2010年09月10日

「解放令反対一揆」(2):中津井騒動(1)

明治5年(1872)1月14日,備中国阿賀郡中津井村(現真庭市)で,新・古平民の間で騒動が起こった。「中津井騒動(騒擾)」である。

備中の某村の「元穢多共」は「此度出格ニ身分御取立被成下候ニ付テハ,今日ヲ限リ盗賊尋方,乞食追払ハ勿論,死牛馬取捨等一切御断申上度」と,長年にわたる封建的・慣習的差別の撤廃を申し出た。これに対して,「眼前差支ニ相成」り「人気弥沸騰」した「旧平民」は一同相談した結果,被差別部落住民に対して「此度身上リ致候得共,年來勤来リノ廉々不残相断差支掛ケ候上ハ,当方ニテモ以来田畑当作一切致サセ申間敷,当山芝薪当追テ地面引分遣シ候迄堅ク立入申間敷,当店方ニテ何品も更ニ売不申旨」を言い渡して報復に出た。薪採をめぐり「旧平民と元穢多」の間で悶着があったが,一月十四日には,その村の酒屋での酒の売買をめぐって口論となった。大庄屋の経営するこの酒屋に被差別部落住民二人が「酒ヲ売カ売ヌカ試シノタメ」参ったが,予想したとおり酒を売り渡してくれなかったため,直ちに五,六人が酒屋に掛合いに行くとともに,そのことを会所に出頭して庄屋に申し出たのであった。これを契機に「人気立」ち,旧平民が「竹螺ヲ吹,竹槍小銃等其外各手道具を携,勿蜂起」し,「斜陽之頃」には他の管轄(倉敷県・成羽県・高梁県)の群衆も一緒になって,その数は千人余に及んだ。庄屋など村役人は説得を繰返したが,群衆は聞き入れず,酒屋を訪れた元穢多および他の一人,さらには「元穢多頭」「小頭」「伍頭」の計五人を庄屋会所に呼び出して暴行を加え,うち一人を殺害した。この時には,被差別部落には襲来を加えなかった。翌十五日になると,「近村ノ元穢多相集リ押寄候風説」が起り,県官,村役人の説得にもかかわらず屯集は解散せず,同夕には近村の「旧平民」も加勢として繰り出してきた。説諭を受けて,近村の群衆は地元へ引渡し,被差別部落民に対して大砲・小銃を打ち放った。さらに彼らが逃亡した山林へ放火し,二人を殺害するに至った。

(『岡山県史 近代T』)

この騒動に関する史料としては,『備前・備中・美作 百姓一揆史料』(第5巻)に所収されている「小田県史」「旧亀山県事蹟取調書」「三重県史料・旧亀山県部」がある。また,これらを参考資料として所収するとともに新史料として騒動に関する調書などが書かれている「杉田文書」を収録した『岡山部落解放研究所紀要11号−中津井騒動関係資料集−』がある。

上記の史料より,「小田県史」及び「三重県史料・旧亀山県部」を転載しておく。

上房郡中津井村新古平民騒動

明治五年壬申正月拾八日,備中国上房郡中津井村・有漢村元穢多ト平民,去ル拾四五日頃ヨリ沸騰ヲ醸シ,不容易趣ニ付,拾等出仕高取一字ヲ鎮撫トシテ同村エ出張申付,不取敢大蔵省エ及具状。

元倉敷県管下備中上房郡有漢村最寄村々百姓共動揺ノ儀ニ付,元高梁県官員ヨリ倉敷県官員エ致急報別紙来状,倉敷県ヨリ相達候ニ付,元倉敷県大属高取一字エ,本県拾等出仕申付,為鎮撫急速出張為致候。右動揺ノ根元ハ,昨秋元穢多茶筅平民同様ノ御布告,元亀山県ニテ触示延引ニ相成候ヲ,元穢多共不平ヲ抱キ居候折柄,亀山県官員中津井村陣屋エ出張ノ節,御布告相触候ニ付,新民共俄ニ増長,我慢ノ処業致シ候ヲ,旧平民共立腹,一同申合,新民共エ諸色一切売与ヘ申間敷約定致居候処,去ル拾四日,新民ノ内壱人徳利酒ヲ買求メ候者エ,旧民ニテ売与ヘ候者有之。夫ヨリ,新民共買酒ニ托シ,多人数相集リ候ニ付,元亀山県官員中津井村陣屋ヘ新民呼出シ,歎願ノ儀有之候得バ,可執次旨申渡候ヲ,旧民共新民陣屋ヘ押寄候ト心得,大沸騰ニ相成,竟ニ陣屋内ニ有之候大砲・弾薬等奪取,新民ノ居宅ヲ焼払ヒ,山上ヘ相逃居候者ヲ取囲,四方ヨリ放火致シ候ニ付,新民窮迫,頭立候者壱人裸体ニテ謝罪致候ヲ聞届ケ,火ヲ消シ銃器ヲ抛チ,一同竹ノ荘エ引取候由ニ候得共,全ク高梁県ヨリ壮年ノ士卒五六拾人,小銃相携出張致候勢ニ恐怖シ,一時鎮定ノ姿ニ相成候趣ニ御座候。尤,出張為致置候高取一字ヨリハ,未ダ何等ノ報知モ無御座候。尚,確報有之候上,追テ御届可申上候得共,右聞込ノ儘不取敢申上置候。以上

  壬申正月弐拾日

右書面,東京出張所ヨリ差出候処,左ノ通御指令有之。書面届ノ趣,精々探索,捕縛ノ上,兼テ御委任ノ廉ニ照準シ,速ニ処置可致。大小砲等ハ早々取纏メ,兵部省エ可差出候。

  壬申正月弐拾九日           井上大蔵大輔印

                         吉田大蔵大輔印

  別紙

至急申進候。然バ倉敷県管下有漢上村ヲ始メ,最寄村々百姓共,新平民共ヲ相手取,去拾四日頃ヨリ多勢沸騰イタシ,追々当管下ヘモ波及ノ勢ニ付,鎮静方手配等致内,中津井詰官員壱人当所迄被罷越,鎮撫方依頼モ有之,申談中,益以盛ニ相成,中々以説諭ニ付候勢無之,大砲銃并竹槍等相携,幕ヲ張リ,新平民ト対立,砲声無絶間相聞エ候ニ付,不得止士族卒ノ内五六拾人計,昨拾六日夕ニ至リ小銃為相携為鎮撫片岡村辺迄出張為致処,竹ノ荘辺村々モ追々相加リ,昨夜半ノ処ニテハ益以盛ニ相成候勢ニ相見ヘ候ニ付,此上鎮静方手配等申談中,今暁倉敷県ヨリモ大小属ニテ両人出張被致,此上ノ取計方評議中,有漢口ノ処ハ,新平民之方降伏之趣ニテ,平民之分ハ過半引揚候趣。尤,竹之荘口ハ,今晩右有漢口ヨリ帰リ懸ニ候哉,殊之外乱妨,新平民居宅放火,是亦砲声等盛ニ相聞ヘ候趣ニ付,倉敷官員ハ壱人有漢口,壱人ハ竹之荘口ヘ出張。当県ヨリ出張ノ官員ト申談,鎮静方尽力被致候筈ニテ,双方出張相成候事ニ候。扨,右動揺ニ付テハ,未ダ参事御着無之,差図甚以心配イタシ居候処,今朝,倉敷官員ヨリ承リ候処,昨今其表迄御着相成候由。右ハ,自然其村方マデ一先御着ト申儀ハ,先頃中無屹度風説モ有之ニ付,若御着モ有之儀ハヾ,早々申越可給旨相頼置候事ニ候得バ,何角与申越可有之ト存候処,何共左右無之ニ付,前条ノ通,倉敷・中津井等申談,不取敢鎮静方取図居候処,御着之趣伝承致候ニ付,右之形勢不取敢貴様迄申進置候間,此旨参事エモ其筋ヲ以可被申置様致度,其内有漢口・竹ノ荘共,委細ノ模様相分リ候ハヾ,出張官員ノ内為御報,尚御差図伺旁差出可申手筈ニ御座候。此段夫々取繕,可然御取計頼存候。以上

  正月拾七日                 近沢茂蔵

柚木正平殿

尚々,有漢口追々鎮静ノ姿ニ候ヘ共,竹ノ荘口ハ今晩之様子ニテハ余程盛ノ趣ニ候得共,其後未ダ報知無之,相分リ次第官員之内罷越,御届可申積リ御座候。然ルニ,最寄エ波及ノ憂有之趣,出張官員ヨリ報知ニ付,高梁・新見・足守ノ参県エ,頑民暴挙ノ程モ難計,互ニ申合,相当人数差出シ,巡邏取締候様,夫々エ書翰ヲ以相達,大蔵省エ左之通届出。

先達テ御届申上候管下上房郡村々動揺之儀ニ付,元亀山・高梁・成羽諸県ヨリ,別紙届之通,一字不容易形勢ニ付,当県官員高取一字致出張諸県申合,鎮撫方所置申候。尤,一時鎮定之姿ニハ候得共,再挙之程モ難計ニ付,向後取締ノ儀,厳重指揮仕,巨魁ノ者僉索中ニ候処,何レモ解兵後県下守備手薄ニ御座候柄,百姓共ニテハ,糺問等有之候ハヾ,直様一同強訴可致ト,互ニ堅申合居候由ニモ相聞候間,尚手抜無之,厳粛取締,臨機ノ処分有之候テ不苦旨申達置候。此段束テ御届申上候。以上

posted by 藤田孝志 at 19:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 解放令反対一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「解放令反対一揆」(1):解放令の布達

1871(明治四)年8月28日に太政官布告として出された「解放令」が津山県庁から管内に布達されたのは,9月18日であった。

穢多非人等之称被廃候条,自今身分職業共平民同様たるへき事

  辛未 八月                 太 政 官

右之通被 仰出候付,此段相達候事

辛未 九月十八日 津 山 県 庁

しかし,何らの具体的な説明もないままの布告は,百姓や平人には青天の霹靂であり,動揺と混乱をあたえずにはおかなかった。

同年9月末には加茂谷(現津山市加茂町)の庄屋をはじめ農民達3〜40人ほどが津山県庁に出向いて「穢多非人も平民同様にと仰せ出されているが,私達は承知できない。どうしても同様にしなければならないのなら,穢多非人を征伐いたすように願い出る」と強硬に訴え出ている。

穢多非人平民同様に被仰出候処,加茂谷より庄屋小前之荒増之者三四拾人も津山江出,同様之儀は不承知申出,是非同様に相成候はば穢多非人征伐可致由願候

(『山本忠兵衛日記』)

さらに10月には,勝北郡平村(現勝田郡勝央町)他54ヵ村の村役人たちが津山県庁に歎願書を出している。その内容を要約すれば,【…この度,穢多非人の称が廃止され職業も平民同様との達しがありましたが,末々まで洩れなく達しました。しかし,こと穢多については昔から貴賤の別が歴然としていたことは御上でもご承知のことと思います。別火のことは勿論,平民宅へ参りましても土間で取り扱いを受けていました。なお,穢多共においては数代にわたり平民の恵を受け,飢渇の難をしのいだことが少なくありません。今般の布告に対しては恐れながら私達一同承服いたしかねます。朝命の重大なることは十分承知いたしておりますが,昔からの旧習をすぐ改めることは困難であります。万一人心動揺して事件でも起こすようなことになったら大変であるから,従前通りにお願いします。】と,村方役人の立場から村落の秩序が乱れることを恐れ,解放令の延期を強く要望している。

また同じく10月に,東北条郡・西北条郡の村役人が連名で倉敷県庁に出した歎願書には,解放令布告による住民の深刻な動揺の様子が伝えられている。

乍恐以書附奉歎願候

当県御支配地美作国東北条郡西北条郡村々役人共奉申上候ハ,今度エタ非人之称御廃止,身分職業平民と同然たるへく御布告御座候ニ付,触渡候処,非人エタ之義は千古不易定格有之,確乎として尊卑之筋相立,上下之礼を尽し来候義ニて,今更,平民と同様たるへく被仰付候ては,忽然迷惑,長生老養之甲斐も無之様一途ニ被存,悲歎無此上御座候間,何卒従前之通り尊卑之差別相立,別てエタ共とは居火を同せざる様願立呉候様,百姓一同涕涙歎願仕候,一体旧習洗捨いたし難きは僻陬頑愚之常ニて御座候得共,今度之事件は格別弁別不仕,私共説得不相届心配罷在候,此上強て申付候ては如何様之儀出来候程も難計形情ニ御座候間,何卒格別之思召ヲ以,己前百姓一同願之通従前之振合を以互ニ渡世仕候様,更ニ御厳令被為降候様,其筋へ急度被為仰立,御裁許御座候迄之間も異変有之候様も不計候間,当分之内,御立法を以,人心鎮静仕候様被仰付,侮ニ万姓御救助被成下度,重畳奉懇願候,以上

  明治四年十月

(『加茂町史』瀬畑家文書)

これによれば,従来より穢多・非人とは上下の礼を尽くしており,自ずと「尊卑」の差別があったのだが,今度この差別が廃止され同様となると,何のために生きているのかわからなくなると嘆いているので,当分の間は従前通りにしてもらいたいとの歎願である。

「従前之通り尊卑之差別」「従前之振合」とは,如何なるものであるか。この「従前」という言葉に込められた意味内容を明らかにしておきたい。

津山藩領のエタ村十三か村の役務は,津山藩牢番役を命じられており,村別に割り当てを行い,役目を遂行していた。また,加茂町の史料に「従前エタと申テ死牛取扱致居候者」とあることから,弊牛馬の処理や掃除役も命じられていた。

また,明六一揆において津川原襲撃に加わり殺人罪で死刑となった小林久米蔵の口述書によると【…元身分(エタ)の通下駄傘等は村内より外は不相用,近村の平民へ用向,右之節は門外より草履を脱ぎ,途中にて出会候節は頭を地に下げ礼譲正敷可致】のが「従前通り」であった。

つまり,百姓にとってのエタ・非人は「千古不易定格有之,確乎として尊卑之筋相立,上下之礼を尽し来候義ニて」「居火を同せざる」存在であって,平人である自分たちは決して「同様」の存在にはなり得ないという認識があった。

これに対して,津山県は暫定的に「従前之振合に準拠し,双方共礼譲相守,柔和にいたし…」という触れを出している。百姓たちは,この触れを「当分従前通りに御触れ戻しに相成候」と受けとめる一方,騒動が勃発する気運を感じてもおり,騒動に備える村方取り決めを行ってもいる。

    村方儀定書之事

エタ非人平民同様可為事,従天朝被仰出候ニ付,諸国騒立候趣,就は当国村々騒立候様之風聞有之,村方一同心配仕,万一他所より多人数通来り候節は無拠難遁候得は,一日付添罷出候様申合置候,万一壱人ニても不参加致候ものは一日ニ銀札五拾目宛加料銭として立出し可申候て,村方一同引取候上は村端江小屋掛ケ住居為致候様申合儀定致置候,為後日之村方一同儀定連印致置候

以上

      明治四辛未年十一月十二日

つまり,他村から騒動の集団が来た時,村民のとるべき行動として村民一同連帯して参加することを取り決め,不参加者からは加料をとることまで決めて結束を図っている。

このような動向に対して,北条県では騒動の予防策として,あらためて次のような布達を管内に発している。

1872(明治五)年2月12日 「解放令」につき北条県有達

穢多・非人被廃ニ付左ノ通布達ス(北条県)

去辛未八月,穢多・非人ノ称呼被廃候ニ付,其段於元津山県相達候処,従来ノ習慣ニ怩ミ交接間不都合ヲ生シ候趣ニ付,於同県東京表へ相伺儀モ有之,且御沙汰相成候迄ハ先従前ノ振合ニ準拠シ,双方共礼譲相守リ粗暴ノ挙動無之様可致旨達置候処,右ハ性且万国ノ形勢ヲモ御洞察ノ上厚御趣意ヲ以テ天下一般被仰出候儀ニ付,一切採用下相成候条,示後双方共和順致シ不都合無之様厚ク可相心得候,尤元エタノ者共御趣意ニ甘へ倨倣ノ所業有之候テハ決シテ不相済事ニ候,尚追テ官員巡回委詳可申聞候ヘ共,心得違無之様可致,此段予メ及市発候候也

この布告によると,解放令が出されてから混乱があったので政府に取り扱いについて諮問し,その沙汰があるまでは旧慣習に従って行動するように命令していたが,政府の方針は解放令通りとする意向を変えないので,お互いに和順して行動するように心得ることを命じている。特に,エタに対しては増長を戒めている。

posted by 藤田孝志 at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 解放令反対一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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