2012年02月08日

岡山の「捕亡吏」(1)

人見彰彦氏の「部落史のひとこま」(『調査と研究』)に紹介されている史料に「用留」がある。これは,岡山部落問題研究所に保存されている史料で,備中国の穢多頭の系譜をもつ家に残されていたものとある。「用留」とは,業務日誌あるいは備忘録のようなもので,役務上の記録や見聞したものを書き留めたと考えられる。

この「用留」に,捕亡吏についての記述がある。

徒刑人逃亡之者,探索目印之為メ,判頭申付置候ニ付,右様之者区内え立寄候ハバ,見当次第捕押え差出すべき旨,兼々触達し置候処,かえって徒刑如く頭髪ヲ剃り候者間々これ有哉之趣,案外之事ニ候,ソレ人トシテ恥ヲ戒,善ニ移ルハ古今之通義ニ候所,刑人之刑状ニ倣フハ如何之心得ニ候哉,本人之狂妄ハソレ迄ニシテモ,其父兄タル者,又ハ戸長タル者ニ於テ不怪,傍観候義,以テ之外事ニ付,これに依各区へ捕亡吏ヲ遣し,巡察セシメ,右様狂妄之者有之候ハバ,本人ハ勿論,戸長等迄品々寄,相当申付方もこれ有べく候条,急度醜躰ヲ戒メ,良風ニ移り,巡察吏ニ不被目付様,小前末々迄洩なく懇諭いたすべし,此内意相達候也

明治六年八月    小田県権令   矢野 光儀
             小田県参事   益田 包蔵

右御触書之趣,急度相守,聊心得違これあるまじき事

明治六年八月十日      戸長    三宅 染次
                副戸長   児島徳平次

文意は,徒刑人と同じように頭を剃る者がいるので,「捕亡吏」を巡回させて取り締まるよう命じる「御触書」である。


小田県は,1871年(明治4年)に備中国および備後国東部を管轄するために設置された県であり,現在の岡山県西部,広島県東部にあたる。設置当時は深津県と称した。1872年(明治5年)に小田県に改称となる。1875年(明治8年)に小田県が岡山県に統合され,1876年(明治9年)に備後国側の地域が岡山県から広島県に移管され現在に至る。

小田県は明六一揆に際して隣接する村々への波及を危惧して,県官を派遣して情報を収集し,管内へ「厳密手配」を布達したり,人民に告諭したりしている。また政府へも情況を報告している。明六一揆に関する史料として「小田県史」は重要な史料である。その中にも,次のように「捕亡吏」の記述が見られる。

六月壱日,右妄動ニ付,備中国賀陽軍宮内村及加茂村辺エ多人数集合,全ク伝染ノ趣ニ相聞,同辺戸長共,併最寄巡回捕亡吏ヨリ注進ニ付,権大属杉山新十郎ニ申含,鎮撫トシテ,今朝高松村エ差向候。然ル後,尚不容易形勢ニ付,大属尾木方倫捕亡吏壱名差出シ,百万説諭,集合ヲ解キ,尋デ毎人ヲシテ徴兵令ノ趣意ヲ説解ス。

この史料は明治六年のものであり,また「用留」も明治六年の史料であることから,「捕亡吏」に「穢多」が任命されていたことは明らかである。

人見氏の同記事には,「これとは別の史料ですが」と断った上で,穢多を「捕亡吏」の役務を申し付けた史料が紹介されている。

其方共儀,改めて捕亡吏方頭取申付候,実貞にあい勤むべく候,別段,元仲間の者共儀,一同捕亡方申付候,其方共よりあい達つすべく事

出典や年代が明記されてしないため詳しくはわからないが,穢多頭を捕亡吏方頭取に,その手下共を捕亡方に申し付けていることは確かである。
だが,「捕亡吏」の記述は,岡山では明治4年の史料から登場してくるが,小田県以外の県ではどうであったか,それは不明である。各県の実情によって違っていたと考えられる。
また,部落民が「賤業拒否」として「目明」役や「捕亡吏」の役務を拒否したことも十分に考えられる。実際,警察制度が整えられていく中で,部落民は除外されていった。

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2010年09月11日

岡山の部落解放史(1)

明治維新がある日突然に起こったのではなく,新しい社会体制を目指した動きが社会の中で進行していた結果として起こったように「解放令」もまた唐突に出されたのではない。幕末期に被差別身分の人々は様々な身分解放の努力をしていた。
身分制度の維持を不可能とする意識が為政者の間にも生まれてきた。そのような社会体制の揺らぎの中で,解放令は生まれるべくして生まれたのである。すなわち,解放への動きが「解放令」を出させたのである。「水平社」もまた解放令以後に各地における被差別部落の人々による積極的な努力と挫折の繰り返しの延長上に生まれたのである。

歴史は「流れ」である。人々の意識の変化や努力が歴史を動かしている。マルクスは「意識が存在を規定するのではなく,社会存在が意識を規定する」というが,差別意識によって社会存在が規定されたのが被差別民であり被差別部落である。マルクスの唯物史観に欠落しているのは,人間心理の作用であり,差別意識に基づく差別関係が「排除の関係」であることから下部構造と上部構造の規定・被規定の関係に左右されず「枠外の存在」として残存し続けていることである。
被差別民の生産する皮革製品や細工物の需要は大きく,大名や領主にとって武具や馬具の確保から自らの支配下に彼らを置くことは必要不可欠であった。また死牛馬処理や行刑など社会的に必要な「役負担」は生業とは別に彼らに負荷された役割であり,生産関係の変化に対応しないものであった。
つまり,一方で「社会外の存在」として排除された差別関係でありながら,支配層や社会に必要な特定の役負担を命じられたことで生産関係を固定化された社会存在が被差別民であった。そこには,生産関係よりも差別関係や差別意識の作用や影響が強い。
たとえ支配層からの差別意識を強化させる巧みなイデオロギー操作がおこなわれたとしても(それも支配者の意識であるが),人々の差別意識が被差別民という社会存在を規定していることは確かである。このことは,同対法以後に貧困などの生活改善施策がおこなわれ生活環境面ではほとんど格差がなくなっても,なお人々の差別意識の克服が大きな課題として残存していることが証明している。

江戸時代は身分制度に縛られた社会である。身分によって生活様式が他身分とは異なるように仕向けられ,身分という枠組みの中での生活を余儀なくされていた。ただし,それは支配層である武士身分と被支配層である民衆との身分上の大枠においてであって,民衆における身分差はそれほどではない。その中にあって被差別民は「社会外の存在」「人外の存在」と規定され,身分差よりも賤視感によって排除されていた。その理由を身分のちがいにしていたのである。


明治維新により江戸幕府が崩壊し,政治体制が改編されていく中で,「四民平等」により身分制度が改められ「解放令」により賤民制度も含めて消滅した。ここで「解放令」の意義を通して「解放令」前後の社会的変化をまとめておきたい。

江戸時代の被差別民に対する差別が幕府や藩の出す法律によって定められた法制的制度的差別であったのに対し「解放令」によって合法的な差別ができなくなった。
すなわち,差別の法的根拠がなくなった。
差別の形態から考えた場合,「解放令」以降の部落差別は,法制的・制度的な差別ではなく慣習的な差別,すなわち社会的差別である。

「社会外の存在」として<排除>されてきた被差別民が,「平民」身分に編入されることで,「社会内の存在」として平民と同様の権利が国家(法)により認められた。すなわち,今まで村などの共同体社会から<制限され,排除されてきたこと>への参加(参入)ができるようになった。

「解放令」によって,封建社会と近代社会が区分される結果となった。
すなわち,法的根拠によって身分差別が強制され,固定化された身分にはそれ固有の役負担が結びついていた封建社会が終わった(解体した)のが「解放令」の発布によってである。権利でもあった役負担と結びついていた皮革業などの職業がだれでも自由に従事できるようになった。被差別民は賤業を拒否するようになり,逆に商業資本は皮革業に進出した。

「解放令」は制度上の変化でしかないが,その変化を受けとめた人々の意識が新たな歴史を生み出していったのである。端的に述べるならば,明治政府も人間の集合体であり,その政策は個々人の「意志」の集約によってなされたものである。つまり政府の役人であれ,資本家,地主,隣村の百姓,町民であれ,同じくその時代に生きた人間である以上,その時代を支配している社会通念,社会慣習,社会規範の影響下にあった。それゆえ,江戸時代の身分制度によって植え付けられた「差別意識」を払拭していない人々が「解放令」以後の状況という「歴史」を生み出したのである。
差別を当然と考え,今まで「排除すること」を当たり前としてきた人々にとって,「社会外の存在」としか思わなかった被差別民が「解放令」を契機として,自分たちの社会に入ってくることは恐怖と嫌悪しかなかった実態と,「解放令」を自らの「身分(立場・状況)からの解放」ととらえて実際に行動にうつした被差別民との間の確執が,資本主義が発展していく社会状況において,今日の部落差別の温床を形成したのである。

すなわち,江戸時代において被差別身分固有の仕事であり,特権的な権利として保障されていた「死牛馬処理」に付随する皮革業,さらに雪駄草履の製作などの産業は決して安定した収入ではなかった。しかも「解放令」によって職業の自由が認められた結果,資本家によって部落産業が侵食されていった。
(賤業に対する拒否の動きをとった部落も多くあり,そのことが資本家の進出を容易にさせた原因でもあるが)その結果,わずかな農業収入や雑業による収入しか生活の糧を得る手段のなかった多くの部落は窮乏化するしかなかった。

また,江戸時代において権力が中心となって,公然と法的に差別政策をおこない,民衆の「差別意識・賤視観念」を増幅させ,洗脳し教化してきた歴史的経緯を考えれば,「解放令」の一文だけでは,真の対等な社会関係を結べないことは容易に予想できたはずである。にもかかわらず,明治政府は,そうした社会通念あるいは慣習的に差別意識を日常生活化させてきた民衆への教育や啓蒙をおこなわなかった。
このことが,現在も部落差別が残存する最大の要因である。さらには,濃厚に植えつけられた「差別意識」が民衆の中に浸透している以上,差別事件が起こることは予想できたにもかかわらず,差別を受ける側に対する救済措置や人権保障が用意されなかった。ただし,これらは現代の人権思想に基づいた価値観であって,当時にはなかった価値観である。

 明治政府の政策意図にもかかわらず,「解放令」は被差別民に大きな喜びをもたらした。その喜びは,有名な『五万日の日延べ』の前段によく表されており,同様の喜びは各地の史料にも残されている。さらに,「解放令」を契機に,死牛馬処理,皮革製品の製作や売買」といった賤業の返上や拒否を積極的に行っていった。
このことは,江戸時代の身分制度において身分と役目の固定化のために否応無しに従事させられていた仕事や役目からの脱却をどれほど強く希求していたかという被差別民の「思い」の具現化と理解すべきである。また,氏神祭礼への参加など,従来より排斥されてきた共同体の行事に積極的に参加しようとする動き(要求)は,脱賤化と同時に「解放令」の明示した「平民と同様」を周辺に認めさせようとする「思い」の表れであった。

他方で一般民衆は,被差別部落民の積極的な脱賤化の動き,すなわち「平民」と同様の扱いを要求する行動に対して,自分たちの職業を奪い,生活を脅かすと受け取った。つまり,「社会外の存在」と認識していた被差別民の脱賤化の動きは,「社会内」である村社会=共同体への侵入と写ったのである。その結果,彼らの侵入=「平民」と同様の扱いの要求に対して拒絶し,従来どおりの「排除の関係」を守ろうとしたのである。
具体的な例としては,入浴や髪結の拒否,商品販売の拒絶,日雇いや小作の拒否,入会地の利用を拒否などがある。さらには,被差別民の脱賤化による平等を求めた行動は,民衆には「増長している」「傲慢である」としか写らず,「解放令」の布告そのものの取り消しを求める「解放令反対一揆」をおこし,被差別部落を焼き払い,多くの被差別民を殺傷するまでに至っている。

「解放令」反対一揆が起きたのは,一部の民衆が遅れた意識に災いされたのではなく自分たちこそ世の中を支えている百姓だという,みずからの権利を主張する根拠となった意識が,同時に百姓ではない被差別部落を差別して当然とすることにつながったという,当時の多くの民衆の意識のあり方にこそ求められるべきでしょう。

 …そう理解しないかぎり,現代に通じる深刻な結婚差別や就職差別,それを建前としては批判しながら実際にはなくならない,私たちの意識のあり様を厳しく問い直すことはできません。そうした民衆の意識を私たちはどれだけ克服できているのでしょうか。

(渡辺俊雄 『いま,部落史がおもしろい』)


もとの穢多に戻るということは,たとえば,道で農民とすれ違うときに,道をよけて土下座して,通り過ぎるのを待たなければならないんです。…ちょうど武士に対して農民がやらなければならないようなことを,被差別部落の人は農民に対してやらされていたんです。

…いわゆる水のみ百姓であってもそうなんです。あるいは,農民の前では下駄を履いてはならない,あるいは雨でも傘をさしてはならない。…草履を脱いで家の中に入るんです。

…そういうことを明治の四年までやらされていたわけです。しかし,賤民廃止令(解放令)以降,みんなそれをやめました。道であったらぺこりとおじぎをして,立ったままあいさつして通り過ぎるわけです。…「わしは水のみ百姓だけども,あいつとは違う。あれは穢多じゃ。見てみろ。道で会ったら,あいつらは土下座をしてわしの通るのをよけてくれる」と思っていた人たちは,体の血が逆流するような思いです。

(上杉聰 『天皇制と部落差別』)

このような意識が「差別意識」である。部落差別の本質とは,部落や部落出身者を自分たちと同じ仲間と見なさない意識,自分と同じ人間とさえ見なさないから部落出身者を「排除」して当然と思い,さらには殺傷しても「人外」「畜生と同じ」と意識するのである。


1 部落の自覚 … 部落改善運動の胎動

1871年(明治 4) 8月28日
太政官布告第44号(「解放令」)公布

9月15日
岡山藩 「解放令」布告

1872年(明治 5) 1月14日
上房郡中津井村・有漢村で騒動

2月12日
北条県 「解放令」布告

1873年(明治 6) 5月26日
美作騒擾(血税一揆・明六一揆)

1887年(明治20)
修身社創立(和気郡藤野村坂本)

1890年(明治23)
正風社結成(都窪郡子位村)

1896年(明治29)
正心団結成(久米郡福岡村大字出)柳弥助らが中心

1898年(明治31)
青年清進社(川上郡手荘村領家)

1902年(明治35) 8月 7日
備作平民会結成
三好伊平次,岡崎熊吉,三浦哲夫,宰務正視野崎重逸らが岡山市三門の常福寺で結成会を開く。60〜70名が参加。

開盛社結成(上道郡津田村)羽納柏造が中心岡山の解放運動もまた「解放令」を契機に,部落改善運動として始まった。和気郡藤野村坂本では,青年たちが「修身社」を結成し,風俗矯正や村民の気力向上を申し合わせている。都窪郡子位庄村では,「正風社」が結成され,村民多数が「民約書」を作成し,犯罪防止・風俗矯正を警察署長に誓約した。各地で青年層を中心に部落問題の解消を目的とした部落改善組織が結成された。これらの背景には,自由民権運動の影響や帝国憲法下の地方統治政策のもとでの村落編成の反映がみられるが,その根底には「解放令」の実行化=部落解放の願いが強くある。

実に既往に於ける我徒は社会の冷遇と虐待とを憤慨しながら,此冷遇と虐待とに克つべき方法を講ぜざりし也。恰も是れ堤塘の堅からざるを謂はずして洪水の氾濫を論ずるが如きのみ,之れ豈逆境に処するの途ならんや。

故に吾人の期する所は先づ内に我徒同族間の積弊を廓清し,進んで外に社会に対して鬱屈を伸べんとするにあり。即ち県下の同族を打て一丸となし協力同心以て風教を改善し,道義を鼓吹し殖産教育を奨励し斯の如くして自主独立の基礎を鞏め,然る後外に向かって其反省を促し力めて止まずんば吾人の志向ひ難からん哉

(「備作平民会設立之趣旨」三好伊平次)


2 部落の闘い … 部落改善運動の拡がり

1903年(明治36) 7月
備作平民会第2回総会

1904年(明治37) 4月 3日
岡山いろは倶楽部結成 鷲見導教,森近連平が中心

1905年(明治38)
松崎矯風会(御津郡横井村大字富原字松崎)

1906年(明治39) 1月
長田治太郎が官公吏採用差別撤廃を求めて人権伸長の請願書を議会に提出

白眼会(上道郡財田村神下)

1907年(明治40)
内務省,全国の部落の状態を調査

1909年(明治42) 4月
「美作廓清会趣意書」を宰務正視が中心で作成

1910年(明治43) 3月
不休会(和気郡伊里村大字穂浪)

1912年(明治45)11月
内務省 細民部落改善協議会

1914年(大正 3) 3月
岡山青年同志会創立 三好伊平次,岡崎熊吉が中心

6月 7日
帝国公道会創立総会(東京商工会議所)

7月
邑久郡福岡村で軍隊宿舎での差別に抗議する。

1915年(大正 4)10月25日
岡山県同志会第2回大会(岡山市後楽園鶴鳴館)

1916年(大正 5) 9月 1日
自彊会(上道郡玉井村笹岡東谷)上房郡上竹荘大字有津井の松崎仙左ェ衛門,部落改善講を組織

1917年(大正 6) 5月
内務省「全国細民部落概況」調査

11月
改善会(邑久郡今城村大字福山字下)

1918年(大正 7) 8月 8日
岡山県に米騒動(〜8月22日)部落民衆が各地で多数参加

11月19日
寺迫矯風会(小田郡小田村字寺迫)高月平治郎が中心

1919年(大正 8) 2月23日
帝国公道会,第1回同情融和大会を開催(東京築地本願寺)

11月
済世会(真庭郡勝山町月田)

1920年(大正10) 6月29日
原田理太郎,大原孫三郎,三樹樹三ら部落改善について協議(倉敷市)

7月23日
岡山県部落改善協議会 県当局・大原孫三郎らが出席し,新団体の組織が提案され創立委員10名を選出

8月 5日
岡山県部落改善協議会 岡山県協和会組織を決議

9月19日
岡山県協和会創立総会 会長を大原孫三郎,副会長を三樹樹三・岡崎熊吉,他に原田理太郎

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2010年09月06日

三好伊平次:略歴と活動

明治6年(1873年)岡山県和気郡泉村坂本(現・和気町藤野)の部落で,裕福な地主の三男として生まれた。幼少より漢学などを学び,地元の野吉高等小学校で学ぶが,ひどい差別と侮辱を受けた。
彼の成績がよかったので,受持の教師は他の生徒たちに「エタに首席をとられても恥ずかしく思わないのか」と言うだけでなく,彼に向かって「エタは大便のとき小便が出ないそうだが,お前はどちらが先に出るのか」と,まるで人間とはちがった動物でもあるかのように辱めた。そして,実際の成績がいくらよくても,エタなるが故に首席にも優等生にもなれなかった。彼はこの屈辱をじっと噛みしめながら,脇目もふらず勉強した。

明治25年1月,同じ坂本の村上佐津と結婚する。

明治25年,大阪に出てミッションスクール「泰西学院」に入学して英語を学んだ。ここでも差別や侮辱に遭遇したが,よく耐え,その間に自由民権・人間平等の思想を身につけたのである。(「泰西学院」遊学は脚色の可能性が高い)

明治26年12月,徴兵合格となり姫路歩兵第十連隊に入営する。過酷な訓練に耐えながら,「検閲」を終え,好成績の数名となり上等兵候補者に選抜される。その二ヶ月後,野外演習のときに右足を負傷し病院で八ヶ月の療養生活を送り,明治28年に傷痍による除隊を命じられ郷里に帰った。

明治28年に帰郷した三好は「修身社」(明治20年に創立された青年団)の活動に参加し,やがてその社長として活躍するかたわら村の区長として,この不当な部落差別をなくしたいとの念願から,風俗と生活の改善,地位の向上取り組んでいった。
この頃,三好はすでに社会主義思想の影響を強く受けており,片山潜・幸徳秋水らの社会民主党に加盟し活動していた。次いで,備前・備中・美作など県下の同志に呼びかけて,明治35年(1902年)8月に岡山市外石井村の常福寺に,県下の部落代表52名を結集して「備作平民会」の創立大会を開催した。三好は,岡崎熊吉とともに総務として,この運動を全県下に拡げた。全国に先駆けて結成された部落民が自らの力で差別を摘廃しようとした全県的組織であった。

明治36年(1903年)7月には,全国各地の同志400名を結集し,大阪市土佐堀青年会館での「大日本同胞融和会」を結成し,自らも幹事に就任して全国的な運動に積極的に乗り出していった。
また当時,大阪朝日・山陽・中国・岡山などの各新聞紙に寄稿して,不合理な部落差別の撤廃について世に訴える文筆活動を展開していった。しかし当時の状況は,社会の理解もなお十分ではなく,部落内にあっても自覚的な活動家の層も薄く,また会の活動目標も具体性に欠け,講演・文筆活動が中心であったため,広汎な人々を結集する要素が乏しかった。そのため,その後の備作平民会の活動は順調な発展が見られず,時勢も日露戦争が開戦されたこともあって社会運動の抑圧も強まり,同会は数年で頓挫してしまった。

この頃のことを後年,三好は次のように語っている。

…老生がこの運動に携わった動機は,他の同志の方々と同様,已むに已まれぬ内心の憤懣から,25歳の青年時代に出発して,81歳の今日まで脇目もふらず一業一貫主義を押し通してきた。何分最初は60年前の混沌時代,草分け時代のことで,一般にこの問題についての関心が少なく,私たちと行動を共にせねばならぬ筈の部落の人びとからは,余計なお世話だといって嫌がられ,親族知友からは家業を捨てては家がつぶれると忠告され,世間一般からは分を越えた要求だと罵られ,警察方面からは危険思想の持主としてたえず尾行せられるという有様,それでも屈せずに「備作平民会」「岡山青年同志会」「大日本同胞融和会」「岡山県協和会」など,次から次へと民間団体を設立し,同志の糾合と運動の継続とに全力を傾注したのでした。

(三好伊平次『部落』第45号 昭和33年8月)

すでに社会主義思想に共鳴していた三好は,「大日本同胞融和会」結成に際して,堺利彦が「万朝報」で,田岡嶺雲が「中国民報」で,それぞれ激励文を発表したことなどを通して社会主義者との接触を始め,また当時,岡山初の社会主義者の組織「岡山いろは倶楽部」の結成準備を進めていた森近連平とも知り合うなど,急速に社会主義に傾倒していった。

明治39年3月,三好は,堺利彦・西川光二郎ら119名と共に再び「日本社会党」を結成して,正式にそのメンバーとなった。しかし,翌40年2月に同党が解散させられ,さらに同43年の大逆事件によって運動が閉塞させられたことや,部落解放運動の拠り所を日本社会党に求めた意図が党員になかなか理解されないこともあって,三好は脱党し,これ以後は社会主義運動との関係を断ち,再び部落内部の自覚と改善運動に力を注ぐことになった。

大正3年(1914年)3月,三好は岡崎熊吉等らかつての備作平民会のメンバーを再結集し「岡山県青年同志会」を結成した。同10月29日に岡山市後楽園の鶴鳴館を会場に開催された創立総会には県下各郡代表者700名が参加し,会則並びに三好ら8名の役員を決定した。
翌大正4年10月,同所で開かれた第2回総会では,組織の一部を変更して総務を設置し,岡崎熊吉・原田理太郎と共に三好も選出された。会名も「岡山県同志会」と改めた。しかしその後,同会の活動も停滞していき,大正6年(1917年)には,上道・赤磐・御津・和気の四郡を基盤に「岡山県聨合改善会」(総長 岡崎熊吉)として再組織された。

大正7年(1918年)7月,全国規模で起こった米騒動の影響は国内外の労働運動や農民運動に対して大きく,その運動を更に発展させる契機となった。特に米騒動に部落民衆が多く参加し,その中心となって動いたことは驚いた政府は,それまでの部落改善対策から融和政策へと方針を転換した。岡山県では,同年8月,岡山県社会事業協会が設立され,事務所を県庁においた。
翌年(大正8年)には県内総部に社会課が新設され,同年6月に県と地方有力者と部落の有力者代表の三者による部落改善の協議が行われ,7月の有志会による協議を受けて,8月には全国に先駆けた官民合同の融和促進機関として「岡山県協和会」の名称による新団体の創立を決定した。

三好は発起委員に名を連ね,大正9年(1920年)9月に岡山市の県物産館で開かれた「岡山県協和会」創立総会では経過報告をおこない,世話役に就任している。
さらに大正10年には,内務省の社会課勤務となり,部落問題担当主事として各種の調査・研究・対策などの業務に携わり,厚生省の新設後は同省において融和事業の推進に専念した。

大正14年9月,官民合同で結成した「中央融和事業協会」の参事として事業部を担当し,部落問題に関する各種の資料の出版,中央や地方の講習会の開催,地方融和団体の活動促進に尽くし,特に「部落問題の国策確立」や「融和事業完成十ヶ年計画」の樹立について,その具体的方策の立案と実施について全力を傾けた。

昭和10年に,中央融和事業協会の常務理事,同16年には,戦時翼賛体制として「同和奉公会」に改組後も引き続き同会の理事として最後まで頑張り抜いた。

戦後,昭和21年2月に「部落解放全国委員会」が組織され,戦前の水平社と融和団体の有志が一体となって活動を再開するや,三好はその中央本部の顧問を委嘱された。

【参考・引用文献】

『岡山県部落解放運動六十年史』(岡山県部落解放連合会)『同和問題の歴史的研究』(木村京太郎による解題)などをもとに略歴をまとめたが,『三好伊平次の思想的研究』(岩間一雄編)に所載された「三好伊平次小伝」(明楽誠)がより詳細にまとめてある。これらを参考に後日,三好伊平次に関して論及したいと思っている。

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