2012年02月10日

岡山藩の「目明し」役(1)

岡山藩で穢多身分の者に「目明し」役を命じるようになった経緯を,人見彰彦氏の「部落史のひとこま」の史料と記述を参考にまとめておきたい。


岡山藩で「目明し」が散見される最も古い史料は,1656(明暦2)年の「若州小浜へ御使者として垣見七郎左衛門つかわされる。これ似せ銀の目明シめしつれつかわされるなり」(『備陽国史類編』)である。

明暦2年,岡山藩では「偽銀貨鋳造事件」がおこり,それに関連して「目明し」が登場した。藩主池田光政は,犯人を逮捕し,拷問し,事件の全貌を解明して幕府に報告している。この史料は本事件の顛末を記した報告書である。

  似せ銀吹共惣目録

一 備前邑久郡虫明村九郎兵衛,こくい二本所持仕候 四度拷問,最前より有様ニ白状仕候,大形ハ此者之口ニ而知申候
一 備前岡山本願寺町五郎左衛門,こくい三本所持仕候 五度拷問
一 同 児島郡槌ヶ原村市郎兵衛,こくい壱本所持仕候 五度拷問
一 同 岡山又兵衛町三郎右衛門,古こくい壱本所持仕候得共役ニ立不申,五郎左衛門こくい借り候而吹申候 五度拷問
一 同 津高郡金川村甚三郎,こくい一郎兵衛手前より請取吹申候 六度拷問
一 同 岡山二日市町久大夫,こくい九郎兵衛ニ借り候而吹申候 五度拷問
一 同 児島郡北浦村七郎兵衛,こくい五郎左衛門ニ借り候而吹申候 九度拷問,此者有姿ニ相見へ不申候ニ付,度々拷問仕候

此七人之者共ハ,度々船ニ而似せ銀吹申候儀,紛無御座候

この史料に続き,「似せ銀ヲ遣荷持仕候者共」として10人の名前と罪状,「似せ銀吹候刻,船ヲ借り,水手ニ罷出者共」として8人の名前と罪状,「他国ニ罷有,似せ銀ヲ買取遣申者共」として3人の名前および「相果申由之者共」として9人の名前と罪状が列挙されているが,ここでは転載しない。

人見氏は,史料の紹介の後,次のように述べている。

このように事件が次々とおこされますと武士の手のみでは捜索しきれません。世間の事情に通じている人々が総動員され,それにともなって治安警察のしくみも整えられていったようです。「目明し」だけでなく「おんぼう次郎九郎,このたび似せ銀穿鑿ニつき,数日相詰骨折候ニつき,麦拾俵つかわさる旨,老中,町奉行大原孫左衛門ニ申し渡さる」(留帳)と「おんぼう次郎九郎」も活躍しており,彼はすぐ後に「町方盗賊見廻り役…つかまつり候様仰せつけなされ」(市政提要)と書いています。


人見彰彦氏の「部落史のひとこま」に,元禄時代に活躍した目明し「嵐山角(覚)右衛門」が書き残した文章が紹介されている。これらの史料も岡山部落問題研究所に所蔵されている。

 乍恐口上

私は貞享四年(1684)のくれにこの村にまいり,おかみの御用を勤めております。その時,手当として,私に一日に米一升,家内人数男女に御蔵麦を御定の通り下されることとなっております。つまり,御野郡・上道郡より米五石・麦五石ずつ下さるようになっていますが,毎年定められたほどは請取ってはいません。ここへ来た時は,少しも耕作はしないで手当のみで生活しているため,やりくりがつかず大部借銀もしました。どうにもならなくなり,元禄七年のくれ,実情を報告しますと,沖新田村の死牛馬掃除権をくださり,それを売って大部の借銀を支払うことができました。しかし,去年より地御用・旅御用がたび重なり出費が激増し,当年の暮れの諸払いは全くできなくなりました。そこで,やむなく女房を離別し里へ帰し,娘二人は備中の知人にあずけ,下人・下女三人は帰し,私一人となり出費を少しでも抑えようとしているありさまです。どうか定められた手当は,各郡ともきちんとくださるように,よろしくご指導のほど御願いいたします。

 元禄十年十二月        御野郡 角右衛門

角右衛門が差配していた「御野郡・上道郡」にはどのくらいの村落があったのか。それを知る史料も紹介されている。それは,角右衛門が配下の「穢多判頭」に命じて「夜廻り」を請け負っている史料である。抜粋して転載する。

右拾七ヶ村□□より夜廻りつかまつる。
子ノ八月廿七日        穢多判頭  弥兵衛
                    同     庄兵衛

右弐拾八ヶ村□□より夜廻りつかまつる。
子ノ八月廿七日      穢多判頭  太左衛門
                 同      清左衛門

右三拾ヶ村□□より夜廻りつかまつる。
子ノ八月廿七日      穢多判頭  八郎兵衛

村数合七拾五ヶ村,其外枝村まで残らず吟味つかまつり,夜廻りつかまつらせ申すべく候。以上
元禄九年子ノ八月廿八日
             御野郡□□村  角右衛門

これを見ると,岡山城下周辺の村々(75ヶ村:この史料にはすべての村名が記されているが,その転載は割愛した)を三分割し,近隣に位置する穢多村3ヶ村にそれぞれ割り当てて夜廻りをさせ,それを采配しているのが角右衛門であることがわかる。

夜廻りの「手当」(費用)は,関係する御野郡・上道郡から郡割として徴収している。


『撮要録』によれば,元禄十一年に嵐山覚右衛門が岩田町に作られた「目明し屋敷」に入っている。以後,「穢多町廻り次郎兵衛下人一人召連,引越」「延享二年より町廻り徳右衛門住宅」「明和元年より穢多庄左衛門住宅」等々と「穢多」が「目明し屋敷」に入っている記述が史料に見られる。

人見氏は,子の池田綱政が父光政が強行した「キリシタン神道請」などの諸政策を改め,村落支配の機構を改編した藩政改革の一貫として,穢多身分の実力者を「目明し」に登用し,各郡より手当を出させる仕組みを整えたのではないかと考えている。

今の私には,それを検証するだけの知識はないが,岡山(美作を含めて)の穢多・非人の歴史について解明したいという思いは強い。

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2012年02月08日

岡山藩の「穢多頭」(1)

岡山部落問題研究所機関誌『調査と研究』に連載された人見彰彦氏「部落史のひとこま」に紹介されている史料を引用(転載)させてもらいながら,岡山の「穢多頭」について考察してみたい。
その史料は「穢多頭前々動向書上帳」である。これは,穢多頭が命じられている「役務」と「仕置き」に関して述べたもので,仕置や磔に関する
絵図も描かれている。

穢多頭の動向について書上げるように仰渡されたので左のように書上げます。

一,当村が始まってより数代,穢多頭を仰付られ,臨時の御用も大切に勤めてきました。そして,寛延三(1746)念三月十八日,今日より「郡中締方」「備中国穢多惣頭」「帯刀御免」「郡中村々江割賦永代弐人扶持」「御用灯提壱張下置」を仰付けられました。
一,盗賊・悪党はいうまでもなく,すべて不正の者を遠国まで探索するように命ぜられ,御判物をいただいて出発しております。
一,隠密の御用を命ぜられ,御前様御書をいただき勤めております。
一,死罪御仕置の場合,四・五日前からひそかに命ぜられますが,無事に勤めております。
一,当支配下・他所の穢多・煙亡・非人・無宿・御百姓躰のもので,当御役所より当方へ引渡されたものの咎は前例に依って無事にとりはからってきております。
但し,御仕置の時は,その罪の軽重をもって,非人手下,又は遠国非人手下,あるいは日数を定めて留籠に入れたり,あるいは手鎖のうえ禁足,あるいは戸をしめて禁足,又は入墨のうえ重敲にします。
御仕置された者を引渡す時は,入墨のうえ三日留籠に入れ,今後は当支配所や近国を徘徊しないようにきびしく申して追い払います。入墨は,男の場合左の二の腕え墨の幅三歩,間五歩にして輪を二筋引廻し,壱筋は上の方を三歩切り,他の壱筋は下之方を三歩切ります。女は右の腕を同様にいたします。
一,御追放の仕置の場合,棒かつぎ人足を手下の者に勤めさせ,国境まで道中固メ役を勤めております。
一,御引廻しのうえ死罪,あるいは獄門の御仕置者の場合,御定めの場所を引廻した後,御検士様御出張の場合,御定めの場所を引廻した後,御検士様御出張のうえ死刑の御仕置を勤めております。
一,御牢屋の吟味の場合,手下の者をつれてまかり出て,無事に勤めております。
一,庭瀬駅まで御囚人を差出す場合,煙亡・非人共を囚人かつぎ人足として申しつけ,道中固めとして私手下の者壱人差添て,無事勤めております。
一,悪党を捕える道具,すなわち威鉄砲壱挺・三道具壱組・其外の捕方道具一切の使用を許されています。
一,威取強盗・火付・忍取盗賊を召捕った時は,きびしく取調べた後,留籠に入れ,直に報告しております。
但し,留籠壱戸前は,御上様より下し置き,大破した場合は御造り直しを願いあげることとなっております。
一,当御支配下,他所の穢多・煙亡・非人の類を召し出される場合,穢多頭が差添としてまかり出ております。
一,右の外に臨時の御用は,右に準じて相勤めております。

右の通り相違ございません。
                              穢多惣頭
文政十二年五月
大草太郎右馬 様
倉敷御役所

御仕置御用の時,御入用物や穢多頭がつれていく人足や,人足の手当銀・書付等について,左之通り書上げます。

磔御仕置之事

一,御仕置当日,道中先払壱人,此御手当銀三匁
一,紙幟持壱人,此御手当銀三匁
一,同道中読人壱人,此御手当銀三匁
一,捨札持壱人,此御手当銀三匁
一,三道具三人,此節手当銀九匁,但,壱人ニ付三匁宛
一,抜身槍弐人,此節手当銀六匁,但,右同断
一,突人弐人,此節手当銀五拾目,但,壱人弐拾五匁宛
一,棒かつぎ拾弐人,御囚人前後六人宛,
此御手当銀三拾六匁,但,壱人三匁宛
一,非人弐人,但,御囚人を乗せる馬口取夫
此御手当銀六匁,但,壱人三匁宛
一,縄取弐人,此御手当銀拾弐匁,但,壱人六匁宛
一,御囚人押固メ弐人,此節手当銀六匁,但,壱人三匁宛
一,穢多頭鼻紙料として銀拾弐匁くだし置れ候
一,召連夫壱人,此節手当銀三匁
一,御仕置場所手伝四人,此御手留銀拾弐匁,但,右同
一,煙亡・非人十弐人,但,御仕置死骸御晒中番,昼四人夜八人宛,此節手当銀拾八匁,但,壱人壱匁五分宛
一,非人三人,但,御仕置死骸番小屋こしらえ夫 此節手当銀四匁五分,但,壱人壱匁五分宛
一,穢多頭手下弐人,但,磔場所昼夜見つくろい夫 此節手当銀六匁,但,壱人三匁宛
一,同壱人,但,御仕置前日,場所見つくろい,非人共へ万事差図つかまつり候夫,此御手当銀三匁
一,非人拾弐人,但,御仕置前日場所掃除,道具,垣つくろい夫共,此御手当銀拾八匁,但,壱人壱匁五分宛
一,煙亡四人,但,御晒後死骸取片付夫 此御手当銀六匁,但,右同

右御仕置御入用物左之通ニ御座候

一,松六寸角弐間物壱本
一,弐寸角弐間物弐十本
一,松小丸太壱本
一,六尺杭弐拾本
一,六分板壱枚
一,松割木十弐束,但,御仕置場所夜分篝入用,一夕分
一,九分割壱本
一,馬弐疋,但,壱匹は道中用意馬ニ御座候
一,木綿三反
一,芋縄弐拾四尋
一,壱間半大身槍弐筋
一,手堤壱つ
一,柄杓壱本
一,茶碗壱つ
一,半紙弐状
一,日笠紙十弐枚,但,幟ニ仕立
一,莚七枚
一,小竹弐拾束
一,五寸廻竹壱本,但,幟棹長見積り
一,縄拾束
一,鎌五丁
一,四寸針三本
一,ろうそく五丁,但,一夕分

右之通,磔御仕置御入用物相違御座無く候

「文政十二年」は西暦では1829年,第11代将軍徳川家斉の治世であり,幕末に近い。

この史料を見ると,「穢多頭」の役務である治安警察と行刑の内容が具体的に書かれており,よく理解できる。

簡単にまとめれば,郡中の取締・国中の穢多統率・盗賊悪党の探索・隠密の御用・処刑・処罰・取調・逮捕・囚人の護送・臨時の御用などで,これらの役務を実行するために,「帯刀御免」「永代弐人扶持」「御用提灯の使用」「国外での探索」「威鉄砲やすべての捕方道具の使用」「煙亡や非人の使用」等々が許されている。

また,「磔」が実施される場合,70人もの「穢多・非人・煙亡」が動員され,「引廻し」から「処刑」「死骸片付」まで細かく役割が分担され,その役割に応じて「手当」の賃金まで決められている。「磔」が古来よりの「慣例」に従って行われてきたことがよくわかる。

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2010年09月06日

岡山藩の非人(3):照葉狂言

「山の者」は,その生活手段として門付け芸等の雑芸をしていた。岡山(備前)藩もこれを黙認していたが,無制限ではなかった。

山之者之内,女とも春分三味線弾候て町方え門付ニ罷出候事,前々より出来り之事ニ候得は先不苦候,尤店先又ハ座敷え上り候て弾候事決て不相成事,衣類其外目立不申様可致事

(『市政提要』「次郎九郎両山非人并穢多之事」二十六)

この史料は,天保十四(1843)年の布告である。「山の者」の女たちによる門付け芸は一応は許可されているが,身分相応の態度を厳命され,衣類や派手な興行は制限されている。

第五代藩主の治政は非常に遊び好きで,児島の瑜伽山の門前町における芝居・遊郭・富くじを黙認し,自らも度々ここに遊びに行き,芝居見物などをした。しかし,ここは岡山城より遠く不便でもあったため,その分社を岡山に移して,東山の山上に由伽神社及び松琴寺をつくった。そして,松琴寺にはお籠り堂と称して舞台を作り,児島に来演した上方役者をここに招致して芝居を上演させ,上級武士たちと観劇していた。松琴寺において上方役者による芝居が行われるたびに,その下働きとして,平素から芸事に習熟していた「山の者」を使った。
「山の者」は,このようにして松琴寺に出入りするうちに,上方役者の芸を見真似で覚え,鳴物などの取り扱いにも馴れて,今までの門付け芸ではなく本格的芝居を体得し,「照葉狂言」(能狂言を通俗的娯楽化させたもので,当時は大阪あたりで流行していた)を,彼らで作った一座で演じるようになっていった。

この一座は,岡山の場末の祭礼などに呼ばれて村々を巡業するばかりでなく,小豆島や讃岐にまで出かけていった。明治維新前後には,中村玉造・市川右太次・中村小翫次などと称する役者が出て,播州播磨で催された「隣国大寄名人芝居」にも参加している。明治になっても岡山最初の劇場である旭座・柳川座・花海軒などでも「照葉狂言」を上演して好評を得ていた。

posted by 藤田孝志 at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 穢多・非人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

岡山藩の非人(2):山の者

東山峠は元来乞食屋敷にて御座候処,東照宮御勧請遊ばされ候節,御山より御目付,見苦しく思し召され候由にて奥市へ送られ候。其跡,荒地に罷り成り候処,明暦年中,伴元祭殿願い候に付き少将(光政)様御代三友寺に御寄付仰付下され候

(『撮要録』「寺社の部」)

この史料から,東山峠の登り口(三友寺・現在の博愛会病院)にあった「乞食部落」(非人部落)が,玉井宮の地に東照宮が勧請されると,そこから見下せることになり,それは余りに見苦しいので奥市の谷池(狼谷)に追い込まれ,そこから更に山に追い上げられて湊の山上に移らされたことが推察できる。

岡山藩の「非人」が「山の者」と呼ばれる理由である。その非人部落ができたのは寛文4(1664)年頃であった。この非人村には,百姓または町人で借金により破産した者,家賃を滞納して家主より訴えられた者,駆け落ちして出奔したがつかまって連れ戻された者,その他軽微な犯罪を犯した者が,村や町の人馬帳(人別帳)より外されて「帳外者」とされ,ここに収容されたのである。収容されることを「山登りを命じられる」と言う。

尾上町市郎右衛門借家欠落人七兵衛倅千太郎・同三太郎・娘ふく三人之もの山え揚ル,七兵衛義近年家賃余ほと不足有之由訴訟申出候ニ付て也

(『市政提要』「次郎九郎両山非人并穢多之事」四)

この乞食部落(非人部落)に収容されたもの(「山の者」)を「両山の者」ともいうのは,この地が「古山乞食村」と「新山乞食村」の二つに分かれていたからである。

奥市の谷池(狼谷)に追い込まれたのち,さらに追い出されたとき,一方は網浜村の郷内にある山に移転し,これを「古山乞食村」という。もう一方は門田村の枝村である徳吉村の塔の山(現在の県立岡山朝日高等学校南の丘陵地に塔があったので「塔の山」という)に一度移転し,更に古山乞食の居た網浜の郷内のさらに奥ある内谷に引っ越したので「新山乞食村」といった。この「古山乞食村」と「新山乞食村」をあわせて「両山の者」,あるいは「山の者」と呼んだのである。

この「山の者」の支配責任者は,最初は町奉行であったが,寛文5(1665)年よりは寺社奉行より分かれて新設されたキリシタン奉行に任せられたらしい。その輩下として直接に「山の者」を取り締まっていたのは,城下の常盤町に住んでいた「次郎九郎」という者であった。


 乍恐奉書上

一 私祖先は御野郡銭屋敷ニ浪人ニて住居仕居申候処,正保(1644〜48)年中之頃常盤町引越居申候,当時御用之儀為御雇被仰付候処,延宝(1673〜81)年中之頃御奉行石田鶴右衛門様・岩根周右衛門様御時,町方盗賊見廻り役并両山之者共諸事差配仕候様被為仰付,町方見廻り給御上様より銀百目頂戴仕,惣町中より米拾八石,但壱石ニ付銀五拾目相場ニ〆御割付被為遣候

内町十一町

但御家持一軒より 三十文

借家一軒より  拾 文

中六町

但御家持一軒より 弐拾文

借家一軒より  五 文

外町

但御家持一軒より 拾 文

借家一軒より  三 文

都合銀九百目御座候処,時節悪敷御座候哉,年々減少仕候ニ付迷惑仕居申候,二十年以前ニも御嘆上奉申上御触被為遣候へ共,兎角時節柄悪敷御座候故,只今ニて新銀札三百五拾目程御座候処,先年より私同家之者え相応割遣し,私囉候分弐百三拾目程御座候,同家之者百三拾目程御座,町々より請取申候儀は,其町々町代衆中より取集囉申候,町中御座メ之内年々減少仕候故甚難渋仕居申候,御上様より御銀百目頂戴仕候処,御銀札初り候節より御銀札ニて頂戴仕来り居申候処,森川藤七郎様御時,親次郎九郎銀札五拾目御増被遣,只今迄毎暮古札百五拾目頂戴仕申候

一 広沢喜之介様御時明和六(1769)年丑六月ニ,私見習被為仰付難有奉存上候,見習給銀札百目毎暮頂戴仕居申候処,其後五拾目御増被為遣候段難有奉存上候,天明四(1784)年辰五月十日ニ親次郎九郎病死仕居申候ニ付,其節川口忠左衛門様御時同六月二日ニ町見廻り被為仰付相勤居申候,亡次郎九郎通り銀札百五拾目毎暮頂戴仕候処,森川吟右衛門様御時寛政三(1791)年亥八月十二日,御米拾俵頂戴仕難有奉存上候,翌年河合兵大夫様御時,勝手向難渋御聞および被遊,御米七俵頂戴仕難有奉存上居申候,夫より毎暮七俵ツゝ頂戴仕難有仕合奉存上居申候,湯浅新兵衛様御時寛政八(1796)年辰六月ニ倅吉三郎見習被為仰付,銀札百目毎暮頂戴仕難有奉存上候

一 出火之節町御会所え山之者拾五人召連相詰申候

一 京橋御掛替御普請之間,非常不常之者相渡申候儀,船御用場より船請取山之者渡し守ニ被為仰付,西中島下川原より御蔵前片瀬町構え船着ニ致,西中島町川原渡し場え山之者弐人ツゝ昼夜指置申候,小屋入用代并昼夜扶持方御立被為遣申候,御普請相済候節渡し船山之者え被為遣申候

一 御巡見様御通行之節,私見廻り并御通り道浦筋へ山之者出張被為仰付候

一 御上様御発駕御帰城之節并御祭礼之砌,私見廻り山之者もの御通り道之町々え指置申候

一 御酒折宮・伊勢宮御神事之節,私山之者召連出張申候

一 御尋者御同心様御出之節,旅行御連被成参り申候

一 御獅子狩并備中宮内芝居其外所々御出張之節,御連被成参申候

一 盗賊致候もの帳付之無構押へ取,留籠え入置山之者番ニ付置申候,尤御屋敷懸り合之者ハ其町ニ指置御下知奉待候

一 備中板倉ニ泊り御当地え日々ニ通ひ候諸国種々之商人,先年御指留ニ相成候処,元文四(1738)年ニ私方相届申候者とも他国御尋者御用之節,諸国ニ馴染之者御座候得は手掛りニも相成候と奉存,伺上候処御聞届可被遊候

一 河合兵大夫様御時寛政七(1795)年卯七月十八日,夜より更廻り増番被為仰付候時分,夜更候て帯刀致候人ニても紛敷相見へ候得ハ,帰り候を跡より見届屋敷を見覚へ可申出候,若途中ニて彼是申候得は,及深更ニ何御用ニて御通り候哉御名元可被仰候と申,返答不致腰之物

  抜掛候ハゝ擲落し可申,左様之事有之候ハゝ上下御同心屋敷え早速注進可致,向後其心得ニ相勤可申と被為仰付候

一 同(1795)年十二月二日常念寺様え遊行上人様御出之節,同五日之昼九ツ時ニ備中船尾村小野五郎兵衛殿と申仁参詣致し候処,寺内ニて紙入紛失致し候ニ付吟味致候様被為仰付,段々聞合候得とも相知れ不申候,翌六日ニ被為仰付候て私山之者弐人出張候様ニ御申付,出張場所ハ御同心より指図請相勤可申候,尤七日より山之者は出張ニ及不申,私計出張候様被為仰付,向後群集仕候場所ハ其心得ニて相勤可申と被為仰付候

一 湯浅新兵衛様御時寛政八(1796)年辰五月廿六日より六月三日迄,東岳山松客寺様信州善光寺様出開帳ニ付,出張被為仰付候

一 断罪磔付獄門打首火罪人等御用之儀は先年より被為仰付候,夫々え移り合先格之通取計仕申候

一 両山之非人共先年在方町方より山上り被為仰付候者ニて,凡百五拾年以前ニ相成申候と山之者より承り申候,其後百弐拾年以前,山より東中島町え帰り申者山屋甚兵衛と申候,只今其跡は無御座候,上道郡網浜村郷内之山ニ居申候を古山と申候,同郡門田村之内徳与志村塔之山ニ居申候処,御城下繁昌仕候ニ付,同村郷内之奥内谷辺え引越居申候を新山と申候

一 両山之者共私差配被為仰付候節,御屋敷方町方見廻り一日ニ三人夜ニ五人昼夜ニ八人被為仰付候,但シ一人え御蔵麦壱升ツゝ御立被為遣候

一 丁番弐拾人御定被為仰付,惣町中え一ヶ月ニ米六斗御割付被為遊,但壱人ニ壱合ツゝ山之者惣町中取集囉申候

一 山之者毎日罷出見廻り,野乞食物囉等紛敷者町外レえ払出候様被為仰付候

一 町手無宿牢死人并行倒もの死骸取捨其外勤方之儀ハ,前格之通山之者ニ申付候,右之通乍恐奉申上候,御上様御厚恩之以御影,数代相来り候段重々難有仕合奉存上候,以上

享和三(1803)年亥二月     常盤町 次郎九郎

(『市政提要』「次郎九郎両山非人并穢多之事」十九)

この史料は,享和3(1803)年2月に,次郎九郎より町奉行に出された先祖と今まで勤めてきた役務に関する書上である。次に,この史料からわかることをまとめてみたい。

次郎九郎の祖先は,御野郡銭屋敷(現岡山市二日市・旧岡山刑務所付近)にて浪人をしていたが,正保年中に城下の常盤町(現田町一丁目東部から中央町東部)に引越し,キリシタン奉行の配下として延宝年中に町方盗賊見廻り並びに両山の者(非人)の諸事差配を命じられた。

「次郎九郎」の身分は「烟亡(隠亡)」であり,世襲名として代々相続されて受け継がれている。ただし,文化十一(1811)年に,不祥事件をおこして罷免され他国に追放されたため,その血統は絶えて他の者が同名でその役職を引き継いでいる。

この事件について,『池田家履歴略記』には,次のように記されている。

平井山・泰山に居る乞食ども内信心(日蓮宗不受不施派)の坊主,高遵という者を信仰して乞食の佐五郎という者の家に数年かくまい置きたる事,露顕し,高遵は捕られぬ。両山の乞食一統は四月二日,夫々軽重の咎あり,以後,以前の宗旨に立戻るべしとの証文書せられる。百姓の内にもかの僧を信仰の者あれば其れ又お咎めありしなり。

また,『市政提要』では,次のように記されている。

 次郎九郎義内信一件ニ付御咎被仰付候始末

次郎九郎義東山非人共之内ニ久々内信坊主ヲ指置候ニ付,郡代より目明し罷越右坊主を召捕,并山之者共段々召捕ニ付夫々調らへ之上,文化十一戌二月廿四日於郡会所大御目付手御穿鑿有之,次郎九郎并山之者之内長屋入被仰付,山之もの共追々御免被成別帳ニ委シ,次郎九郎義は同十二亥二月十一日追払被仰付,則目明し御境え召連罷越候由,依之当時欠役と相成候ニ付御咎,早々同家ニ居申隠亡仁平と申者仮役ニ申付,其段大御目付中えも咄し置迄也,尤追々払被仰付候後断絶致し候付,右仁平え跡家内引受之儀願之趣,惣年寄久米屋勇吉より申出候ニ付承届遣候処,仁平請込人ニ板倉衆之進殿御領分備中浅口郡玉島村隠亡利平次と申者之弟利吉と申者引受願,子五月十二日指出候ニ付是又承届,向後次郎九郎と相改可相勤旨,惣年寄江田勇吉え口達ニて申移,此段為念大御目付中えも咄置候事

   右願左ニ記ス

(『市政提要』「次郎九郎両山非人并穢多之事」二十)

この事件で,次郎九郎はその監督責任を問われ,その役職を免ぜられ他国追放となったので非人総領の役も欠員となった。その際,次郎九郎の家に厄介になっていた玉島出身の隠亡仁平という者が代役を命じられたが,その後仁平は郷里の玉島村に居た甥の利吉を次郎九郎の跡目相続に願い出て許され,以後はこの者の子孫が次郎九郎の名で非人の総領となった。

すなわち,正保年中から文化十一年までの約165年間ほど続いた前代の次郎九郎の系統と,文化十一年から明治四年までの約六十年間続いた後代の次郎九郎に二分されながらも,岡山の非人支配はこの次郎九郎によって差配されてきたのである。

明治となり近代警察制度が発足した際,次郎九郎は,両山の非人を率いて町の盗賊見廻り方を行っていた前歴を買われて,県警察官に採用され,姓も能勢と給わって能勢次郎九郎と名乗り,穢多目明しであった岡勝右衛門とともに新町の鬼刑事となったと伝えられている。


「両山の者」(非人部落)の人数は,『備陽記』によれば,竈数百九軒,男百八十四人,女百六十二人,合計三百四十六人とある。

次郎九郎の役目は,盗賊見廻り方と両山非人の差配であるが,この史料に記されているそれまでに勤めてきた役務をまとめてみると,消火の手伝い,船着き場(川渡し場)の番及び渡し守,巡見通行や城主帰城及び祭礼の際の見張り番,捕縛した盗賊の見張り番,同心の下働き,紛失物の探索,断罪等御用(行刑),牢死人や行き倒れ等の死骸処理,野非人や帳外者の追い払い,市中(城下の武家屋敷地・町中)の昼夜見廻り,など多岐にわたっている。だが,基本的には,市中見廻り及び見張り番,行刑の手伝いと死骸処理である。次郎九郎の差配に従い,同心などの下働きを命じられて勤めている。

これらの役務に対する給付をまとめると,次のようになる。

岡山藩より銀百目…目は匁であるから,1両=銀50〜60匁として,約2両

惣町中より米18石…米1石につき銀五拾目であるから,銀900匁として,約18両

ところが年々,減少して,町々の町代(町役人)衆より,家之者の分(百三拾目)と合わせて三百五拾目程になった。藩からは,町奉行森川藤七郎の時に,五拾目の加増があり,毎年の暮れに百五拾目を支給されている。また,寛政三年に米拾俵を給付され,翌年よりは毎年米七俵を支給されている。(武家)屋敷方及び町方の見廻りを1日につき昼夜で8人がおこなっているが,それに対して藩より1人につき麦一升を支給されている。他にも,番役20人に対して町中より一ヶ月に米六斗ほど(ただし1人につき1合)を受け取っている。

また,両山の上に「御免地(免税地)」が1反五畝ほどあり,自作していたようである。

「両山の者」の人数(約三百数十人)から考えれば,乞食としての施しがあったにせよ,生活は苦しく貧しかったと思われる。それを補っていたものが,門付け芸などの勧進であった。

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2010年09月04日

岡山藩の非人(1):両山乞食

近世岡山藩においては,「穢多」と「おんぼう」と「両山乞食」の三身分が賤民の中心として存在していたものと考えられている。

治安維持については,「穢多」の動員に関して,貞享四年に「穢多」から「目明」役に就任した嵐山覚右衛門が画期となっている。岡山藩の「評定記録」によれば,覚右衛門の就任以後に「穢多」による「夜廻り」や盗人逮捕の事例が見られるようになる。したがって,覚右衛門の「目明」就任は,「穢多」を治安維持に動員する上で重要な意味を持っていたと考えることができる。

「おんぼう」次郎九郎は,「町方盗賊見廻り役」を務めている。「両山乞食」の支配を開始する延宝期以降は,「両山乞食」を伴って,取締り・追払(見廻役)を行うようになる。この見廻役は,城下の「葬式火葬」独占と不可分の関係にあり,「おんぼう」としての特徴である葬送権確保のための見廻役であったと考える。

「野乞食」追払を在方で担う「非人番」は,「穢多」と「非人」双方が行っている。ただし,「非人」による「非人番」の事例においても,「穢多」の「世話」によって「非人番」に就任しており,「非人番」は基本的に「穢多」によって組織化されていたものと考えられる。

この他にも賤民の活動として,死体処理や斃牛馬処理・勧進行為などがあげられる。これらのうちで,死体処理に関しては,正徳期の藩による確定以外,具体像をつかむことができていない。また,斃牛馬処理に関しても,「穢多」による讃岐への牛皮買集や死馬獲得の事例と「平人」による牛皮集荷や大坂「役人村」への牛皮輸送の事例が見られる程度であり,その具体像は解明できていない。


以下の史料は,享保16(1731)年,岡山藩の城下校外にいた両山乞食が,城下常盤町にいた隠亡頭の次郎九郎の手下であることを拒否したため追払処分となった経緯を町奉行がまとめたものである。

史料に見える岡山藩の「乞食」は,承応年間(17世紀中頃)前後からである。『市政提要』に収録されている享和3(1803)年の次郎九郎の「書上」によれば,次郎九郎の祖先は,御野郡銭屋敷にいた浪人であったが,正保年中のころ,常盤町に引っ越し,延宝年間(1673〜81)には,「町方盗賊見廻り役并両山之者共諸事差配」を命じられたとある。さらに,承応2(1653)年ごろ,両山の非人が「在方町方より山上り」を命じられたともある。

このことから,17世紀中頃,岡山藩が乞食統制を行ったと考えられる。支配(統制)形態としては,町奉行−町惣代−「隠亡」次郎九郎−両山乞食頭−両山乞食 であった。

両山とは,古(本)山(上道郡網浜村郷内之山)と新山(同村内之奥内谷辺)をいう。


元禄15(1702)年,万成(刑場)での「はりつけ」の死骸取り片付けについて,「隠亡」次郎九郎が「穢多」多左衛門と争論をしている。町奉行は,次郎九郎や両山の乞食頭らを呼び出し,「前々之通穢多共ニ以後は取なやミ仕候様ニ」と言い渡している。(『市政提要』)

正徳2(1712)年9月,岡山藩は,穢多は「罪人之作廻并死骸取捨又は番等仕候儀,共に一切刑罪被仰付候分」とし,隠亡は「行倒レ逆死人有之節,死骸片付并番,又は牢屋ニて無縁之者致病死節取捨一切」として,それぞれの役目を固定している。(『法例集』)

こののち,乞食のうちに逆死人(自殺,事故死など正常でない死人)の死骸片付け拒否をめぐって,「隠亡」次郎九郎の支配の不正を追及する闘争がおこっている。

両山乞食之内追払一件 自享保15年 至同18年

関清水大明神御祭礼例歳九月廿四日参社仕処御免紛無之候

一 従 御公儀被 仰出御法度堅相守可申事,
一 国法何事不寄急度相守可申事,
一 筋目分明成者共於所々新法取立且亦氏抔之儀申出シ穿鑿仕間敷事,

  右之条々堅相守可申者也,

              三 井 寺

近松寺別当

役 人 中

 享保15年戌十二月

宮本執次京都

 日 暮 八 大 夫

備前国上道郡岡山之内本山新山番人共江

一 両山乞食之内,六介・半兵衛・長太郎三人之者,此度京都本寺江罷登リ申候ニ付,いか様之用ニ而登候哉と相尋申候得者,旧冬京都本寺より取下り申候書付 御上江指上候ハヽ御おろし可被遊候間,其趣申登リ候様ニと被申付候,次郎九郎自分用ニ遣候儀得不仕候ニ付此段も申参候由申候,次郎九郎自分用ニ遣候儀

御公儀様より被仰付ニ而候ハヽ奉畏候旨申候,然共此段も京都本寺江窺申由申候,右長太郎と申者ハ此度京都江登リ申候ニ付,両山之乞食共エ之証人ニ召連申由申候,只今迄次郎九郎自分用ニ遣来リ申候儀ヲ,此度ニ至リつかわされ申間敷と申埒ハいか様シ之儀ニ而候哉と相尋候得ハ,只今迄用事承候得共此度本寺より申付ニ而御座候ニ付,自分用ハ聞不申旨申候,右六介・半兵衛両人之者共常々頭之申付も聞入不申者之出承申候,以上

 二月十二日        惣代 万右衛門

申渡条,今度其方手下者共之内,美州上道郡岡山之内本山新山ニ罷有者共,去冬其方江申付呼為登,本地表御執行御代替,依之前度彼等江被下置候書朱印取替遣之,弥古法之通不浄穢敷職堅仕間敷与申付返シ候所ニ,備前国ニ滅骸手掛ケ候次郎九郎手伝申付候由,本地表古法之掟ニテ彼等例年九月大神御祭礼節神役相勤来候得者,不浄職手伝抔堅ク仕者ニ而ハ無之,併備前国法ニ而是迄手伝仕来候得者今以難指止メ,然者本山新山両山之内より四・五人相極メ,此以後不浄手伝右四・五人之者共相勤申候様,備前国町会所御役人中迄其方より可申遣候,猶又,両山之小頭之者共江も右之段急度可申遣者也,

三井寺寺門

  近 松 寺

二月廿七日         役 人 中

京都祝教教頭

日 暮 八 大 夫 江

乍恐以飛脚奉申上候,然者従御本地様如斯之御書被為下,其御地江此通可申遣旨被為仰下候付差下シ申候,御披見可被為遊候,此者罷登候節御書御戻シ可被下候。以上,

                       御本地御取頭京祝教頭          三月八日     日 暮 八 大 夫

町 御 会 所

両山乞食共之内両人,去年十二月京都江罷登リ帰候上ニ而町惣代共迄申候ハ,本地表代替ニ付江州関明神別当三井寺門近松寺役人より掟書相渡シ取帰申候,京都ニ居申頭日暮八大夫申聞候ハ,明神祭礼之節毎歳罷登候筈之処其儀無之不届ニ候,向後毎歳祭礼之節罷登リ役儀可相勤候,神事役人相勤候得者,於御国穢敷物取扱又者穢敷者共与出合候儀堅仕間敷候,尤其趣掟書之内ニも有之旨申渡候由,

 右之通惣代共申聞候ニ付私申聞候ハ,穢敷物取扱候儀仕間敷由申段ハ,逆死人等有之節番等勤片付之取扱之儀与祭候,当春も右取扱等之儀仕間敷由彼是不埒成儀共申,大勢申合町会所江致推参候ニ付,村上勘左衛門屹申聞候得者,其節あやまり書仕候処奉行替リ故,此度又事を相工候而之儀与相聞候,近松寺よりの書付ニも其趣有之候与申候得共,左様成儀紙面ニ無之候,先規より成来リ候儀故御国法同事之儀に候処,今更何かと申段不届成儀に候,急度可申付旨申聞候処,御上より被仰付候儀ハ,只今迄之通何事ニ不依相勤可申候,次郎九郎申付候自分用之儀者得相勤申間敷由申候,

一 当春乞食共三人又々京都江罷登リ候,右之者共帰候以後当二月近松寺役人より日暮八大夫江申渡候紙面ニ八大夫致添状町会所宛にて差越候,

 右紙面ニ

両山之者共去冬呼為登本地表代替ニ付,古法之通不浄穢敷職仕間敷と申付返シ候処,備前国ニ滅骸手掛ケ候次郎九郎手伝申付候由,古法之掟ニ而彼等例年九月祭礼之節神役勤来候得ハ,右手伝仕者ニ而ハ無之,併国法ニ而是迄仕来リ候得者今以難指止メ候,然ハ両山之内より四・五人相極手伝此以後相勤候様ニ備前国町会所役人申迄可申遣候

右之通八大夫より町会所宛ニ而差越候段慮外之仕形,勿論八大夫江可及返答儀与不存,尤申越候趣御取上ケ難被成儀奉存候旨当三月十三日申上相伺候処,先規より仕来リ之儀ニ候得ハ御取上ケ難被成儀ニ有之候,勿論返書遣候埒ニ而無之候間,惣代共より此趣使之者江口上ニ申聞,使之者覚ニ右之通り書付遣し候様ニ仕,八大夫よりの書状も返し可然与被仰渡候ニ付,其通申聞返し申候,

一 右之通本地より申来候趣共相考申候処,両山乞食共之内より申出候儀と奉存候,乞食共不残左様申ニ而ハ無御座候,捨人計も公事ケ間敷者有之様子ニ相聞江,其内別而左之両人頭取与相聞申候間,此者共御追払ニ被仰付候ハ,跡々〆リ可申様ニ奉存候,夫共存候様ニ無御座候ハヽ残り七・八人之者共も追而御追払ニ被仰付候様ニ支度奉存候,

古山乞食 半 兵 衛

同 六  介

一 乞食共何廉と申候儀ハ次郎九郎ヲ頭ニ用候儀を嫌候而之儀ニ御座候,次郎九郎儀ハおんほう故筋目悪敷候付手下ニ付候ヲ嫌申由,近き頃ハ次郎九郎申付候儀共用不申町廻り等之勤方も不精ニ相見申候,

右之趣ニ御座候得ハ,京都より申越品ニハ御拘リ不被成,常々次郎九郎申付候儀をも用不申,我儘成様子ニ付,御追払ニ被仰付候趣可然哉と奉存候,

右者町奉行差出候書付也,

   口 上 之 覚

当所乞食頭次郎九郎手下両山乞食ども滅骸手伝申付候,三井寺本地表古法之掟ニ而神役勤来候得者右手伝仕者ニ而ハ無之,併国法ニ而是迄仕来候得ハ今以難差止候ハヽ,両山之内より一両人相極此以後手伝勤候様にと,近松寺役人中より之紙面逐一覧之候,当所町御奉行所役人中迄右之趣申達候所ニ,先規より仕来リ候之儀ニ有之候得ハ,御取上難被成と町御奉行仰之由役人中申聞候,右之壱通相返し候,以上

      岡山町惣代  万 介

三月十四日 万 右 衛 門

右之通八大夫飛脚之者江両人口上ニて申聞候,口上ニ而ハ間違も有之物故,其方覚ニ書付遣シ候間,罷帰此書付出候共又者出し申間敷共,其段ハ其方了簡次第之儀と申聞させ候,右同日飛脚之者罷帰候,尤次郎九郎并与頭惣兵衛・忠兵衛下頭両人も町会所江呼寄せ出合候,

右之八大夫飛脚,亥三月十一日之夜来リ翌十二日於町会所別紙両通町奉行拝見,翌十三日相伺万介・万右衛門江申付,飛脚之者へ右之段申聞させ候也,

享保十六年亥七月廿七日

一 左之乞食共兼而被仰付置候職分之死骸取扱之儀仕間敷由申,御国法背候ニ付,妻子共追払被仰付

半   兵   衛

六       介

六介       妻

同    娘  弐人

同年八月廿三日 〆五人

一 右之者共追払被仰付候後も次郎九郎申付ヲ不用我儘申ニ付,八月廿一日乞食共不残町会所江呼出し同心之者惣代両人ニ申付,此以後仕来リ之通次郎九郎申付ヲ用勤来リ之儀相勤可申哉と申聞候得共,用ち申事仕間敷由申ニ付,半兵衛・六介通ニ追払ニ被仰付候而も不苦哉と申聞候処,左之八人之者共ハ如何様ニ被仰付候而も次郎九郎申付ヲ用ひ候儀ハ不仕候由申候,残ル者共ハ先規より之通相勤可申由申候に付,書物仕せ山江返し申候,八人之者共ハ申付候儀得不仕と申切候ニ付,町奉行相伺追払ニ申付ル,

三 郎

長 右 衛 門

勘 介

太 郎 大 夫

惣 吉

平 九 郎

権 介

享保十八年丑十二月,三井寺寺門近松寺より寺社奉行広沢喜之介江来状

其後者以書中も不得御意,弥御堅固ニ御勤仕珍重奉存候,然者御国本岡山之内元山新山ニ罷有候者共,一両年此辺関清水大明神御神事御役儀相勤不申候ニ付様子承合候所,御国本ヲ御追放被仰付候由,其意味承候得ハ有両山之者共江次郎九郎滅骸之手伝申付候故,両山のものとも町代万介殿・同万右衛門殿迄御断申上候得者,中々御聞入も無御座候由,依之穢申ニ付御神事相勤申事難成,本地三井寺江訴申ニ付,本地役人より御国本町代万介殿・万右衛門殿迄去ル亥二月ニ以書中申入候へハ如此之返答ニ而御座候,則写掛御目申候,元来両山之者共筋目正敷ものともニ御座候間,以御了簡追放御免帰参被仰付候ハヽ何も大悦可仕候,右両山之者共儀御国本ニ而去ル四拾四年以前元禄三年歳ニ寺社御改被成候時分,両山之者共迄御改被成候ニ付,岡山之者共可相頼寺無御座,依之京日暮八大夫方へ罷登リ右之様子咄シ,則京都西寺町松原下ル善寺御国本江罷被下,寺社御役人中御対談之上正敷ものとも相極リ,夫より今ニ至テ毎歳善寺より宗門差下シ被申候,成程筋目正敷ものとも御座候,滅骸手掛ケ不被申様被仰付可被下候,右之段為可得御意如斯ニ御座候,恐惶謹言,

                       三井寺寺門

霜月十二日                近 松 寺

松平大炊頭様寺社御奉行

広沢喜之助殿

猶以前了簡之上御追放之者共帰参被仰付被下候ハヽ,何茂大悦可仕候,以上,

右之品寺社方裁許之筋ニ無之故,町奉行吉川藤七郎より左之通返書遣ス,

広沢喜之介方江被指越候去月十二日之御状相達候処,御紙面之趣寺社方役所裁許之筋ニ無之ニ付,拙者致被論及御報候,然者先年当国令追払候乞食共当国住居指免候様にとの儀御申越候得共,右之者共古来よりの国法相背,段々不届之仕形ニ付難取上儀ニ候,左様御心得可被成候,恐惶謹言,

吉 川 藤 七 郎

十二月

三井寺寺門

近 松 寺

posted by 藤田孝志 at 17:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 穢多・非人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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