋ね者等の詮索に出かけるときは非人札が見えては捜査の支障になるようなら,その時に限り懐中に入れておいても構わないとしている。

なお,同藩の他の史料には,郡方が穢多頭を「盗賊方掛」に任命し,刀を差させることは盗賊の取り締まりにもつながると郡奉行に願い出ている。また,穢多頭が多額の献納によって平日も脇差しを許可(御免)されていたり,息子への世襲時に許可を引き継がせてもらっている。また,非人頭が「目明し」の役目に精を出し,藩の中で重要な働きをしていることへの優遇措置として,他所への外出時に「目明し名目」で脇差(刀)を差すことを許可している。

他県の史料にも「目明し」の役に就いている記述があり,御用の際には一部であるが着類の制限がゆるめられていたり,帯刀が許可されている。

穢多・非人身分と「目明し」役や行刑役の関わりは地域によっての「相違」は大きいが,「非人番」も含め,武士の下働きとしての役目であったと思う。「下働き」を職務からとらえるか,身分制度下の職制としてとらえるかで実態の解釈も異なってくると考える。また,平人身分の人々が穢多・非人身分の人々をどのように見ていたのか,接していたのか,それが明らかになることによって江戸時代の身分制社会の実相も明らかになる。


長崎人権研究所の阿南氏から,「穢多」身分・「非人」身分ともに「胡乱者」対策(市中見廻り)に従事していること,キリシタン迫害期に「かわた」(皮屋)が,処刑等の手伝いを命じられていること(但し,彼らの本業は履き物づくり),浦上四番崩れの際に皮屋町(穢多身分)住民が潜伏キリシタンの捕縛にあたっていることなどを教示してもらった。

どちらにせよ,彼らが主体となって「詮索」「捕縛」「行刑」「牢番」を行っているのではない。「役目」として命じられ,与力や同心の指揮命令下で行っている。単純に,これらの「役目」と現在の警察機構(警察業務)とを同じと考えるのは早計であると思う。体制や機構,給金体系など,社会制度や社会意識がちがう。総合的に考察する必要があると考えている。

「衣服統制」や「身分札掲示」は,黒川みどり氏の言う「徴」としてとらえることができる。つまり,本人以外の者(立場)から本人が望まない(むしろ嫌がる・拒否する)「目印」を強要されることである。この「目印」は一見して穢多・非人身分と識別できるものであり,他身分には強制されない。

寛政七(1795)年の長崎(対馬藩)の史料では,穢多である札を帯に付けさせ,さらに編笠も末々の者と紛れぬように「手安き仕形」で素人の目に付くように印を付けるように命じられている。

「札」や「半襟」などが「目明し」としての印(警察手帳や階級章)という考えもあるだろうが,そうであれば,なぜ「御用」の際には付けなくてもよいとか懐中に入れておいても構わないと申し渡すのだろうか。捜査の支障になるからが理由であれば,「目明し」としての印ではないことになる。つまり,「衣服統制」は穢多・非人身分の「役目」上の規制・命令ではなく,身分制社会を維持していくために身分の明確化を明示する目的で出されたのである。差別とは,本人の意図しない「分け隔て」である。身分制社会であっても,身分による分け隔ては「差別」である。

穢多・非人身分が百姓・町人よりも厳しい統制を受けたのは,彼らが「目明し」役に従事していたからではなく,平人身分と交わり混同していくことで身分の差異が「紛らわしい」状態になることを身分制社会の崩壊につながると危惧したからである。「衣服統制」は身分制社会の根幹である「身分相応」を守るために命じられたのだ。

posted by 藤田孝志 at 21:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 渋染一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月23日

「柿渋染」覚書ノート

中国では,4〜5世紀頃から存在したと推測されている。

韓国では,1382年『済州島略史』によれば,明の太祖に征服された雲南の梁王が済州島に移送された時に柿渋染が伝えられた。韓国では柿渋衣=カツオッと呼ばれ,夏期の衣服として広く利用されている。

平安時代

身分の低い侍の衣服や山伏が利用し,『柿衣』があったと考えられている。

鎌倉時代

『平家物語』には『柿の衣』があり,『源平盛衰記』には『カキノキモノ』がある。

江戸時代

『日葡辞書』には「Xibu(渋)」「Xibuzome(渋染)」が記されている。
『擁州府志』では,柿渋について詳細に記されている。
『萬寶鄙事記』(貝原益軒)『渋染の法』が記されている。柿渋染を職業とした「柿渋屋」が存在していた。

柿渋染は千年以上も前から染められていた。 生地を強くし,水をはじく特徴から昔より多くの日常生活の道具や民間薬として利用されてきた。

山伏の法衣には,白・黒の他に柿渋で染められた柿衣があり,柿衣は宗教的に山中の瘴気をさける力があるとされていた。

柿渋染は,本来,山伏のように自分達と異なる世界に生きる人々の着る衣の色であった。しかし,中世で百姓一揆の時には柿衣が定着したり,武士では柿色を禁止し,差別の色とした時代もあった。

滋賀県の草木染めの文献には,柿渋で染めた赤や赤茶色の『醸造染め』がある。甲賀地方では,『クレ(暮れ)染め』があり,野良着は,柿渋で下地染めしたものをクレ(鉄分を有する水)に浸けることで色がはげにくく, 強靭なものとなると伝えられている。

京都では,昔は禅宗の僧侶の麻製の黒衣は柿渋で染められていた。

長野県では『渋よっこぎ』と呼ばれる山袴があった。木綿の白生地を柿渋で何度も染め,水はけがよく,濡れても水の切れがよく,激しく山野を駆け巡り渓流で魚を追う生活に好適であったと伝えられている。

柿渋染は,防水効果・防腐効果・耐久力強化・アルコールへの耐性・除タンパクといった特性をもっているので,古くから,自給自足的な庶民生活の中で,布・木・竹・紙・型紙・漁網・釣り糸・ロープ・家具・建築材・舟・桶・雨具・格子・ うちわ・酒袋・漆器の下地に使われてきた。民間薬として,やけど,しもやけ,血圧降下剤, 二日酔い予防や毒蛇,蜂,ムカデ等のタンパク毒の中和剤として利用されてもきた。


文献資料やネット検索から拾い集めている一部だが,「柿渋染」の衣類や「柿渋染の色」を<差別の象徴(徴)>と一概に断定することはできないと思う。このことは「渋染一揆」の史実に出会って以来,ずっと疑問に感じてきたことで,私は「柿渋染」や「色」による<差別>を意図したものではないと考えている。

<差別>の定義にも関わるが,当時の穢多身分の人々が反対した理由は「平人との分け隔て」である。

『御触書』の中で「藍染渋染」の衣類について殊更に説明がないということは,庶民の衣類として存在していたからかもしれない。囚人だけに限定された衣類とも「色」とも解釈できないように思う。

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2010年06月08日

渋染一揆の歴史的背景

古書店にて『岡山県史研究』(第5号)を入手した。これは,岡山県史編纂室が発行した非売品で,『岡山県史』の基礎的な研究成果を発表する機関誌である。

本書に収録されている論文,北村章氏の「幕末岡山藩の政治過程について−藩論と藩庁首脳部の変遷を中心に−」を興味深く読んだ。

「渋染一揆」は幕末に起こった岡山藩の安政改革に対する被差別民衆による歎願要求の一揆である。当時の岡山藩の政治的・経済的状況を岡山藩個別の状況と全国史的状況との関連から考察する必要がある。従来は経済的状況から要因を考える面が強かったが,幕末の政治情勢,特にペリー来航によって引き起こされた各藩の動乱,攘夷の動きなどを考察する必要があると以前より考えていた。本論文は,この点を解明するのに示唆的な内容である。幕末の岡山藩の動向を整理してみたいと思う。

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