2012年02月04日

明六一揆論(8):詫書

部落が農民に対して出した「詫書」(詫状)には何が書かれていたのだろうか。

『備前・備中・美作百姓一揆史料』(第5巻)所収「初屋文書」より「差入申御詫書」を転載し,内容を考察してみる。

       差入申御詫書

私共儀,従来穢多之称ニ而御平民様と格別之隔別有之,御本村様御規定御座候処,御一新ニ付而は難有御趣意ヲ以て,御天朝様ヨリ平民同様被為仰出,古来稀成趣意之程奉戴,格別相慎ミ可申之処,却而心得違ノ廉ニ奉恐入先非後悔罷在候,然ル上は土居内一同相慎ミ,向後従前之通礼譲相守,急度相勤可申候,尚御本村は不及申他村ニ至ル迄,御門内ニおいて履物等仕間敷候,且途中ニ而御出合申候節は,従前之通履物ヲ取,厚ク礼譲ヲ尽可申候間,是迄心得違之段平ニ御免被成下度,偏ニ御詫奉申上候,依之一同連印御詫一礼奉差上候処如件

明治六年五月廿九日
                  勝加茂東村  元穢多  籾吉
                                外廿名
御百姓衆中 様

次の「詫書」は錦織村が差し出したものである。

(前欠カ)

村方へハ御沙汰無之ニ付,銘々一同恐レ罷在共,何卒御違乱之思召ニ候ハヽ,今後御気ニ叶候段順可仕候,尚亦召連之思召ニ候得共,猶更違背仕間敷候間,御焼亡之義偏ニ御容怒被成下度,一村一同臥而御詫申上候,以上

明治六年 酉五月廿八日
                    第廿六区
                    久米北条郡大久保村
                    惣代
                    勘次郎以下 九十三名
各村々
御一統衆中 様    

先日訪ねた「中津井騒擾・美作騒擾」パネル展で公開されていた「詫状」がある。
これは,かつて私が拝見した原文を現代語訳したものであると思う。出典が明記されていなかったので,私も明らかにはできないが,原文の文字には一揆勢に対する恐怖と無念の思い,屈辱が滲み出ていた。

     あやまり一札の事

                 我々義
従前よりは別けて あい慎み無礼等
仕りまじく なおこの上はいかようにも
あやまりいりそうろう間 このたびおたすけ
お願い申し上げたてまつり 後日のため土井内連印
あやまり一札差し出す所 よってくだんのごとし

                 □□□之内
                      □□
明治六年五月廿九日
                  誤主(謝主)
                    十四名
                    以上連印
御旦那中様

一揆勢に襲撃された部落のほとんどが「詫書」を書いて,解放令以後の非礼・増長を詫び,「旧慣」を守って従前通りの身分(の扱い)でかまわないと誓約している。

posted by 藤田孝志 at 12:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 明六一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

明六一揆論(7):小林久米蔵(3)

久米蔵が捕らえた津川原村の村民の名前を行重村の山口徳蔵に書き留めさせた理由を,上杉聰氏は下津川村の副戸長豊田貢の目撃証言から,次のように推察する。

当時八歳の豊田貢は,そのときの様子を,のちに次のように書いた。

「暴徒は津川原に到達すると,夕刻火を一時に放ち,元穢多百余戸を全焼させた。煙と炎は天を埋め尽くし,数里四方をあかあかと照らしだした。元穢多はうしろの山へ非難したが,これを探知した暴徒たちは,山を二重,三重に包囲した。夜が明けるのを待ち銃殺(銃殺は前日のことである)し,捕縛するのが見えた。縛った者は,これを河原に引きだした。縛られた者のうち,日頃おとなしく,言語や動作がすべて穢多のならわしを守っている者へは,頭髪に紙片を結びつけ,それを目印にして解放した。その他は,すべてその場で惨殺した」(履歴書草稿)

ここで注目されるのは,“良い部落民”には頭に白い紙を結びつけ,解放したことである。これをしなければ,ふたたび農民が捕らえて河原に連れてくるかもしれない。繁雑さを避けるため,一目でわかる印をつけたのである。
山口徳蔵が名前をいちいち記録したのも,おそらく,誰を釈放したか,確認するためであったのだろう。

上杉聡『部落を襲った一揆』

「首実検」「人物改め」である。一揆勢は「詫書」(詫び状)を書けば許してもきた。同様に,津川原村の人々を河原に引き立て,「増長」「傲慢」な者とそうでない者を選別し始めたのである。

原文には「平素温順にして,言語動作の凡て穢多の旧慣を守りし者」とある。つまり,選別の基準は,一般村民に対する「不遜」「増長」「傲慢」な言動を(「近村を軽蔑)しているかどうか,「元身分(の態度)を守って」いるかどうかであった。

その数が30人名ばかりになった頃,宰務喜一郎が捕まり,引き立てられてきた。


宰務喜一郎ならびに同人男龍太郎を縛し連れ越し,ただちに殺すべき勢ひにつき,右両人は,兼ねて近村を軽蔑致し候者にて,幸ひと存じ,凶徒共に向かひ,この者どもは平常,所業宜しからざる者につき,殺害に及ぶべき旨相呼ばはり,指揮に及び候ところ,もとより殺すべき勢ひの党民ども,一時に人気相たち,すぐさま両人とも川原の方へ連行候間,自分同所に居合はせては知る人も多分これ有り,後難を差し量り,その場を立ち退き,暫時致し同所へまかり越し候処,もはや両人はもちろん,その他六,七人河原において追々殺され居り候につき,残る婦女子は助命致し遣はし候様,党民どもに申し聞かせ置き帰宅致し,


宰務喜一郎とその長男龍太郎が縛られて連れて来られ,すぐにも殺しそうな勢いであったので,この二人はかねて近村の者を軽蔑してきた者なので,これ幸いと思い,この者たちは平生の言動が良くない者なので殺すべきだと叫び,(殺せ)と命令しました。もとより殺す勢いの一揆勢ですので,一時に気勢が上がり,すぐさま二人を河原に連れて行きました。
自分が(殺害)現場に居合わせたら,(自分のことを)知っている人も多分にあるはずなので,後で厄介なことにならないようにと考えて,その場を立ち退き,しばらくしてから現場へ戻ってみますと,すでに二人はもちろん,その他6,7人が河原で次々に殺されていましたので,残りの婦女子は助けてやれと,一揆勢に言い聞かせておいて帰宅しました。

当時,宰務喜一郎は40歳,隆太郎は22歳であった。河原には,すでに杉原長蔵(63歳)や朝日八郎(31歳)などが縛られて土下座させられていた。

津川原村の長である宰務一族は,久米蔵にとっては最も「心憎い」相手であった。それは,平生から「近村を軽蔑致し候者」だからであり,宰務一族に対して日頃より許し難い怒りを感じていたのである。積もり積もった「鬱憤」を晴らすときと思った久米蔵は,躊躇なく「殺害」を命じた。

なぜ,久米蔵は「軽蔑された」と感じていたのだろうか。

上杉氏は前掲書で,次のように考察している。

部落の人々が「傲慢になったこと」,否,あたりまえの人間の振る舞いをしたことを,彼は「被害者感覚」でのべているのだった。
たしかに,農民たちにとってみれば,これまで被差別部落の側が農民をはばかり,へりくだることで,「御百姓」としての「誇り」を与えられてきた。ということは,部落の側がそうすることがなくなれば,「誇り」も奪われることになる。それはとりもなおさず,いたく「軽蔑される」感覚を生じさせた。
加えて,相手がそれまで人間とさえ見なされなかった者であれば,傷つけられる度合いは,より深刻となる。

一揆勢においても,津川原村のすべての者は知らなくても,村の長である「宰務喜一郎とその長男龍太郎」の顔は知れ渡っていたと考えてもよいだろう。それだけ「宰務一族」は美作でも大富豪であった。宰務家は屋号を「根床」と称し,村の長をつとめてきた家柄であった。

解放令以後,津川原村の人々は「旧慣」を守らなくなる。道で会っても履物を脱ぎ土下座して挨拶することはしない。下駄や傘も平気で使うようになる。

そうなると逆に目に付いてくるのが,津川原村と妙原村の財力の差である。妙原村の主産業は農業であり,それほどに広い田畑を耕作しているわけでもなく,経済的には苦しい農民が多い寒村ある。
それに比べて,津川原村は加茂川を使って薪炭その他の物資を運送する船便の要衝であり,舟運は賤業の一種でもあり,被差別民である津川原村の専業になっていた。舟運による収益に支えられて津川原村の財力は蓄積され,その財力で田畑を手に入れていったと考えられる。さらに幕末から明治になり,商品流通が活発化するにつれてすます運送業の需要は高まり,その収益は増大していく。そして,その利益は津川原村の長である宰務一族が独占し,その財力から美作全域に知られる富裕な資産家となったのである。
また,その財力を活用して高利貸しや地主を行っていた。伝え聞いたことであり確証はないが,近在の一般村民に対しても金や小作地を貸していたともいう。

その富裕な財力で,この時に一緒に殺害された武士出身の「朝日八郎」を手習師匠として雇っている。上杉氏の前掲書には,隣村(津山とも)まで他人の土地を踏まないで行けたとか,小作の届ける米俵が山となったとか,人力車とお抱えの車夫を持つ正視はいつもしれで外出して車上より農民を見下ろして意趣返しをしたとか,財力の豊富さを語る逸話が紹介されている。

宰務家の土塀の上に据えられた「黒塗りの砲身二門」を見た一揆勢が本物の「大砲」と思い,躊躇した理由も,津川原村の財力を知っていたからであろう。(実際は,肥担桶に紙を貼って黒く塗ったものである)

他方,久米蔵たち一揆勢の生業は農業であり,所持する田畑の石高も決して多くない。むしろ美作の地形からも山間の田畑であり,貧しい寒村の百姓がほとんどである。処罰としての「罰金」(二円二十五銭)さえ払えず,借用しなければならなかった貧しい農民が多かったという。


江戸時代,解放令が出されるまでは,収益が多くとも賤業を行う「穢多」であり,身分や社会的位置(社会外の存在)がちがっているため,財力を妬ましいと思うことはあっても「穢多になりたい」とも「賤業をしたい」とも思うことはなかった。彼らを見下し蔑むことは当然の権利であった。彼ら部落民が自分たち百姓に対して礼儀を尽くすことは彼らが守るべき「慣習」(幕府や藩からのお触れ)であった。
しかし,解放令により「身分・職業とも平民同様」となったことで,「外の社会」の存在であった者が「(同じ)内の社会」に入ってくる。同じ振る舞いをする。「慣習」は守らなくなる。

財力の差が「屈辱」として実感させられることになる。
劣等感(コンプレックス)は「被害者意識」に結びつく。従前とは異なる言動は「増長」「傲慢」と感じられ,自分の惨めさを思い知らされ,さらに「被害者意識」は倍加して,抑えがたい「憤怒」となって鬱積していった。

津川原村の豊かさに比べて妙原村の貧しさ,「財力の差」はそれだけで自分が「軽蔑されている」気持ちになっていったことは容易に想像できる。


久米蔵は「指揮」はしたが,処刑の場にはいなかったと再三繰り返している。殺害に関与すれば「後難を差し量り」と思ったからだというが,なんとも勝手な人間である。

残る「婦女子」は助けてやったという。久米蔵の高慢さ,津川原村の部落民に対する意識が伺える供述である。


殺害の状況について他の者の供述書も詳しくはない。久米蔵の「指揮」を合図に誰彼なく一斉に殺害に及んだと考えるべきであろう。

『美作騒擾記』によれば「最初に半之亟(喜一郎)を牽出し,これを水留(溜)の中に突落し,悲鳴を挙ぐるを容赦なく,鑓にて芋刺に串貫き,且つ,石を投げ付けてこれを殺したり」「夫より順次に同一方法を用ひて五人を殺し」たとある。

『岡山県史料』にある「北条県臨時裁判所調書」によれば,喜一郎は「疵六ヶ所」,隆太郎は「疵九ヶ所」,喜一郎の次男喜平(16歳)は「疵四ヶ所」,朝日八郎は「疵総身に数ヶ所,創痕詳に記難し」とあり,別には「五体実に蜂の巣の如くなりし」とも伝えられている。

翌三十日に至り,前書指揮に及び候末,その場の人気とは申しながら,ついに惨殺相成り候儀を,何となく底気味悪しく候より,後難をのがるべしと存じ,津川原村,昨日打ち洩らされし者ども,なおも討ち取るべしとの風聞これあるを幸ひに,助命の儀取り扱ひ遺すべき旨,前書光五郎へ申し聞かせ,従前の身分を相守り候趣の村々宛証書へ,右村総代として,光五郎に調印致させ取りおき,副戸長鈴木春太郎手許へ預けおき候。右始末は,すべて自分一己に取り計り候儀にて,いささかも関係の者と相謀り候儀にはない候事。


翌30日,(先に書いた)指揮によって,その場の雰囲気とはいえ,ついには人を惨殺してしまったことを,何となく底気味悪く思われ,後難を逃れようと考えました。津川原村の昨日殺されなかった者をなおも殺せという噂が聞こえるのを幸いに,(彼らの)命を救う段取りをするため,先に出てきた光五郎に,従前(通り)の身分を守るという村々宛の証書を書かせ調印させ,それを副戸長の鈴木春太郎の手許に預けて置きました。右(今回の)始末は,すべて自分一人が計画して行ったことで,少しも関係者と共謀したものではありません。

翌日,自分の指揮により惨殺させたという「何となく底気味悪しく候」という気持ちがあったのだろうが,再び河原に行き,昨日殺さなかった者をなお殺してしまおうという雰囲気が一揆勢にあると知り,残りの者の「助命」をしてやろうと考えたと久米蔵は述べている。
そして,津川原村の光五郎に村々宛の「詫書」を書かせ調印させている。

多くの者の殺害を命じていながら,その惨殺死体がそこにあり,津川原村の人々が仲間の死を悲しみながらも我が身も殺されるかもしれぬ恐怖を感じて平伏している姿を見下ろして,なお久米蔵は「詫書」を書かせている。

助けてやったという思い,顔役としてのプライド,ついに詫びさせたという思い,はたして彼の心はどうであったのか。自分の「指揮」で殺害してしまったことを「何となく底気味悪しく候」とは思っても,自分の行動に対する反省はなかったのではないだろうか。津川原村の人々の思いなど,彼には最後まで届くことはなかったのではないだろうか。

従前通りの「旧慣」を守らせる「詫書」を書かせたこと,これが彼の「目的」であったのである。旧来の秩序を回復することが彼の,そして一揆勢の「大義名分」だったのである。


小林久米蔵は,筆保卯太郎らとともに,明治7年2月2日津山伏見町にあった監獄内において処刑された。享年52歳である。
なお,上杉氏の前掲書には処刑地を「兼田橋近くの八出河原」とあるが,好並先生の調査では「懲役百日以下の者を一日を一笞杖に換算して尻を鞭ったのが宮川大橋西詰であり,その地点が八出に近い所からこうした伝承が生まれた」とあるように誤認である。また,処刑の月日も上杉氏は「翌7年7月2日」と書いている。なお,好並先生の調査した「西法寺の過去帳」によれば7月2日没であり,53歳である。

処刑者の屍は戸板に載せられて街道を運ばれたと伝えられている。
津川原村の前を,村人に担がれた戸板に載った斬首された死体が加茂谷に帰って行く。その様子を津川原の人々はどんな思いで見つめていたことだろうか。

宰務正視も幼い目に,その情景を母親とともに見つめていたことだろう。

私は正視の建立した碑文を読むたび,この情景を眺めたであろう彼の心情を思う。私が明六一揆をライフワークにした理由もそこにある。差別は人間の心を残酷にする。決して癒されることのない傷を残す。

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2012年01月31日

明六一揆論(6):小林久米蔵(2)

失意のうちに帰宅していた久米蔵の胸中はいかなるものだっただろうか。顔役としてのプライドを深く傷つけられ,時代の変化を身にしみて感じていたことだろう。

だが,久米蔵の心を引き戻すことがおきる。鈴木良太郎が一揆勢のもとから帰ってきたのだ。そして,久米蔵に,一揆勢の増大と事態の深刻さを告げる。

鈴木良太郎儀,随行先よりまかり帰り,押し寄候党民共,津川原村より詫書差し出さず候はば,たちまち押し入り候趣につき,互ひに村役人に替はり説諭に参るべく様申談これある間,先に申し入れ候儀は自分一己のはからいにつき,尚また,鈴木良太郎・香山哲治郎同道まかり越し,同村杉原重平・山本孫十郎ならび死亡杉原長蔵に面会,詫書差し入れの儀,引き合ひ及び候へども,前書光五郎・森太郎より相答へ候通り承服致さず候間,心憎く存じ,隣村下津川原村に屯集の党民共へ対し,従前身分を相守り候様の書き付け差し出し難き旨,強情に申し張り候に付き,この上は勝手次第に乱入致す可しと相喚はり,煽動致し置き,自宅取り片付け方に立ち帰り候


鈴木良太郎が一揆勢のところから戻ってきて,一揆側の態度が津川原村から詫書を差し出さなければ直ちに押し込む様子だから,村役人に替わって説得に行こうと求めるので,先ほどの申し入れは自分の一存であったから,今度は鈴木良太郎・香山哲治郎と一緒に行きました。津川村の杉村重平・山本孫十郎・死んだ杉原長蔵に会いました。そこで,詫書差し入れの件を持ち出しましたが,(前書の)光五郎・森太郎が答えた通り,承服できませんというので,心憎く思い,下津川原村に集まっている一揆勢に対して,従来の身分を守るという証書を差し出すのは難しいと強情に言い張るから,こうなった以上は勝手に乱入しろと叫び,煽動しておいて,自分の家の片付けに帰りました。

鈴木良太郎は,「詫書」を出さなければ,津川原村に直ちに押し込むという一揆勢の様子を久米蔵に伝え,村役人に代わって説得に行くことを求める。久米蔵は,先ほどの申し入れは自分の一存だから,もう一度説得しようと,鈴木良太郎と香山哲治郎を伴って津川原村に行く。津川原村も人を代えて杉村重平・山本孫十郎・杉原長蔵が対応する。

再度,久米蔵は「詫書」を差し入れるよう説得するが,前回同様に拒絶される。

このことを久米蔵は「心憎く」思い,斡旋の余地もないと腹を立て,一揆勢に対して「勝手次第に乱入致す可し」と「煽動」する。そして,自分の家に片付けに帰る。類焼や巻き添えにならないための片付けと思われる。

自分勝手な言い分だが,久米蔵が津川原村の人々をどう見ているかを考えれば,当時の身分意識がわかる。久米蔵は,自分よりも「下」に見ているだけではなく,「焼き討ち」「襲撃」を「煽動」さえしていることからも,隣村でありながらも自分たちとは「異なる」という意識が強い。

久米蔵が「心憎い」と思ったのは,せっかく助けてやろうと思ったのに,二度までも強情に断ったことへの怒りと自分の面子をつぶされたからである。「もうどうなってもしらないぞ」という気持ちからの「煽動」であった。

跡にて,凶徒共猶予なく乱入,人家所々へ火を放ち,ついに村内残らず焼燬に至り候。付ては,前もってしばしば説諭に及び候儀を聞き入れず候より右次第に立ち至り,かつは,自分とり計らひも相貫かず,かたがた憤懣まかりあり候
翌二十九日,右村方の者,近傍山谷に潜匿致しおる者どもを捕縛し,加茂川原へ引き出し,殺害に及ぶ形勢にて,党民ども頗る奔走まかりある趣き承り候より,兼ねて悪ましき者共を,殺すべき期に望み候はば,自分指揮に及び,鬱憤を晴らす可きと存じつき,右加茂川河岸火葬場へ出向き候


その後,一揆勢は直ちに乱入して,あちこちに火を放ったので,隣村は全部焼かれてしまいました。(自分は)前もって説諭してきたが,聞いてもらえず,このような事態に至った。自分の努力が無駄となり,憤懣が強くありました。
翌29日,村の者(一揆勢)は近くの山や谷に身を潜めている(津川原村の)者を捕まえて縛り上げ,加茂河原に引き出して,殺そうという勢いで走り回っているという様子が聞こえてきたので,以前から腹立たしく思っていた(津川原村の)者を殺す時期に際して,自分が指揮をして鬱憤を晴らすことができると考えて,加茂川河岸にある火葬場に出かけました。

久米蔵の一言が引き金となり,一揆勢は怒濤のように津川原村に襲いかかった。暴徒と化した一揆勢はより過激な行動へと向かう。「奴は敵である。敵は殺せ」という戦争の論理があらゆる残虐な行為でさえも正当化する。

久米蔵は,燃えさかる津川原村をどのような気持ちで眺めていただろうか。
「自分とり計らひも相貫かず,かたがた憤懣まかりあり候」という自白は,彼の正直な気持ちであったと思う。彼もまた一揆勢と同じく部落民への「鬱憤」があった。それは,「兼ねて悪ましき者共」という言葉に表されている。解放令以後の津川原村の「増長」が,彼には許せなかったのである。
そして,彼は「兼ねて悪ましき者共」を殺すことができる機会が来たと思い,自らが「指揮」をしようと河原まで出かけていく。

隣村であり,自分たちの村に従属する枝村である津川原村の人々,顔見知りの者の殺害を指揮するとは,どのような心情だろうか。

旧穢多婦女子七,八名引き据えこれあり,自分目的に致し候者どもは居り合はさざるにより,護送致し候党民どもに対し,この場の進退は自分に相任すべきよう,呼ばはり候ところ,右人名を記し請け取るべき旨,相答え候につき,傍らに居り合はせ候,行重村山口徳蔵へ申しつけ,記させ居るうち,およそ参拾名ばかり相成り候末,


部落民の女子たちが引き据えられていましたが,自分が目当てにしていた者はいなかったので,護送していた一揆の者たちに対して,この場の処置は自分に任せよと(大声で)呼びかけました。すると,一揆勢は,(捕らえた者たちの)名前を記入せよと言いますので,居合わせた行重村の山口徳蔵に申し付けて記入させていると,およそ30名ばかりになりました。

現場に着いた久米蔵の目に,捕まって引き据えられてきた津川原村の女子たちは見えたが,自分が殺したいと思う者はいない。
久米蔵は,顔役である自分に「この場の処置」を任せよと言う。

一揆勢は,捕まえた者の名前を明らかにするよう求め,久米蔵は「行重村山口徳蔵」に記入させた。
行重村は加茂谷にあるため,津川原村の者たちを見知っていたと考えられる。また,久米蔵が見分して確認したことを書き記したとも考えられる。(
地図を参照)

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2012年01月10日

明六一揆論(5):小林久米蔵(1)

津川原村の本村にあたる妙原村の「顔役」小林久米蔵は,明六一揆の「津川原村襲撃」に関わるkey personである。

「北条臨時裁判所調」に記載されている「小林久米蔵」の自供書について,その読み下しと現代語訳を試みながら,検証と考察を行ってみたい。


あらためて幾度か彼の自供書を読み返し,関連資料を参照しながら,いくつかの疑問点が浮かんできた。

なぜ,彼あるいは本村である妙原村の人間が直接に手を下さなかったのか。
実際は殺害に手を出しているのかもしれないが,裁判記録では「煽動者」「指示者」「造意者」という理由で小林久米蔵と鈴木七郎治が斬罪となっている外に,妙原村の人間は処刑されていない。

ここで,彼ら以外の斬罪に処せられた者を列挙してみる。

川田嘉平治・宇治貞蔵(東北条郡宇野村),高橋弁蔵(東北条郡公郷村)
芦谷島五郎(東北条郡物見村),芦田島吉(勝北郡新野西村)
内田数平(勝北郡新野山形村),内田豊蔵(勝北郡成安村)
水島寅平・大谷類次郎・小島伴次郎・井上良蔵・芦田林平
                               (勝北郡広戸村)
筆保卯太郎(西々条郡貞永寺村)

筆保卯太郎を除く13名が津川原村襲撃(惨殺)の罪に問われている。彼らの村は津川原村の周辺に位置しており,宇野村・公郷村・物見村・成安村は旧加茂町内(現津山市),広戸村・新野西村・新野山形村は旧勝北町内(現津山市)にある。これらの村は津川原村の周囲(谷を挟んだ位置)にあり,距離的にもさほど遠くない。

「明六一揆」経路図(上杉聡『明治維新と賤民廃止令』より転載)

それゆえ,津川原村の人間をまったく見知らぬとは思えない。成安村や公郷村など旧加茂町内にある村々が津山に出る場合は,必ず加茂川側の一本道を往来する以上,津川原村の前を通ることになる。
また,勝北郡に通じる道も川沿いに津川原につながっている以上,広戸村の住民と面識が全くないとも思えない。

久米蔵の供述に従えば,枝村である津川原村を助けてやろうという気持ちが裏切られ,調停役としての面子(プライド)が大きく傷つき,今まで腹に据えかねて蓄積されていた鬱憤と結びつき,ついに憤懣が一気に吹き出しての残虐行為というのであれば,彼が直接に手を下してもおかしくはない。
あるいは,「顔役」としてのプライドから「指揮者」になりたかったのか。

「詫書」と「殺戮」とのギャップの大きさにも疑問を感じている。抵抗する村,反抗的な村に対する容赦のない残酷性はどこ(何)から生まれた感情なのだろうか。


自分儀,壮年の頃相撲を好み,他村の者共と広く相交はり候,村内に縺れ事など出来候節は,すべて談を受け,取り扱ひ致し居り候,当五月二十七日,趣意は相わきまえず候へども,加茂村あたりにて,百姓一揆おこり,追々近村を脅誘致し候,右随行の儀,村内者どもより相談これ有り候に付き,党民ども,押し寄せ来たり候はば,やむを得ず随行致すべし,左なきうちは,是より踏み出し候儀は宜しからざる旨,相示し置き候,


自分は若い頃,相撲が好きで,他村の者とも広く交際していた。そのせいで,何か「縺れ事」(揉め事)があれば,すべて相談を受けて,自分が取り仕切っていました。ところが,5月27日,理由はよくわかりませんが,加茂村で百姓一揆が起こり,近村に対して順々に脅かして(参加を)呼びかけてきていました。(ということで)村内の者からどうすればよいか相談を受けました。それで,徒党を組んだ農民たちが参加しろと強制されて断り切れない場合は,止むなくついて行くしかないだろう。そうなるまでは,こちら側から踏み出すようなことは良くないと指示しておきました。

加茂村から津山城に向かうには加茂川沿いに下っていく。その途中に「妙原村」と「津川原村」がある。一揆勢は,途中にある川筋の村々を強引に脅して参加させて勢力を増やしながら下って来る。

この供述から,久米蔵は一揆の理由をよく知ってはおらず,妙原村の村民から相談を受けて,断り切れなければ参加するように指示している。しかも,自分たちからは参加しないようにとまで言っている。
このことから妙原村も久米蔵も当初から積極的に津川原村を襲撃する考えはなかったということになる。

あるいは,久米蔵は止むを得ず強制されて参加しただけだと強調することで罪を軽くしてもらおうと思ったのか。


翌二十八日払暁,果たして凶徒ども多人数近傍に押し寄せ候に付き,拠んどころなく一同随行いたし候へども,自分は罷りいで申さず候,然るところ,隣村津川原村旧穢多ども,従前の身分を相守らせ候上,強訴の先鋒に致さすべく,その儀相拒み候節は,たちまち村内放火乱暴に及び候よしに,伝承いたし候,
付いては,同村の儀は当村副戸長より兼帯致しおり,公私ともに当村の命令に従ひ候,先般穢多号を御廃止の後は,元身分を忘れ,自然不敬の仕向,少なからざる折からにつき,右躰方,今危急の場合を取り扱ひ凌がせ候はば,向後当村を敬し,すべての儀に随従致すべくはもちろん,隣村の儀,類焼の患もなく,かたがた,両全にこれあるべしと,自分一己に存じつき候,津川原村前田光五郎・鳴瀬森太郎へ面会し,
本日,党民共近傍へ押し寄せ候儀は,穢多号を御廃止の後,近村の者へ対し不敬の仕向少なからず候につき,元身分の通り,下駄傘等は村内より外へは相用ひず,かつ,近村の平民へ用向きこれ有る節は,門外より草履を脱ぎ,途中にて出会候時は,頭を地に下げ礼譲正しく致すべく,その証拠として,今般県庁に強訴の先立致すべき旨の証書を差し入れ候はば,危難も相のがるべくやの旨申し聞かせ候


翌28日の明け方,一揆勢が多数押し寄せてきました。それで止むを得ず,一同はついて行きました。しかし,自分は出て行きませんでした。そうしていると,津川原村の部落民を「従前の身分を相守らせ」て,強訴の先頭に立たせる,もし断れば村内に放火して乱暴をしてやるという話になっていることを聞きました。
津川原村のことは,副戸長が兼任で管理しており,公私ともに妙原村の指示に従ってきました。先般の解放令によって賤称を廃止されて以後,元の身分を忘れ自然不敬な態度が少なくない状況なので,何とかこの急場をうまく凌ぐことができれば,今後,津川原村は妙原村を尊敬するようになり,すべてのことについていうことを聞き従うようになるだろう。隣の村でもあるのだから類焼の恐れもなくなるだろう。両方にとってもよいことだと考えて,津川原村の前田光五郎と鳴瀬森太郎に会いに行きました。
今日,一揆勢がこの近くに押し寄せてくるのは,賤称廃止後,(津川原村の者が)近村の者に対して不敬な態度であることが少なくないからで,従来のように,下駄や傘は村外では使わず,近村の平民に用向きがある場合は,門外より草履を脱ぎ,途中で出会ったら頭を地に下げる(土下座する)ように礼儀正しくしなければならない。その証拠として,今回の県庁への強訴には先頭に立つという旨の証書を差し出すならば,危難を逃れることもできると聞かせました。

久米蔵は,「一同」(妙原村の村民たち)は一揆勢に参加していったが,自分は行かなかったと言う。理由は述べていない。

当時の久米蔵の年齢は51歳である。他の処刑者が20代〜30代前半(芦谷は53歳,大谷は42歳)であることから考えても,一時の感情に流されやすい血気盛んな若者とはちがい,ある程度の冷静さはあると思う。村の「顔役」でもある。

このときになり,久米蔵は一揆勢が津川原村を襲うことを知る。
解放令後の「不敬な態度」については自分も「増長している」と日頃から思っていたので,同感の思いがしたことだろう。懲らしめてやりたいという思いは強かった。
それに,一揆勢は従わなければ火を付けると言っているから,自分の村も類焼の被害を受けるかもしれない。そこで,彼は津川原村が要求に従えば,両方にとって好都合だと考え,「顔役」である自分が調停役をしようと思ったと述べている。久米蔵は善意で行動したことを強調している。


ここで整理しておきたい。

久米蔵の不満・憤激は,一般村の百姓も同様に思っている(感じている)ことである。

「元身分を忘れ,自然不敬の仕向」とは,「穢多(身分)」であったことを忘れ,従来は行っていた「礼譲」をしなくなったことであり,それを「不敬な態度」「増長」として不満に思い,憤激しているのだ。
従来の「礼譲」とは,下駄や傘は村外では使わず,近村の平民に用向きがある場合は,門外より草履を脱ぎ,途中で出会ったら頭を地に下げる(土下座する)ように礼儀正しくすることであった。
だが,これは「身分」が「穢多」であったときに,幕府や津山藩から命じられたことであり,身分制度における「ルール」であった。
明治となり,幕府から政府へと支配体制も変わり,政治や社会のシステムも大きく変化している。「解放令」もその同じ変革として命じられた。

しかし,百姓は「解放令」を受け入れてはいない。身分のちがう(異なる)「穢多」から自分たち百姓と同じ「平人」になったことを認めてはいない。認められないのだ。納得ができないのだ。そのため,喜びをもって積極的に受け入れた「部落民」とは,意識・考えが根本的にちがっている。そして,その「認識の相違」が久米蔵や一般村の百姓にはまったく思いも寄らないのだ。

反対に,部落民の行動原理は,理に適っている。
解放令によって「平人」となった以上は,「穢多」のすべきルールや礼儀は守る必要はない。行う必要もない。一般村の百姓と同様のルールで行動すればよい。だから,従前のような礼譲はしなくてもよいと考える。身分や立場が変われば,行動様式も変わる。

長年,差別されてきた思いは強い。屈辱的な仕打ちを受けてきた。理不尽な要求にも従ってきた。決して「同等の扱い」「同じまなざし」で接してはくれなかった。そこには,いつも「ちがい」と「分け隔て」があった。


だからこそ,津川原村の決意は固い。

もとより当村においては,御県庁へ迫り,強訴致し候存意は更にこれ無き間,承服致し難し。しかる上は,乱暴におよばれ候とも致し方なく決心まかり有り候旨,相答へ候,甚だ失望致し立ち帰り候


いうまでもなく当村では,県庁に迫って強訴しようという気持ちは毛頭ありません。そのような(申し入れは)到底承服できません。その結果,乱暴されても仕方がないと覚悟しています,と答えるので,とても失望して帰宅しました。

久米蔵は打ちのめされてしまう。「顔役」としてそれなりの自負心もプライドもあっただろうが,津川原村の決心の一言で,脆く崩れ去ってしまった。そして,彼は深く傷つき帰宅する。

久米蔵は,このときに気づくべきだった。
時代の大きな変化と自分たちが津川原の部落民にしてきた差別と賤視,それらを撥ね除けようと動き出した部落民の決意と覚悟に気づくべきであったのだ。

下部構造の大きな変動を受けて上部構造が変動しようとするとき,新しいイデオロギーを受け入れることができない勢力による反動が起こる。「従前」に固執する勢力は,変革を阻止するための反動として動く。

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2012年01月02日

明六一揆論(4):筆保卯太郎(1)

「明六一揆」の首謀者として処刑された筆保卯太郎,私は彼を首謀者と考えてはいない。彼は,当時の法条県官吏側によって「首謀者」に仕立て上げられたのである。つまり,権力がつくった虚構である。

「明六一揆」において処刑された一揆勢は15名であるが,西々条郡貞永寺村筆保卯太郎と東北条郡宇野村川田喜平次を除いて,すべて津川原惨劇に関わった勝北郡の農民である。筆保は,部落民の殺害にも部落襲撃にも直接には関わっていない。


『現代思想』(vol.27-2)「特集:部落民とは誰か」に所収されている友常勉氏の論文「美作血税一揆と<差別>の語り」より,少し長いが抜粋して引用する。

…明治初頭の刑法である「新律綱領」は,1870年(明治3年12月)に策定され,その修正である「改定律例」は1873年(明治6年5月)に策定され,施行された。「新律綱領」には「凶徒聚衆罪」が盛り込まれているが,「新律綱領」「凶徒聚衆」では@発頭人は斬首刑,A殺人や火付けは絞首刑,B付和雷同者については咎めなし,という内容であったが,1872年に付加された布告では付和雷同者の処罰も定められた。さらに「新律綱領」を改訂した「改定律例」の「凶徒聚衆条例」は,151条から154条までの4条に区分され,罪の軽重は「付和雷同」「脅誘」「ただ助勢したもの」などに参加者の意志によって区分された。首謀者もそれが騒擾に実現しない場合の罪科も定められた。また,騒擾の鎮圧に失敗した「地方官」の処罰も定められた。

…断罪の手続きにあたって,取り調べは罪責追及者(検察・警察)と被罪責追及者(被告人)とが向かいあうだけの糾問主義を取る。そこでは,自白獲得のために拷問を行使することが,取調の真摯さの証明とされる。(筆保卯太郎が「拷問五度」とされていたのは,厳罰さを示すのではなく,こうした手続きにもとづいている。)

…「新律綱領」「改定律例」は,はるかに細分化されている。殺人罪ひとつをとっても「謀殺・故殺・誤殺a・闘殺・誤殺b・戯殺・過失殺」の七類型からなる。こうして分類される心的状態は,「故(意)」と「過(失)」,あるいは「故」と「誤」の対応関係によって規定されている。刑法の対象となる行為の状態ではなく,行為者の主観的な状態が問題となるのである。

彼は,この論文で明治初頭に制定された刑法との関連に着目し,新しい刑法に規定された責任追及(「行為者の主観的な状態」「動機」)の重要な観点により「筆保首謀者説」が捏造されたと考察している。

…美作血税一揆の場合は,「新律綱領」「改定律例」に対応した取り調べをすることで,「故意と過失」の区別にもとづく動機の設定がおこなわれた痕跡が示されているのである。

…噂の審級にあったものを,筆保卯太郎の作為と演出によるものへと実体化させたのである。いいかえれば,「新律綱領」「改定律例」にもとづいて処罰するためには,動機を創出しなければならなかったのである。

…重要な点は,筆保卯太郎自身が,そうした取り調べ側の筋道に従って,一揆過程を一人の視点から整理したということであり,この供述は筆保と取り調べ側との共同作業の産物にほかならないということである。

…私は従って,筆保卯太郎供述は,その話の要素においては時間的に先行する<出来事>の経過を含んでいるとしても,構成からいって,取り調べ官との共同作業のもとでの作為的をもって,先行する<出来事>を再構成してできあがったもうひとつの<事件=出来事>であると想定する。

このことから確実にいえることの一つは,筆保卯太郎はこの一揆の首謀者としては考えられないということである。

つまり,取調官によって恣意的に「明六一揆」が再構成され,その経緯を実証するために,筆保卯太郎の自供が捏造されたのである。

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2012年01月01日

明六一揆論(3):宰務正視

『調査と研究』(岡山部落問題研究所)に連載された「美作血税一揆の周辺より」(水内昌康)を参考に,宰務正視と首謀者とされた筆保卯太郎についてまとめてみたい。


宰務邸の裏山にある墓地の中央に,二段積みの基壇の上に高さ1メートル50センチ,幅80センチの石碑が建っている。

明治六年,明六一揆の際,津川原部落に押し寄せてきた一揆の徒党によって,102戸の家が焼かれ,村人から18名の犠牲者がでた。部落長であった喜市(喜一郎),その子龍太郎,喜平の3人が惨殺された。
その霊を弔うため,五十年忌にあたる大正十一年(1922)に建立したのが,この慰霊碑である。

碑の裏面には,次のように刻まれてある。

廣 明治六酉年五月二十九日  寂
   俗名 宰務喜市   行年四十歳

敬 同             日  寂
   俗名 宰務龍太郎 行年廿二歳

宰 同             日  寂
   俗名 宰務喜平   行年十六歳

智 明治三十四年七月廿七日  寂
   俗名 宰務みゑ   行年七十歳

「廣・敬・宰・智」は,廣道・敬了・宰證・尼智栄の各法号の略である。宰務みゑは凶徒に亭主と二人の子を眼前で殺された正視の母である。事件当時は6歳であった正視は,隣村の知人宅の長持の中に隠されて難を逃れた。彼は,夫と二人の子ども無惨に殺された母のその後を見てきただけに,母もまた犠牲者であることを強く思っていたからこそ,その母を一緒に弔ったのである。

慰霊碑の文面については,積年の風雪によって削れ,判読は難しい。私も幾度か直接に判読を試みたが,諦めた。その後,作陽高校の妹尾進治先生が書き写されたコピーと好並隆司先生の現代語訳から内容を理解してきた。

今回,新たに水内昌康氏の「原文」と読み下し文を知ることとなり,ここに転載し,研究の資料としてもらいたいと思う。

(原文)

明治六年我邸宅漠然帰烏有 而父母則
歿凶徒之刃 遺憾非口頭之所得而盡
籲天哭地 歔欷哀慟 継以吐血 然余
等時齢尚浅 不知其所為 空待官衙之
手 雖慚誅之 亡者之丹心末全徹底
国民回顧今茲大正十一年則其五十回忌
也 上墓而憶往事 愁膓不措 取数行
之涙而代墨 賦七律一首 還而呈霊碑

往事茫々跡亦荒
回顧五十有星霜
恨憑舊蘇生無己
愁共浮雲凝愈長
数縷香煙添寂寞
一雙哀鷓哭蒼茫
喟然呑涙人空立
読尽寒碑送夕陽

   男 楠山 宰務正視 拝選

(読み下し文)

明治六年我邸宅漠然トシテ烏有ニ帰ス
而シテ父兄則チ凶徒ノ刃ニ歿す。
遺憾口頭ノ得テ盡ス所ニアラズ。
天ヲ籲,地ニ哭シ,歔欷哀慟,継イデ以テ血ヲ嘔ク。
然シテ余等時ニ齢尚浅ク其ノ為ス所ヲ知ラズ。
空シク官衙ノ手ヲ待チテ漸クコレヲ誅ストイエドモ
亡者ノ丹心イマダ全ク徹底セズ。
国民回顧ス今茲ニ大正十一年則チ五十回忌也。
上墓シテ往事ヲ憶イ愁傷措カズ。
数行ノ涙ヲ取リテ墨ニ代エ,七言一首ヲ賦シテ還シテ霊前ニ呈ス。

往事茫々トシテ跡亦荒ル
回顧スレバ五十有星霜
恨憑舊蘇生ジ己ムコトナク
愁,浮雲ト共ニ凝リテ愈長シ
数縷ノ香煙,寂寞ヲ添エ
一雙ノ哀鷓,蒼茫ニ哭ク
喟然涙ヲ呑ミテ人空シク立チ
塞碑ヲ読ミ尽クシテタ陽ヲ送ル。

水内氏は,次のように書いている。

宰務正視は,諱は子欽,字は織憲,楠山と号した。また,溶月堂,鶴夢庭とも号し漢詩に造詣が深かった。明治二十二年,父兄達の十七回忌にあたって,すでに,この詩文の草稿を作っていたが,長年世に出すこともなく,五十回忌にあたり序文の一部を改めて碑に刻したのである。

これについて,私は別項において言及しているので,ここでは書かないが,「草稿」と大きくちがうのが,【亡者之丹心末全徹底国民 回顧今茲大正十一年則其五十回忌】である。「草稿」では,【未可謂十分報之,回顧茲明治二十二年則其拾七回忌也】となっている。

この件に関して,好並隆司氏の論文に言及してあったので,ここに転載して真偽を正しておきたい。(「明治六年美作一揆の再評価」『近世中国被差別部落史研究』所収)

…明治二十二年に(宰務)氏は「謁父兄墓」詩を作り,父兄を弔った。…ついで大正十一年は父兄の五十回忌にあたるので,津山市三浦にある宰務家墓地に碑をたてて,みぎ序文と賦とを刻んだ。文章は明治二十二年と十七回忌の語句が変更されているだけである。しかし,大正十一年十一月五日発行,大土井鳧川編集の『隠れたる偉人』と題する小冊子では,右序文の傍点の箇所が「空待官衙之
手雖慚誅之,亡者之丹心末全徹底国民,回顧今茲大正十一年」と改められていて,報復がなお十分でないとする部落民の怨みが,「亡者之丹心末全徹底国民」と死者主体に移されて,国民に真の心がわかっていないとして,国民融和への志向を示している。…原文を改竄をしたものと思われる。


…全解連系「調査と研究」誌37号で,水内昌康氏は石碑を写真にとりながら,本文を大土井氏改竄の国民融合論的文章を本文として紹介している。氏の誤りを訂正しておきたい。

以上の好並氏の解明により,上記の水内氏の紹介している碑文がまちがっていることが判明した。あらためて,好並氏の論文より慰霊碑の碑文を次に引用しておく。

明治六年我邸宅漠然歸鳥有,而父母則歿凶徒之匁(刃),遺憾非口頭之所得而尽,籲天哭地,歔欷哀慟,継以嘔血,然余等時齢尚浅,不知其所為,空待官衙之手雖慚誅之,未可謂十分報之,回顧今茲大正十一年則其五十回忌也,上墓而憶往事,愁傷不措,取数行之涙,而代墨,賦七律一首,還而呈霊牌

往事茫々跡亦荒,回顧五十有星霜,恨憑舊蘇生無己,愁共浮雲凝愈長,数縷香烟添寂寞,一雙哀鷓哭蒼茫,喟然呑涙人空立,讀盡寒碑送夕陽


除幕式の当日,正視は霊前に次のような奉告文を捧げている。

維時大正十一年壬戊之年五月廿九日,回顧スレバ,去ル明治六年国政未ダ緒ニ就カス綱紀尚揚ラサル蒙昧ノ時ニ際シ,我ガ作陽未タ會テ古今ニ見サル大惨事ニ遭遇シ,父兄則チ其渦中ニ投シ千秋ノ恨ヲ呑ンテ空シク匪徒ノ為メニ没セラレシ五十回忌ニ相当ス。
熟々惟レバ春風秋雨既ニ半世紀ノ久シキ子孫尚未ダ其庇護ヲ受ク,不肖正視,転タ追憶ノ念ニ堪ヘス茲ニ粗末ナル碑石ヲ建設謹テ奉告ノ式ヲ挙グ,父兄ノ霊請フ饗ケヨ大正十一年五月二十九日
                 男 正視拝告


正視は明治42年に部落救済のために「備作廊清会」を組織し,官庁などの応援を得るために働きかけている。その趣意書は,風俗の矯正,勤勉貯蓄の奨励など部落改善運動の域を出るものではなく,時代の制約を受けている。
しかし,当時の岡山県知事谷口留五郎を訪問し,廊清会の組織について支援を求め,激励を受けている。また,県下の各部落を訪ね,会の拡大のために尽力している。

残念ながら,進展が望めず志半ば中断し,一時期は津山で「作陽公論」を発刊するなど自己の理想を文筆に託して展開していたが,晩年は自適の生活を送り,昭和十四年に71歳で他界した。

彼の人生を考えるとき,常に脳裏にあったものは父兄を惨殺した「明六一揆」であったと思う。
父兄が殺害された川原を眺め,焼け落ちた屋敷跡で,母親や周囲から津川原の惨劇を聞いて育ち,青年期には郷里を離れて京都に暮らし,後に東京で慶応義塾に学び,一時は大阪に私塾を開校しながら,それでも彼は郷里に戻ってきた。
彼は必死に,その理由を探していたのだろう。なぜ襲われなければならなかったのか。なぜ父兄は彼らに殺されなければならなかったのだろうか。

部落解放運動に身と私財を投じたのも,彼の無念の思いからであったと思う。

焼かれた屋敷跡に暮らし,襲ってきた本人やその子孫を目にしながら日々を過ごす,その心情は如何なるものであっただろう。人力車とお抱えの車夫を持つ彼は,車上から近隣の農民を見下ろし,意趣返しをしたというが,本当の彼の心情はわからない。

それは,今も加茂谷,美作にある「現実」なのだ。決して過去のことではない。

posted by 藤田孝志 at 20:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 明六一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月29日

明六一揆論(2):自供書

『備前・備中・美作百姓一揆史料』(第5巻)所収「北条県史」は,明六一揆についての北条県の公式記録であり,騒擾顛末と処刑の部からなっている。
騒擾顛末は「騒擾顛末御届」「騒擾ニ付殺傷破毀焼亡取調」「元魁筆保卯太郎之口供」と事後処理記録からなっている。処刑の部は臨時裁判所の取調口供と申渡書,及び「処刑之義ニ付御届書」を収録している。

実際に殺害に関わった者たちの思いを「自供書」より推察することで農民の意識を分析できる。


この各人の「自供書」に共通するのは,なぜ部落を襲ったのか,襲うに至った心情的理由を述べた箇所である。
取調によって自白したものであり,その「口供」であることから,取調官による誘導尋問や供述の要約があったことは十分に考えられるが,部落に対する憎悪や憤慨など心情面については,程度の差こそあっても,農民の意識は共通であったと思われる。

…穢多号ヲ御廃止之後,従前ノ身分ヲ忘レ,兼テ不礼之仕向不少。
                                (宇治貞蔵)

…右称号御廃止以後,自ラ不遜ニ有之,兼テ悪マシク存ジ,…
                               (芦谷島五郎)

各人の「自供書」に見られる共通した心情的理由である。より詳しく述べているのが,津川原部落襲撃の中心人物であった小林久米蔵である。

…穢多号ヲ御廃止ノ後,近村ノ者ヘ対シ不敬ノ仕向不少候付,元身分ノ通,下駄傘等ハ村内ヨリ外ヘハ不相用,且,近村ノ平民ヘ用向有之節ハ,門外ヨリ草履ヲ脱ギ,途中ニテ出会候時ハ頭ヲ地ニ下ゲ礼譲正敷可致,…

この小林の供述によれば,「従前ノ身分」=「穢多」が守るべきルールは,下駄や傘を部落の外で使用しない,一般村の家の門内に入るときは履いている草履を脱いで入り,道で百姓と出会ったら,頭を地につけて土下座して礼儀を尽くすことであった。

「自供書」に「穢多号ヲ御廃止之後」「右称号御廃止以後」とあるように,「解放令」が大きな起点,ターニングポイントとなったことはまちがいない。

「解放令」を喜びをもって受け入れた部落と,納得(承知)できない一般町村との決定的な認識の差が部落襲撃に至った根本的な要因である。


美作国勝北郡妙原村農  鈴木七郎治

拷問三度

自分儀,兇徒ニ脅誘セラレ,無拠当五月二十八日村方一同随行シ,所々立廻リ,其日ハ唯随行迄ニテ帰宅致,翌二十九日,津川原村ヘ前日ヨリ押寄候党民挙動盛ナル由承リ,自分ニモ旧穢多之心得方兼テ悪マシク存ジ居ル折柄ニ付,同所ヘ赴キ,山手ニ潜伏致シ居ル旧穢多共ヲ党類共ヨリ縛出シ,加茂川筋河原ニ於テ殺害可致様子ニテ多勢屯集之処,宰務喜一郎二男喜平儀,大勢ノ中ニ畏縮シ居,自分ニ向ヒ可助呉様歎出ル処,一体,旧穢多共兼々不遜ニ有之而己ナラズ,最初諸村ヨリ押寄候節,村内ニ柵ヲ拵ヘ,抗搆スベキ勢ヲナシ候由承リ,甚不快之儀ト存ジ居,喜平一人ヲ別段悪ムニテハ無之候得共,右醜族ノ者ニ付,忽然可殺トノ念慮差起リ,右歎ヲモ取合ヒ不申。

其内,宰務喜一郎等ハ五六間上手ニ於テ巳ニ害セラレ候様子ニテ,一層乱雑中,傍ニ之レ在ル喜平母ミエヨリモ,尚更衆人ニ向ヒ,喜平ハ幼年者ニ付,何卒,一命ハ相助呉候様,只管相歎候得共,自分ニハ既ニ殺念相兆ス上,酒気ニ乗ジ,多勢ニ向ヒ,殺害スベシト喚ハリ候処,素ヨリ可突殺勢ニテ相構ヘ居ル村名前不知者共,各右喜平へ竹槍ヲ以テ手ヲ下シ,終ニ絶命ニ及バセ申候。右之外,同所ニ於テ追々ニ殺害サルヽ者数人有之候得共,自分ニハ関係不致,右一挙治リ候後致帰村候。

然ル処,前書ミエ儀,自分ヲ殺スベク指揮致シ候ヨリ,遂ニハ喜平ニハ殺サレ候儀ト,遺恨ヲ含居ル由ニ伝承致シ候間,右之段,其筋ヘ訴ラレ候ハヾ,御糺明ヲ受候ハ必定ト存ジ,同六月一日,ミエ方ヘ立越シ,相慰ニハ,喜平儀,自分ヨリ指図致シ殺害ニ逢候次第ニテハ會以テ無之,助遣度トハ存ズレドモ,其場ノ勢,迚モ力ニ及ズ,如何トモ党民共免スベキ場合ニハ無之ニ付,非常之不仕合ト思諦ラムベク,必ズ自分ヲ怨ミ申間敷,且,斯ク申儀ヲ召仕之者迄モ口外不致様申付可置ト,我非ヲ掩ン為,申聞置候事。

右之通相違不申上候。以上

 明治六年十月                     鈴木七郎治

鈴木七郎治は,小林久米蔵と同じく津川原村の本村にあたる妙原村の者である。二人は直接には殺害を行ってはいないが,津川原の村民を選別する役割を担い,殺害を指揮(扇動)した罪で処刑(斬罪)されている。

自供書によれば,当時16歳の宰務喜一郎の二男喜平が自分に助命を嘆願してきた。特別に喜平だけが憎いわけではないが,かねてから彼らのことを「不遜」と思っていたこと,最初に津川原に押し寄せたときも柵を作って抵抗する姿勢を見せるなど甚だしく不快な思いをさせられたことから,喜平も同じ「醜族の者」なので,すぐさま「殺意」が起こり,願いに応える気持ちにならなかったと述べている。

夫と長男を惨く殺されるのを直前に見た母親が必死に二男の助命を哀願しているのを見ながらも,冷酷に「殺せ」と命じた彼の心情はいかなるものであっただろうか。
この自供書からは罪の意識は感じられない。怒りや憎しみのみが自己正当化として語られている。

農民たちは,なぜ部落を殺戮したのか。
選別した上で残酷に殺害した動機は何だったのだろうか。殺戮にまで高ぶった憎悪や憤怒の原因は如何なるものであったのか。

鈴木の自供書にある【喜平一人ヲ別段悪ムニテハ無之候得共,右醜族ノ者ニ付,忽然可殺トノ念慮差起リ,右歎ヲモ取合ヒ不申】の一文に,その理由がある。

彼は,母親の哀願を退けた心情として,【醜族の者】であるから喜平一人を許すわけにはいかなかったと述べている。つまり,個人に対する「憎悪」「憤怒」ではなく,津川原村など部落民にすべてに対する「憎悪」「憤怒」である。


【自分ニモ旧穢多之心得方兼テ悪マシク存ジ居ル】【旧穢多共兼々不遜ニ有之而己ナラズ】と述べる心情は,他の者の自供書と同じく,解放令発布後の部落民の態度に対する激しい憤りが吐露されている。

自供書に述べられている【…元身分ヲ忘レ】(小林久米蔵)【…従前ノ身分ヲ忘レ】(宇治貞蔵・大谷類治郎・小島伴治郎)が意味するものは何か。

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明六一揆論(1):慰霊碑に刻まれた無念

「美作騒擾」とも「美作血税一揆」とも呼ばれる岡山県北部で起こった「解放令反対一揆」を考察する際に欠かせない重要史料がこの慰霊碑に刻まれた碑文である。


碑を建てた宰務正視氏の家は,津川原部落で代々の長を務めてきた。この部落が,明治六年に襲われたとき,彼は満六歳。隣村の知人宅で長持ちの中に隠されていて,生き残ることができた。

この一揆により,父と長男・二男の三人が,母親みえの眼前で惨殺されている。部落一の地主であった立派な屋敷も焼き払われている。
津川原部落では彼らを含めて18名が殺されている。

正視氏がこの慰霊碑を建立したのは,1922(大正11)年,水平社が設立されて3か月後のことである。その年の5月29日は父と兄たちの五十回忌であった。


慰霊碑に刻まれた旧字体で書かれた漢詩文は,長年の風雨や厳しい冬の風雪によって削られて文字の判読がしにくい。(私も判読不能の文字が多く,諦めるしかなかった)

上杉氏の『部落を襲った一揆』にも転載されている好並隆司さんによる現代語訳によって内容を知ることができる。

明治六年,私の屋敷は漠然とした焼野原になり,父と母は凶徒の刃で歿くなった。
その無念さをよく言葉でいい表せず,天に叫び,地に泣き伏して哀泣の声をあげ,(悲しみつづけて),ついに血を吐くに至った。
しかし,当時私たちは年が若く,為すすべもなく,ただ役人の手を空しく待つばかりであった。
ようやく凶徒を罰したとはいえ,亡くなった者の心に十分に報いることができたとは思わない。
今ここに大正十一年となり,五十回忌をむかえる。
墓に来たって過ぎ去った昔の事件を思うと,(死んでいった者への)悲しみをどこに措いてよいかわからない。
流れる涙を墨汁にかえて,七律一首を詠み,霊前に捧げよう。

昔のことははるかに遠ざかり,屋敷の跡も荒れ果てた
ふりかえれば十七年が経っている
恨みは旧い出来事とともに蘇って堪えることがない
愁いは浮雲とともにいよいよ長く留まっている
線香の煙は数本の糸筋となって立ち昇り,寂しさに添える
一対の斑鳩の哀しむ声が,はてしない蒼空をつらぬく
ため息をついて涙をのみ,私はただ空しくたたずむばかり
寒さの中で墓碑銘を読み終えると,夕陽はもう沈もうとしている

漢詩文で書かれた碑文は,判読しにくい文字も多く,「原文」もないだろうと諦めていた。
地元にある作陽高校の妹尾先生が碑文を書き写されたもののコピーをいただいて大切に保管しているのが,これが唯一の「原文」と思っていた。

以前より,正視氏に関しては「漢文」を学び漢詩集も出版していると聞いていたが,現物を手に取ることはできていない。また,彼について書かれた人物辞典のようなものがあるとも聞いていたが,探しても見つからなかった。

『部落を襲った一揆』に,正視氏を紹介している本の書名が書かれていたので,古書店にて,その本が収録されている選集を入手することができた。

その本は,寺田蘇人『部落の人豪』である。私は,この本が収録されている『部落問題文芸・作品選集』(46巻)を手に入れた。

早々に本を開き,正視氏に関する部分を読み始めたところで,この碑文の「原文」であろう漢詩文を目にすることができた。

ここに転載しておく。

  謁父母墓

明治六年我邸宅漠然歸鳥有,而父母則歿凶徒之刃,遺憾非口頭之所得而盡,龥天哭地歔欷哀慟,繼以吐血,然余等時齢尚淺,不知其所為空待官衙之手,雖慚誅之,未可謂十分報之,回顧茲明治二十二年則其拾七回忌也,上墓而憶往事,愁膓所措,取數行之涙而代墨,賦七律一首,還而呈靈牌,藤澤南岳曰悲惨在眼不堪多

往事茫々跡亦荒,回顧十有七星霜,恨憑舊蘇生無己,愁共浮雲凝愈長,數縷香烟添寂寞,一雙哀鷓哭蒼茫,喟然呑涙人空立,讀盡寒碑送夕陽

藤澤南岳曰情語動人
宮崎柳渓曰引文而後此詩則哀痛湊涙涔々然下


この本により判明したことがある。

まず,『部落の人豪』が刊行されたのは,大正9年であり,慰霊碑の建立より以前のことである。
同書によると,碑文の「原文」は,正視が明治28年に出版した彼の漢詩集『溶月堂詩鈔』に所収されており,それを引用転載したものである。

漢詩集に引用転載された「原文」と,妹尾先生の書写した「碑文」を対比させると,まったく同一の文であることがわかった。
違う箇所の一つは,七律一首の「回顧十有七有星霜」(詩集)と「回顧五十有星霜」(碑文)というように,建立に際して年月を合わせているところである。もう一つは,碑文にはない「藤澤南岳曰悲惨在眼不堪多」である。

このことから,正視が無念の思いを漢詩に表したのは,明治22年の十七回忌のときであり,その詩を所収した漢詩集を刊行したのが,明治28年である。
そして,この漢詩を慰霊碑に刻み建立したのが,大正11年である。

明治6(1873)年の騒擾のとき,正視は満六歳であった。慶応3(1867年)2月に京都に生まれると,『部落の人豪』には書かれている。

彼がこの漢詩を書き表したのは,十七回忌の時だとすれば,23歳である。慰霊碑建立のときは,56歳であるから,33年間忘れることなく,無念の思いは彼の胸中にあったのだろう。いや,1936年に71歳で亡くなるまで,終生かわることはなかっただろう。


「藤澤南岳曰悲惨在眼不堪多」の一文であるが,藤澤南岳は正視と深く親交のあった大阪の儒学者である。

藤沢南岳(ふじさわ なんがく)
天保13年9月9日(1842年10月12日) - 1920年2月2日)

讃岐生まれ。藤沢東畡の長男。名は恒,字は君成,通称は恒太郎。号は醒狂,香翁など。大坂の泊園書院を父から継承し,数千人の門人を擁した。高松藩に仕え,左幕派だった藩論を一夜で朝廷派へと変換した。戊辰戦争後,藩の保全に尽力,藩学講道館にて督学,1887年大成教会を興した。
長男は衆議院議員となった藤沢元造(黄鵠),次男は関西大学初の名誉教授となった藤沢章二郎(黄坡)。小説家の藤沢桓夫は章二郎の長男。
「通天閣」や「寒霞渓」の命名者である。

Wikipedia より

「藤澤南岳曰悲惨在眼不堪多」を現代語に訳すならば,「藤澤南岳が言うには,悲惨(な情景)が眼に浮かび,(これ以上)幾度も読むことには堪えられない」となるだろうか。

七律一首の後にも,「藤澤南岳曰情語動人,宮崎柳渓曰引文而後此詩則哀痛湊涙涔々然下」の文が続いている。

つまり,この無念の「漢詩」を「藤澤南岳」や「宮崎柳渓」に見てもらっているということだろう。そして,信頼する友人からの言葉を書き加えたのだろう。

自らの心情を同憂してくれた友への感謝とともに決して忘れられぬ悲惨な事実を,自著を読んでくれる人々に伝えたかったのだろう。


『部落問題文芸・作品選集』の製版が悪く,旧字でもあり,活字がつぶれて読みにくいため,上記の漢詩文が正確であるかどうか不安である。

また,妹尾先生の書写においても,私には到底無理と思える判読作業である以上,絶対とも言い難い。

さらに,好並先生の現代語訳も,正視の胸中を感じての意訳であり,また先生の没後であるため,先生が底本とした「原文」の所在を聞くこともできない。

上記の3つを比較したとき,いくつかの「漢字」が異なっている。また,原文と訳文でやや異なった解釈となっている部分もある。たとえば,好並氏による上記の訳文中の( )は「原文」にはない意訳である。

今ここに,宰務正視氏の痛恨に思いを馳せながら,長年の夢であった「解放令反対一揆」研究,特に「明六一揆」に関する考察を始めたいと思う。


この漢詩文を読むたび,私の心に,この惨劇が時空を超えて蘇ってくる。

具体的な史実は何も語られていない。自分が実際に直面した事実とそのときの心情だけが淡々と語られている。

だが,この短い漢詩文の一字一句の中に,すべてが凝縮されている。関連史料を読み,上杉氏の『部落を襲った一揆』を読むとき,なぜ正視が自分の心情のみを短い漢詩に綴ったのかがよくわかる。

posted by 藤田孝志 at 01:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 明六一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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