2012年01月01日

明六一揆論(3):宰務正視

『調査と研究』(岡山部落問題研究所)に連載された「美作血税一揆の周辺より」(水内昌康)を参考に,宰務正視と首謀者とされた筆保卯太郎についてまとめてみたい。


宰務邸の裏山にある墓地の中央に,二段積みの基壇の上に高さ1メートル50センチ,幅80センチの石碑が建っている。

明治六年,明六一揆の際,津川原部落に押し寄せてきた一揆の徒党によって,102戸の家が焼かれ,村人から18名の犠牲者がでた。部落長であった喜市(喜一郎),その子龍太郎,喜平の3人が惨殺された。
その霊を弔うため,五十年忌にあたる大正十一年(1922)に建立したのが,この慰霊碑である。

碑の裏面には,次のように刻まれてある。

廣 明治六酉年五月二十九日  寂
   俗名 宰務喜市   行年四十歳

敬 同             日  寂
   俗名 宰務龍太郎 行年廿二歳

宰 同             日  寂
   俗名 宰務喜平   行年十六歳

智 明治三十四年七月廿七日  寂
   俗名 宰務みゑ   行年七十歳

「廣・敬・宰・智」は,廣道・敬了・宰證・尼智栄の各法号の略である。宰務みゑは凶徒に亭主と二人の子を眼前で殺された正視の母である。事件当時は6歳であった正視は,隣村の知人宅の長持の中に隠されて難を逃れた。彼は,夫と二人の子ども無惨に殺された母のその後を見てきただけに,母もまた犠牲者であることを強く思っていたからこそ,その母を一緒に弔ったのである。

慰霊碑の文面については,積年の風雪によって削れ,判読は難しい。私も幾度か直接に判読を試みたが,諦めた。その後,作陽高校の妹尾進治先生が書き写されたコピーと好並隆司先生の現代語訳から内容を理解してきた。

今回,新たに水内昌康氏の「原文」と読み下し文を知ることとなり,ここに転載し,研究の資料としてもらいたいと思う。

(原文)

明治六年我邸宅漠然帰烏有 而父母則
歿凶徒之刃 遺憾非口頭之所得而盡
籲天哭地 歔欷哀慟 継以吐血 然余
等時齢尚浅 不知其所為 空待官衙之
手 雖慚誅之 亡者之丹心末全徹底
国民回顧今茲大正十一年則其五十回忌
也 上墓而憶往事 愁膓不措 取数行
之涙而代墨 賦七律一首 還而呈霊碑

往事茫々跡亦荒
回顧五十有星霜
恨憑舊蘇生無己
愁共浮雲凝愈長
数縷香煙添寂寞
一雙哀鷓哭蒼茫
喟然呑涙人空立
読尽寒碑送夕陽

   男 楠山 宰務正視 拝選

(読み下し文)

明治六年我邸宅漠然トシテ烏有ニ帰ス
而シテ父兄則チ凶徒ノ刃ニ歿す。
遺憾口頭ノ得テ盡ス所ニアラズ。
天ヲ籲,地ニ哭シ,歔欷哀慟,継イデ以テ血ヲ嘔ク。
然シテ余等時ニ齢尚浅ク其ノ為ス所ヲ知ラズ。
空シク官衙ノ手ヲ待チテ漸クコレヲ誅ストイエドモ
亡者ノ丹心イマダ全ク徹底セズ。
国民回顧ス今茲ニ大正十一年則チ五十回忌也。
上墓シテ往事ヲ憶イ愁傷措カズ。
数行ノ涙ヲ取リテ墨ニ代エ,七言一首ヲ賦シテ還シテ霊前ニ呈ス。

往事茫々トシテ跡亦荒ル
回顧スレバ五十有星霜
恨憑舊蘇生ジ己ムコトナク
愁,浮雲ト共ニ凝リテ愈長シ
数縷ノ香煙,寂寞ヲ添エ
一雙ノ哀鷓,蒼茫ニ哭ク
喟然涙ヲ呑ミテ人空シク立チ
塞碑ヲ読ミ尽クシテタ陽ヲ送ル。

水内氏は,次のように書いている。

宰務正視は,諱は子欽,字は織憲,楠山と号した。また,溶月堂,鶴夢庭とも号し漢詩に造詣が深かった。明治二十二年,父兄達の十七回忌にあたって,すでに,この詩文の草稿を作っていたが,長年世に出すこともなく,五十回忌にあたり序文の一部を改めて碑に刻したのである。

これについて,私は別項において言及しているので,ここでは書かないが,「草稿」と大きくちがうのが,【亡者之丹心末全徹底国民 回顧今茲大正十一年則其五十回忌】である。「草稿」では,【未可謂十分報之,回顧茲明治二十二年則其拾七回忌也】となっている。

この件に関して,好並隆司氏の論文に言及してあったので,ここに転載して真偽を正しておきたい。(「明治六年美作一揆の再評価」『近世中国被差別部落史研究』所収)

…明治二十二年に(宰務)氏は「謁父兄墓」詩を作り,父兄を弔った。…ついで大正十一年は父兄の五十回忌にあたるので,津山市三浦にある宰務家墓地に碑をたてて,みぎ序文と賦とを刻んだ。文章は明治二十二年と十七回忌の語句が変更されているだけである。しかし,大正十一年十一月五日発行,大土井鳧川編集の『隠れたる偉人』と題する小冊子では,右序文の傍点の箇所が「空待官衙之
手雖慚誅之,亡者之丹心末全徹底国民,回顧今茲大正十一年」と改められていて,報復がなお十分でないとする部落民の怨みが,「亡者之丹心末全徹底国民」と死者主体に移されて,国民に真の心がわかっていないとして,国民融和への志向を示している。…原文を改竄をしたものと思われる。


…全解連系「調査と研究」誌37号で,水内昌康氏は石碑を写真にとりながら,本文を大土井氏改竄の国民融合論的文章を本文として紹介している。氏の誤りを訂正しておきたい。

以上の好並氏の解明により,上記の水内氏の紹介している碑文がまちがっていることが判明した。あらためて,好並氏の論文より慰霊碑の碑文を次に引用しておく。

明治六年我邸宅漠然歸鳥有,而父母則歿凶徒之匁(刃),遺憾非口頭之所得而尽,籲天哭地,歔欷哀慟,継以嘔血,然余等時齢尚浅,不知其所為,空待官衙之手雖慚誅之,未可謂十分報之,回顧今茲大正十一年則其五十回忌也,上墓而憶往事,愁傷不措,取数行之涙,而代墨,賦七律一首,還而呈霊牌

往事茫々跡亦荒,回顧五十有星霜,恨憑舊蘇生無己,愁共浮雲凝愈長,数縷香烟添寂寞,一雙哀鷓哭蒼茫,喟然呑涙人空立,讀盡寒碑送夕陽


除幕式の当日,正視は霊前に次のような奉告文を捧げている。

維時大正十一年壬戊之年五月廿九日,回顧スレバ,去ル明治六年国政未ダ緒ニ就カス綱紀尚揚ラサル蒙昧ノ時ニ際シ,我ガ作陽未タ會テ古今ニ見サル大惨事ニ遭遇シ,父兄則チ其渦中ニ投シ千秋ノ恨ヲ呑ンテ空シク匪徒ノ為メニ没セラレシ五十回忌ニ相当ス。
熟々惟レバ春風秋雨既ニ半世紀ノ久シキ子孫尚未ダ其庇護ヲ受ク,不肖正視,転タ追憶ノ念ニ堪ヘス茲ニ粗末ナル碑石ヲ建設謹テ奉告ノ式ヲ挙グ,父兄ノ霊請フ饗ケヨ大正十一年五月二十九日
                 男 正視拝告


正視は明治42年に部落救済のために「備作廊清会」を組織し,官庁などの応援を得るために働きかけている。その趣意書は,風俗の矯正,勤勉貯蓄の奨励など部落改善運動の域を出るものではなく,時代の制約を受けている。
しかし,当時の岡山県知事谷口留五郎を訪問し,廊清会の組織について支援を求め,激励を受けている。また,県下の各部落を訪ね,会の拡大のために尽力している。

残念ながら,進展が望めず志半ば中断し,一時期は津山で「作陽公論」を発刊するなど自己の理想を文筆に託して展開していたが,晩年は自適の生活を送り,昭和十四年に71歳で他界した。

彼の人生を考えるとき,常に脳裏にあったものは父兄を惨殺した「明六一揆」であったと思う。
父兄が殺害された川原を眺め,焼け落ちた屋敷跡で,母親や周囲から津川原の惨劇を聞いて育ち,青年期には郷里を離れて京都に暮らし,後に東京で慶応義塾に学び,一時は大阪に私塾を開校しながら,それでも彼は郷里に戻ってきた。
彼は必死に,その理由を探していたのだろう。なぜ襲われなければならなかったのか。なぜ父兄は彼らに殺されなければならなかったのだろうか。

部落解放運動に身と私財を投じたのも,彼の無念の思いからであったと思う。

焼かれた屋敷跡に暮らし,襲ってきた本人やその子孫を目にしながら日々を過ごす,その心情は如何なるものであっただろう。人力車とお抱えの車夫を持つ彼は,車上から近隣の農民を見下ろし,意趣返しをしたというが,本当の彼の心情はわからない。

それは,今も加茂谷,美作にある「現実」なのだ。決して過去のことではない。

posted by 藤田孝志 at 20:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 明六一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月29日

明六一揆論(2):自供書

『備前・備中・美作百姓一揆史料』(第5巻)所収「北条県史」は,明六一揆についての北条県の公式記録であり,騒擾顛末と処刑の部からなっている。
騒擾顛末は「騒擾顛末御届」「騒擾ニ付殺傷破毀焼亡取調」「元魁筆保卯太郎之口供」と事後処理記録からなっている。処刑の部は臨時裁判所の取調口供と申渡書,及び「処刑之義ニ付御届書」を収録している。

実際に殺害に関わった者たちの思いを「自供書」より推察することで農民の意識を分析できる。


この各人の「自供書」に共通するのは,なぜ部落を襲ったのか,襲うに至った心情的理由を述べた箇所である。
取調によって自白したものであり,その「口供」であることから,取調官による誘導尋問や供述の要約があったことは十分に考えられるが,部落に対する憎悪や憤慨など心情面については,程度の差こそあっても,農民の意識は共通であったと思われる。

…穢多号ヲ御廃止之後,従前ノ身分ヲ忘レ,兼テ不礼之仕向不少。
                                (宇治貞蔵)

…右称号御廃止以後,自ラ不遜ニ有之,兼テ悪マシク存ジ,…
                               (芦谷島五郎)

各人の「自供書」に見られる共通した心情的理由である。より詳しく述べているのが,津川原部落襲撃の中心人物であった小林久米蔵である。

…穢多号ヲ御廃止ノ後,近村ノ者ヘ対シ不敬ノ仕向不少候付,元身分ノ通,下駄傘等ハ村内ヨリ外ヘハ不相用,且,近村ノ平民ヘ用向有之節ハ,門外ヨリ草履ヲ脱ギ,途中ニテ出会候時ハ頭ヲ地ニ下ゲ礼譲正敷可致,…

この小林の供述によれば,「従前ノ身分」=「穢多」が守るべきルールは,下駄や傘を部落の外で使用しない,一般村の家の門内に入るときは履いている草履を脱いで入り,道で百姓と出会ったら,頭を地につけて土下座して礼儀を尽くすことであった。

「自供書」に「穢多号ヲ御廃止之後」「右称号御廃止以後」とあるように,「解放令」が大きな起点,ターニングポイントとなったことはまちがいない。

「解放令」を喜びをもって受け入れた部落と,納得(承知)できない一般町村との決定的な認識の差が部落襲撃に至った根本的な要因である。


美作国勝北郡妙原村農  鈴木七郎治

拷問三度

自分儀,兇徒ニ脅誘セラレ,無拠当五月二十八日村方一同随行シ,所々立廻リ,其日ハ唯随行迄ニテ帰宅致,翌二十九日,津川原村ヘ前日ヨリ押寄候党民挙動盛ナル由承リ,自分ニモ旧穢多之心得方兼テ悪マシク存ジ居ル折柄ニ付,同所ヘ赴キ,山手ニ潜伏致シ居ル旧穢多共ヲ党類共ヨリ縛出シ,加茂川筋河原ニ於テ殺害可致様子ニテ多勢屯集之処,宰務喜一郎二男喜平儀,大勢ノ中ニ畏縮シ居,自分ニ向ヒ可助呉様歎出ル処,一体,旧穢多共兼々不遜ニ有之而己ナラズ,最初諸村ヨリ押寄候節,村内ニ柵ヲ拵ヘ,抗搆スベキ勢ヲナシ候由承リ,甚不快之儀ト存ジ居,喜平一人ヲ別段悪ムニテハ無之候得共,右醜族ノ者ニ付,忽然可殺トノ念慮差起リ,右歎ヲモ取合ヒ不申。

其内,宰務喜一郎等ハ五六間上手ニ於テ巳ニ害セラレ候様子ニテ,一層乱雑中,傍ニ之レ在ル喜平母ミエヨリモ,尚更衆人ニ向ヒ,喜平ハ幼年者ニ付,何卒,一命ハ相助呉候様,只管相歎候得共,自分ニハ既ニ殺念相兆ス上,酒気ニ乗ジ,多勢ニ向ヒ,殺害スベシト喚ハリ候処,素ヨリ可突殺勢ニテ相構ヘ居ル村名前不知者共,各右喜平へ竹槍ヲ以テ手ヲ下シ,終ニ絶命ニ及バセ申候。右之外,同所ニ於テ追々ニ殺害サルヽ者数人有之候得共,自分ニハ関係不致,右一挙治リ候後致帰村候。

然ル処,前書ミエ儀,自分ヲ殺スベク指揮致シ候ヨリ,遂ニハ喜平ニハ殺サレ候儀ト,遺恨ヲ含居ル由ニ伝承致シ候間,右之段,其筋ヘ訴ラレ候ハヾ,御糺明ヲ受候ハ必定ト存ジ,同六月一日,ミエ方ヘ立越シ,相慰ニハ,喜平儀,自分ヨリ指図致シ殺害ニ逢候次第ニテハ會以テ無之,助遣度トハ存ズレドモ,其場ノ勢,迚モ力ニ及ズ,如何トモ党民共免スベキ場合ニハ無之ニ付,非常之不仕合ト思諦ラムベク,必ズ自分ヲ怨ミ申間敷,且,斯ク申儀ヲ召仕之者迄モ口外不致様申付可置ト,我非ヲ掩ン為,申聞置候事。

右之通相違不申上候。以上

 明治六年十月                     鈴木七郎治

鈴木七郎治は,小林久米蔵と同じく津川原村の本村にあたる妙原村の者である。二人は直接には殺害を行ってはいないが,津川原の村民を選別する役割を担い,殺害を指揮(扇動)した罪で処刑(斬罪)されている。

自供書によれば,当時16歳の宰務喜一郎の二男喜平が自分に助命を嘆願してきた。特別に喜平だけが憎いわけではないが,かねてから彼らのことを「不遜」と思っていたこと,最初に津川原に押し寄せたときも柵を作って抵抗する姿勢を見せるなど甚だしく不快な思いをさせられたことから,喜平も同じ「醜族の者」なので,すぐさま「殺意」が起こり,願いに応える気持ちにならなかったと述べている。

夫と長男を惨く殺されるのを直前に見た母親が必死に二男の助命を哀願しているのを見ながらも,冷酷に「殺せ」と命じた彼の心情はいかなるものであっただろうか。
この自供書からは罪の意識は感じられない。怒りや憎しみのみが自己正当化として語られている。

農民たちは,なぜ部落を殺戮したのか。
選別した上で残酷に殺害した動機は何だったのだろうか。殺戮にまで高ぶった憎悪や憤怒の原因は如何なるものであったのか。

鈴木の自供書にある【喜平一人ヲ別段悪ムニテハ無之候得共,右醜族ノ者ニ付,忽然可殺トノ念慮差起リ,右歎ヲモ取合ヒ不申】の一文に,その理由がある。

彼は,母親の哀願を退けた心情として,【醜族の者】であるから喜平一人を許すわけにはいかなかったと述べている。つまり,個人に対する「憎悪」「憤怒」ではなく,津川原村など部落民にすべてに対する「憎悪」「憤怒」である。


【自分ニモ旧穢多之心得方兼テ悪マシク存ジ居ル】【旧穢多共兼々不遜ニ有之而己ナラズ】と述べる心情は,他の者の自供書と同じく,解放令発布後の部落民の態度に対する激しい憤りが吐露されている。

自供書に述べられている【…元身分ヲ忘レ】(小林久米蔵)【…従前ノ身分ヲ忘レ】(宇治貞蔵・大谷類治郎・小島伴治郎)が意味するものは何か。

posted by 藤田孝志 at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 明六一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

明六一揆論(1):慰霊碑に刻まれた無念

「美作騒擾」とも「美作血税一揆」とも呼ばれる岡山県北部で起こった「解放令反対一揆」を考察する際に欠かせない重要史料がこの慰霊碑に刻まれた碑文である。


碑を建てた宰務正視氏の家は,津川原部落で代々の長を務めてきた。この部落が,明治六年に襲われたとき,彼は満六歳。隣村の知人宅で長持ちの中に隠されていて,生き残ることができた。

この一揆により,父と長男・二男の三人が,母親みえの眼前で惨殺されている。部落一の地主であった立派な屋敷も焼き払われている。
津川原部落では彼らを含めて18名が殺されている。

正視氏がこの慰霊碑を建立したのは,1922(大正11)年,水平社が設立されて3か月後のことである。その年の5月29日は父と兄たちの五十回忌であった。


慰霊碑に刻まれた旧字体で書かれた漢詩文は,長年の風雨や厳しい冬の風雪によって削られて文字の判読がしにくい。(私も判読不能の文字が多く,諦めるしかなかった)

上杉氏の『部落を襲った一揆』にも転載されている好並隆司さんによる現代語訳によって内容を知ることができる。

明治六年,私の屋敷は漠然とした焼野原になり,父と母は凶徒の刃で歿くなった。
その無念さをよく言葉でいい表せず,天に叫び,地に泣き伏して哀泣の声をあげ,(悲しみつづけて),ついに血を吐くに至った。
しかし,当時私たちは年が若く,為すすべもなく,ただ役人の手を空しく待つばかりであった。
ようやく凶徒を罰したとはいえ,亡くなった者の心に十分に報いることができたとは思わない。
今ここに大正十一年となり,五十回忌をむかえる。
墓に来たって過ぎ去った昔の事件を思うと,(死んでいった者への)悲しみをどこに措いてよいかわからない。
流れる涙を墨汁にかえて,七律一首を詠み,霊前に捧げよう。

昔のことははるかに遠ざかり,屋敷の跡も荒れ果てた
ふりかえれば十七年が経っている
恨みは旧い出来事とともに蘇って堪えることがない
愁いは浮雲とともにいよいよ長く留まっている
線香の煙は数本の糸筋となって立ち昇り,寂しさに添える
一対の斑鳩の哀しむ声が,はてしない蒼空をつらぬく
ため息をついて涙をのみ,私はただ空しくたたずむばかり
寒さの中で墓碑銘を読み終えると,夕陽はもう沈もうとしている

漢詩文で書かれた碑文は,判読しにくい文字も多く,「原文」もないだろうと諦めていた。
地元にある作陽高校の妹尾先生が碑文を書き写されたもののコピーをいただいて大切に保管しているのが,これが唯一の「原文」と思っていた。

以前より,正視氏に関しては「漢文」を学び漢詩集も出版していると聞いていたが,現物を手に取ることはできていない。また,彼について書かれた人物辞典のようなものがあるとも聞いていたが,探しても見つからなかった。

『部落を襲った一揆』に,正視氏を紹介している本の書名が書かれていたので,古書店にて,その本が収録されている選集を入手することができた。

その本は,寺田蘇人『部落の人豪』である。私は,この本が収録されている『部落問題文芸・作品選集』(46巻)を手に入れた。

早々に本を開き,正視氏に関する部分を読み始めたところで,この碑文の「原文」であろう漢詩文を目にすることができた。

ここに転載しておく。

  謁父母墓

明治六年我邸宅漠然歸鳥有,而父母則歿凶徒之刃,遺憾非口頭之所得而盡,龥天哭地歔欷哀慟,繼以吐血,然余等時齢尚淺,不知其所為空待官衙之手,雖慚誅之,未可謂十分報之,回顧茲明治二十二年則其拾七回忌也,上墓而憶往事,愁膓所措,取數行之涙而代墨,賦七律一首,還而呈靈牌,藤澤南岳曰悲惨在眼不堪多

往事茫々跡亦荒,回顧十有七星霜,恨憑舊蘇生無己,愁共浮雲凝愈長,數縷香烟添寂寞,一雙哀鷓哭蒼茫,喟然呑涙人空立,讀盡寒碑送夕陽

藤澤南岳曰情語動人
宮崎柳渓曰引文而後此詩則哀痛湊涙涔々然下


この本により判明したことがある。

まず,『部落の人豪』が刊行されたのは,大正9年であり,慰霊碑の建立より以前のことである。
同書によると,碑文の「原文」は,正視が明治28年に出版した彼の漢詩集『溶月堂詩鈔』に所収されており,それを引用転載したものである。

漢詩集に引用転載された「原文」と,妹尾先生の書写した「碑文」を対比させると,まったく同一の文であることがわかった。
違う箇所の一つは,七律一首の「回顧十有七有星霜」(詩集)と「回顧五十有星霜」(碑文)というように,建立に際して年月を合わせているところである。もう一つは,碑文にはない「藤澤南岳曰悲惨在眼不堪多」である。

このことから,正視が無念の思いを漢詩に表したのは,明治22年の十七回忌のときであり,その詩を所収した漢詩集を刊行したのが,明治28年である。
そして,この漢詩を慰霊碑に刻み建立したのが,大正11年である。

明治6(1873)年の騒擾のとき,正視は満六歳であった。慶応3(1867年)2月に京都に生まれると,『部落の人豪』には書かれている。

彼がこの漢詩を書き表したのは,十七回忌の時だとすれば,23歳である。慰霊碑建立のときは,56歳であるから,33年間忘れることなく,無念の思いは彼の胸中にあったのだろう。いや,1936年に71歳で亡くなるまで,終生かわることはなかっただろう。


「藤澤南岳曰悲惨在眼不堪多」の一文であるが,藤澤南岳は正視と深く親交のあった大阪の儒学者である。

藤沢南岳(ふじさわ なんがく)
天保13年9月9日(1842年10月12日) - 1920年2月2日)

讃岐生まれ。藤沢東畡の長男。名は恒,字は君成,通称は恒太郎。号は醒狂,香翁など。大坂の泊園書院を父から継承し,数千人の門人を擁した。高松藩に仕え,左幕派だった藩論を一夜で朝廷派へと変換した。戊辰戦争後,藩の保全に尽力,藩学講道館にて督学,1887年大成教会を興した。
長男は衆議院議員となった藤沢元造(黄鵠),次男は関西大学初の名誉教授となった藤沢章二郎(黄坡)。小説家の藤沢桓夫は章二郎の長男。
「通天閣」や「寒霞渓」の命名者である。

Wikipedia より

「藤澤南岳曰悲惨在眼不堪多」を現代語に訳すならば,「藤澤南岳が言うには,悲惨(な情景)が眼に浮かび,(これ以上)幾度も読むことには堪えられない」となるだろうか。

七律一首の後にも,「藤澤南岳曰情語動人,宮崎柳渓曰引文而後此詩則哀痛湊涙涔々然下」の文が続いている。

つまり,この無念の「漢詩」を「藤澤南岳」や「宮崎柳渓」に見てもらっているということだろう。そして,信頼する友人からの言葉を書き加えたのだろう。

自らの心情を同憂してくれた友への感謝とともに決して忘れられぬ悲惨な事実を,自著を読んでくれる人々に伝えたかったのだろう。


『部落問題文芸・作品選集』の製版が悪く,旧字でもあり,活字がつぶれて読みにくいため,上記の漢詩文が正確であるかどうか不安である。

また,妹尾先生の書写においても,私には到底無理と思える判読作業である以上,絶対とも言い難い。

さらに,好並先生の現代語訳も,正視の胸中を感じての意訳であり,また先生の没後であるため,先生が底本とした「原文」の所在を聞くこともできない。

上記の3つを比較したとき,いくつかの「漢字」が異なっている。また,原文と訳文でやや異なった解釈となっている部分もある。たとえば,好並氏による上記の訳文中の( )は「原文」にはない意訳である。

今ここに,宰務正視氏の痛恨に思いを馳せながら,長年の夢であった「解放令反対一揆」研究,特に「明六一揆」に関する考察を始めたいと思う。


この漢詩文を読むたび,私の心に,この惨劇が時空を超えて蘇ってくる。

具体的な史実は何も語られていない。自分が実際に直面した事実とそのときの心情だけが淡々と語られている。

だが,この短い漢詩文の一字一句の中に,すべてが凝縮されている。関連史料を読み,上杉氏の『部落を襲った一揆』を読むとき,なぜ正視が自分の心情のみを短い漢詩に綴ったのかがよくわかる。

posted by 藤田孝志 at 01:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 明六一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月15日

「渋染一揆」関連図表

「渋染一揆」に関係する図表を掲載しておくので,授業などで活用してもらいたい。

@ 差別と闘い続けた岡山藩の被差別部落(略年表)

A 「渋染一揆」とは,どのような歴史的事実であったのか(経緯)

B 「渋染一揆」関係者処分一覧表

C 岡山藩の窮乏状況:財政収支

D 岡山藩領地図

E 「渋染一揆」関係地図

これらの図表は,岡山県・岡山市・岡山県同教などが作成した「渋染一揆」関係資料集および『岡山県史』,谷口澄夫『岡山藩』『岡山藩政史の研究』,柴田一『渋染一揆論』などの参考文献より引用・転用して作成したものである。

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2011年04月30日

岡山藩の札潰れ

「渋染一揆」の歴史的背景に,岡山藩の財政危機がある。

嘉永6(1853)年,ペリー来航の影響により諸物価が高騰した。岡山藩の藩財政はそれ以前に逼迫していたが,この影響によりさらに窮乏化していく。
さらに,幕府により沿岸防衛を命じられ,安房・上総の防備に家老以下多くの藩兵を派遣するとともに,藩沿岸の防御施設として下津井や小串・外波崎などに砲台を築いた。これらによる膨大な出費を要した岡山藩財政は破綻寸前であった。

嘉永6年夏頃から,諸物価の高騰により金相場が急上昇した。
5月には金1両に対し銀札80匁だったものが,10月には350匁,11月には580匁になったため,藩札相場は大下落を引き起こし相場市場は機能停止状態となった。そのため,同年12月には金子引き替えを停止せざるを得なくなった。

翌年,藩は金子所有者からの回収を図るため,銀札改正を断行した。
すなわち,銀札の十分の一の切り下げ(銀札拾匁札を一匁札に通用させる)を行ったのである。これを「安政の札潰れ」という。

このような藩の横暴的な措置により,藩内の経済は大混乱を引き起こし,領民の生活はますます苦しくなり,領民の怒りを招いた。

ところが,その数時間後,江戸大地震の余震が岡山を襲った。領民の不満と怒りはこの地震により一時的ではあるが治まるしかなかった。

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鶴島:キリシタン殉教の地

慶応3(1867)年,長崎奉行の報告を受けた幕府が密偵に命じて浦上のカトリック信徒組織を調査し,7月14日の深夜,秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに,高木仙右衛門ら信徒ら68人を一斉に捕縛した。
明治政府は,明治元(1868)年から翌年にかけて信仰を公にして棄教を拒否した信徒を,富山以西の21か所に流罪とした。このキリシタン弾圧を「浦上四番崩れ」という。

明治2(1869)年,捕らえられたキリシタンのうち117人が備前岡山藩に預けられ,翌年9月に改宗と土地の開墾を目的に,和気郡日生村(現備前市日生)の鶴島に移送された。
彼らは明治6年のキリスト教解禁令により信教の自由が認められ,同年4月に長崎県浦上に送還されるまで,鶴島で過ごすことになった。

鶴島は岡山城下から50q,日生の港から8qに位置する周囲約2qの小さな島である。

岡山藩は島の西側に信徒たちの流人長屋と監視役人の番所を建てた。
島の中央に「改宗の祠」をつくり,週に2回ほど信徒たちを集めて神官による説教が行われ,神道への改宗を迫った。信仰を捨てなかった者もいるが,説教や拷問により約半数が改宗した。

鶴島では,開墾により大豆や麦,サツマイモ,綿花や胡麻などが栽培されたが,収穫物が信徒たちの口に入ることなく,県を通じて国へと納入された。

現在の鶴島には,亡くなった信徒18人の墓地や,長屋跡,古井戸が残されている。

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2010年09月14日

「渋染一揆」原典史料覚書

『岡山部落解放研究所紀要 第6号』に収録されている「渋染一揆」関係史料の概略について「解説」をもとに簡略にまとめてしておく。

1 「禁服訟歎難訴記」(原題「穢多渋着物一件」)

渋染一揆参加者の手によって書かれた記録である。原題は「穢多渋着物一件」であったが,粘紙をして「禁服訟歎難訴記」と改題されている。

作者については神下村の豊五郎あるいは笹岡村の良平とする説があるが,豊五郎の子孫が所蔵しておられることや,本書(紀要)に収録されている寺田憲生氏の論考(「『禁服訟歎難訴記』の作者について」)などから豊五郎の作と考えられる。

なお,豊五郎は,神下村の判頭として一揆の指導をおこない,判決直前に逐電している。また,自宅で手習師匠もしていた。

この記録は,五七調を基調に書かれた上下二巻の和綴じ冊子である。上巻は,一揆の歎願運動までの経緯について,下巻は強訴運動の経過,事後の取調について,牢内生活の状況などが詳細に書かれている。

内容としては,城下周辺の動きが中心であり,また脚色や誇大的記述,誤記もある。しかし,一揆指導者の直筆であること,また客観的な記述であることから,一揆の全容を知るためには貴重な歴史的史料である。

2 「屑者重宝記」

国守村の判頭豊吉の書いた一揆の記録である。現在,原本の所在は不明である。

豊吉は,一揆の前半,歎願運動の段階で竹田村の紋之介とともに運動をリードした。惣連判の訴状も豊吉の筆によるものである。

この記録は,客観的事実の経過を克明に記しており,資料的価値は高い。ただし,豊吉は強訴段階では指導的立場を降りており,強訴には参加していないため,後半部分は後からの「聞き書き」である。

3 「穢多共徒党一件留帳」

和気郡藤野村の大庄屋万波七郎右衛門の組下である藤野・稲坪・森の三ヶ村(被差別部落)の一揆への参加に関する動向を記した報告書である。

この記録の前半は,一気に参加した三ヶ村の動向が詳細に記されており,後半は藤野村に残留した者たちをどのように阻止したかを記している。「禁服訟歎難訴記」や「屑者重宝記」に詳述されていない備前東部の動向を知るうえで,また農村部の村役人・被差別部落民の人間関係や意識状況を知るうえでも貴重な史料である。

作者については下原村の名主高原国平であり,彼がまとめ,浄書して万波七郎右衛門に提出したと思われる。本史料は国平の書いた草稿である。

4 「御野郡竹田村穢多紋之介等の口書」

岡山藩の公文書で,一揆後に指導者に対する藩役人による取り調べがおこなわれた際の十六人の供述書である。いわゆる権力側の史料であるが,一揆指導者の意識や行動を個々に知ることができる貴重な史料である。

5 「御倹約御触書写」味野村控

安政二年の「一統御倹約御触」二十九ヵ条の内容と,各村々の対応(どのような手続きで請印を提出したか)を知ることができる。

6 「年々御触書留帳」清水村

和気町藤野・稲坪・森の三ヶ村の一揆参加者に対する処罰の覚書である。この三ヶ村の一揆への参加状況を知ることができる史料である。

7 「御請書上」

安政二年倹約令を徹底させるためにとられた支配層の動向を知ることができる。

8 「穢多結党」

安政二年倹約令を徹底させるためにとられた支配層の動向を伺い知ることができる史料である。

9@ 「御触書写」菅野村 多賀治控

天保十三年に触れ出された倹約令の内容を知ることができる。この触書のうち穢多身分に出された「別段御趣意」を歎願によって撤回させた経験があり,これに基づき,今回も歎願運動によって撤回を要求した。

なお,本史料には,渋染着用の条項はない。

9A 「御取締御触書」藤戸 祐太郎控

天保十三年に触れ出された倹約令の内容を知ることができる。9@(「御触書写」)には渋染の条項はないが,本史料には渋染の条項がある。


上記史料のいずれも「渋染一揆」を研究する際に貴重な原史料である。特に,一揆の指導者である豊五郎および豊吉の書き残した「禁服訟歎難訴記」「屑者重宝記」は,全容を解明するうえで基本史料である。また,藩側の史料である「穢多共徒党一件留帳」「御野郡竹田村穢多紋之介等の口書」も重要な史料である。前者と後者では立場のちがいが,「渋染一揆」の要因に対する意識のちがいや認識のちがいとなっており,江戸時代の身分社会を考察するうえでも重要な史料となっている。両者の相違を比較検討することを通して「渋染一揆」の歴史的意義も解明することができると考える。

従来の「渋染一揆」に関する読み物教材や小説本,教材資料には,近世政治起源説や階級闘争史観(唯物史観)など特定のイデオロギーの影響を強く受け,主観的脚色や誇大表現が多く見受けられ,必ずしも原典史料に忠実であるとは思えない。また,独自の解釈によって「渋染一揆」の実像とは大きく懸け離れた歴史像を描いているものもある。

原典史料に基づくといっても,それを読み解く個人の主観や歴史認識,歴史観等によって史実そのものが歪んでしまうこともある。

本書の序文では「…本史料につきましては皆様の研究,学習,教材などに広く活用されることを望むもの」であると述べられ,また「はじめに」においても,次のように本史料の活用を期待する趣旨が述べられている。

…部落史研究の動向を踏まえ,教育現場においても,輝かしい部落解放の闘いとして「渋染一揆」が取り上げられさまざまな形で教材化・教育実践が進められていることは喜ばしいことと言わねばならない。

しかしながら,こうした,教材化,教育実践の中には,まま,原史料に当たっていないのではないか,また,原史料の理解が不十分であるのではないかと思われるものが見受けられる。

言うまでもなく,歴史学は史実に基づき,歴史の真実を明らかにし,民衆の解放への歩みを教訓化するものでなければならない。

…教育現場に於いても,すべての教職員が同和教育に取り組むことが要請されているところである。部落史学習も独り歴史教育専門教師にのみまかせるべきではないと考えられる。

以上の観点から,本書では,渋染一揆関係史料の大部分を一冊に収録し,併せて現代語訳を付することによって,関係者の便宜に供しようと考えた次第である。

これらのことから,本書発刊に携わった関係者の方々の願いに応えるためにも,現在入手が困難な本書に所載されている史料を公開し,多くの方々が活用できるようにすることは意義があると考えている。

「渋染一揆」に関する教科書記述も,部落問題に関する記述と同様に,改訂の度に簡略化されている。それに呼応するかのように,教育現場において部落史及び部落問題学習が縮小化・形骸化されている。本書が発刊されて20年が過ぎているが,この史実から学ぶべきものは多いにもかかわらず,その間の時代の変化は,「渋染一揆」を過去の遺物であるかのように押し流している。実にさみしく,憂うべき状況と思わざるを得ない。今一度,新しい視点で「渋染一揆」が再考されることを期待する。

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「渋染一揆」原典史料

『岡山部落解放研究所紀要 第6号』に収録されている「渋染一揆」の原典史料を書き下し文と現代語訳を対照させて掲載しておく。
(PDFで作成してリンクさせているので,各表題をクリックしてください)

本紀要は発行部数も少なく,現在は入手困難である。
数人が分担しての訳業であったために文体・語句の統一が不十分であり,やや誤読・誤訳もある。また,字義の解釈や資料の考察においても不十分な面がある。
原資料が岡山大学や個人所蔵,所在不明などのため,一次史料そのものを読むことはむずかしい。私も一部のみ複写で持っているだけである。
いつの日か,研究者たちの手によって,原文(一次史料)よりの現代語訳が完成版として出版されることを期待する。

先々,時間的な余裕が生まれ再び「渋染一揆」を考察するときがきたら,現代語訳に取り組みたいと思っている。


 『御倹約御触書』(安政二年:1855):『御倹約御触書写』(味野村 控)

岡山藩が郡奉行・大庄屋(村役人)宛に出したもので,同様の触書が多くの村方文書に残されている。本史料は味野村に残されていたものである。
条文中の24ヵ条までが全領民を対象とされたもので,25ヵ条〜29ヵ条が特に穢多身分に対して出されたものである。

 『別段御触書』:『禁服訟歎難訴記』よりの抜き書き

上記の『御倹約御触書』のうち,後段の25〜29ヵ条が,いわゆる「別段御触書」と呼ばれるもので,触れ出しの時期が遅れている。

 『別段御触書』:『屑者重宝記』より抜き書き

 『歎願書』(安政三年:1856):『禁服訟歎難訴記』よりの抜き書き

『禁服訟歎難訴記』では,最初の寄合のときに庄太郎(一日村)が作成してきたもの,それを参考にして各村が作成してくるとして,その後に集まった神下村助三郎宅の寄合で豊吉(国守村)が作成し総連判の歎願書に決定したもの,その後に村役人から調印の催促が厳しくなり各村ごとに書いて提出したもの,これら3通の「歎願書」が記述されている。
本史料は,そのうち総連判の「歎願書」を転載した。

4 『歎願書』(安政三年:1856):『屑者重宝記』よりの抜き書き

『屑者重宝記』では,豊吉(国守村)が作成し総連判の「歎願書」に決定したものしか記述されていないので,それを転載した。
この両者では,条文の順序が違っていたり,内容的にはほぼ同じでありながら表記や表現がまったく違っていたりする。両作者の記憶違い(「歎願書」の原文が手元になく,記憶が曖昧であるのか),あるいは数種類の「歎願書」が作成されたので間違えているのか不明である。

 『御触書』(天保十三年:1842):『御触書写』(菅野村 多賀治 控)

『歎願書』の中に「歎願によって撤回させた」とある天保十三年の触書である。
『御触書写』には「渋染着用」の条項はない。それまでに岡山藩で触れ出されたものを再録する形になっている。

6 『御触書』(天保十三年:1842):『御取締御触写』(藤戸 祐太郎 控)

『御触書写』と同じ触書ですが,内容(条項)に異なるものがある。「無紋渋染藍染の衣類」着用命令の条文がある。

 講演録

1999年に京都府高同研山城ブロック冬季現地研修会においての講演を記録したものである。
解明や論考の不十分な点もあり,やや強引な解釈も見られる。

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なぜ「無紋渋染藍染」に抗したのか

「渋染一揆」の最大の疑問は,なぜ岡山藩は穢多身分に対して「無紋渋染藍染」の着物を強要したのか,なぜ穢多身分の人々は「無紋渋染藍染」の衣服を強要されたことに抵抗したのかです。従来より諸説ありますが,それらを批判・検証することは考えていません。人それぞれの方法論で史実の解明に向かえばいいとは思いますが,私は,史料や参考文献を読みながら他説を参考にして自分なりの考えをまとめていきたいと思っています。

気になったのは「目明」「牢番」の役負担と着衣との関係,「身分相応」「礼義引下」という言葉と「御触書」との関係です。

「別段御触書」(安政2年「御倹約御触書」の24条〜29条)の2条と5条について原文と現代語訳文を書き出してみます。

目明共義ハ平日之風体御百姓とハ相別居申事ゆへ衣類之儀ハ先迄之通差心得可申,尤絹類相用候義ハ一切不相成事(別段2条)

目明かしたちのことは,日ごろの身なりが百姓とは違っているので,着物の件は先ずこれまでのとおりであると心得よ。もっとも絹類を用いることは,一切いけない

番役等相勤候もの共,他所向役先之義ハ先是迄之通差心得可申,勿論絹類一切弥以無用之事(別段5条)

番役などを勤めている者たちは,他所に行くときや,役目の先に行くときは,先ずこれまでのとおりと心得よ。もちろん絹類は,一切着ることはいよいよもって無用である

これに先立つ天保13年(1842年)に出された「御取締御触」にある同様の条文を書き出してみます。

目明シ共義ハ平日ノ風躰平人とハ相別り居申事故,衣類之義ハ先つ是迄之通差心得可申,尤絹類相用候義ハ一切不相成事

素朴な疑問ですが,「目明」の風体=身なり(服装・衣類)は百姓(平人)とは日頃より異なっていたということはどういうことなのでしょうか。「風体」とは『広辞苑』によると「なりかたち。みなり。特に、身分や職業をうかがわれるような外見上のようす」とあります。つまり,日頃から「目明」とわかる特別な身なりをして「役目」についていたということです。ただし,実際にそのような「風体」で日常生活,あるいは役務に従事していたかどうかは定かではない。百姓や平人とは「相別」ということは,百姓や平人から見ると,一目で自分たちとは異なる「風体」から「目明」であることがわかるということです。だから「衣類之儀ハ先迄之通差心得」なのです。
ところが「嘆願書」には,次のように書かれています。

…盗賊又は強盗・荒破者等参居申時,其村引請番役人ハ不及申上,其外無役之者迄,即座一命可相拘も不厭候て,御用出精致,奉尽御忠勤所,右躰之衣類着用仕候てハ,御城下或は在々浦々到迄,盗賊又ハ胡乱ケ間鋪者,遠見より道ヲ替,逃隠行逢ひ不申,色々徘徊,左候得ば,人相見立ハ猶以難出来。然上ハ,召捕候義相成り不申。

盗賊や強盗,乱破者などがやってきた場合,その村の番役人は言うに及ばず,その外の一般の者まで,即座に,一命を投げうつのもかまわず御用向きを勤め,忠勤を尽くしておりますところです。右のような衣類を着用するようになりますと,盗賊とかあやしい者は遠くからこの衣類を見て道を替え,城下,あるいは村々や浦々まで,番役に行き逢わないように逃げ隠れし,処々を徘徊します。そうなれば,捕らえることができなくなります。

「御触書」と「嘆願書」のちがい(矛盾)をどのように考えればいいのか。藩側(「御触書」)は,「目明」を勤めている「穢多」は日頃から身なりがちがっているから着衣は今まで通りでよいという。穢多側(「嘆願書」)は,「無紋渋染藍染」という「特別」な衣服では,盗賊などに遠目からでも見分けられてしまうから「役目」を果たすことができないと主張する。

藩側の主張からわかることは,穢多の中では「目明」「番役」を勤めている者とそうでない者がいる。「目明」を勤めている者は直衣は従前通りでよい。その理由は「百姓や平人」とは「ちがう」身なりであるからで,「番役」も他所に行くときは従前通りでよい。

穢多側の主張からわかることは,「目明」の「役」についていない者も「御用」に協力している。だから,特別な衣服では盗賊などにわかってしまうので「御用」の協力ができなくなる。

「目明」の「御用」を勤める穢多は百姓とはちがう特別な身なり(衣服)をすることになっている。しかし実際には特別な衣服を着ていなかった。あるいは着る必要性が少なかったので,現実にはそれほどに問題とは感じていなかった。つまり百姓とのちがい,見た目での分け隔てはなかった。日常生活における不自由・不満はなかった。しかし,「無紋渋染藍染」に衣服を限定されれば,「見た目」での相違が明確になる。身分の差がはっきりと確認できてしまう。このことは彼らにとって非常に難渋することになる。なぜ「難渋」することになるのか。

このように考えていくと,「無紋渋染藍染」の衣服は,藩側にとっても穢多側にとっても「特別な衣類」であることはまちがいない,問題はその「意味する」ところです。藩側は「目明」の「風体」(身なり)を百姓や平人とは異なるから構わない=「無紋渋染藍染」でなくてもよいとしている。「風体」であって「衣類」と書いていないこと,「嘆願書」に「無紋渋染藍染」では見つかってしまうと主張していることなどから,もしかしたら「衣類」ではないかもしれない。見た目の様相(姿)であるかもしれない。たとえば,捕物帖などに出てくる十手を持った「親分」の姿であったのかもしれない。しかし,それこそ遠目からも見分けられることになり,まして「鬼平犯科帳」に出てくる「密偵」などのようにはなれない。
「密偵」を現在の「私服警察」と考えれば,百姓や町人と同様の容姿でなければ役に立たないでしょう。「鬼平犯科帳」には「変装する」同心が描かれていますが,江戸時代は「面体」(髷においても身分や職業,住む地域に応じた髷があった)によって身分が(「面体を隠す」の言葉が残っているように)はっきりと分けられていました。あるいは,見分けられる様相(風体)であっても,それが睨みをきかす「親分」であれば,今更,衣服がそれ以上の「特別」になっても構わないだろう。

「御触書」から考えると,「無紋渋染藍染」は「特別な衣服」ではあるが,「目明」という役目には直接は関係ないことになる。着る必要がないからです。「番役」にしても同じく,「他所向役先之義ハ先是迄之通差心得可申」ですから関係ないはずです。当然に「色」にも意味はないと考えます。「色」に関係があったとしても「見分け」「相違の明確化」に関連してのことであったと考えた方がいいと思います。「嘆願書」にある「役目」の妨げになるという先の一文は主の「理由」ではないと思います。藩側を説得するための「理由」でしかないと考えます。

むしろ,注目すべきは「右躰之衣類被為仰付候ては,老若男女に到迄精気落」「右躰之衣類,追々着用仕候てハ,世間通行相叶不申程の御趣意被為仰付」の一文ではないかと思っています。

それから岡山藩城下は江戸のような大都市ではない。役人村であった城下五ヵ村にしても町ではなく城下周辺の農村に位置しています。城下町の「目明」として犯人逮捕というより番役として街道筋を見張っているか不審者の村内侵入を見張るのが役目です。


「渋染一揆」に関しては未だ不可解・不明確な部分が多くあります。「無紋渋染藍染」に抗した理由についても藩側・穢多側の両方の史料に明確に記述されていません。「口書」(供述調書)にも書かれていません。不思議にさえ思うのは,なぜ明確に理由が書かれていないかです。しかも,今回(安政2年)が初めての御触ではなく,天保13年(1842年)にも全く同じ御触が出され,それは「嘆願」によって撤回させている。「藍染」は通常の衣類にも用いられているが,「渋染」は脚絆や前掛などに用いられるのみで衣類には不適用な素材です。潜んで見張る際に強盗や害虫などに対する防護服とでも考えたのかどうか。そのような理由付けの記述もない。
「渋染・藍染」に関してはもう少し考えてみたい。ただ,彼らが「無紋渋染藍染」に抗して立ち上がったことは史実であり,事実上の空文化に成功したことも史実です。


ここで疑問点を2つほど。1つは,「歎願書」に書かれた言い分(理由)の真偽です。「歎願書」には自分たちが経済的には貧しい状況であると書いています。しかしながら,相対的ではあっても果たして経済的にはどうだったのでしょうか?「歎願書」が実態であったのかどうか,疑問に感じています。相対的に考えて,平人(百姓)と同等かそれ以上の暮らしであったと思います。前後の文脈から考えて,貧しさを強調する一方で,それでも年貢をきちんと納めていると,自分たちの農業や番役についての忠勤ぶりを誇張するための方便とも受け取れます。

2つは,「歎願書」に書かれた穢多身分の生活実態が事実として,それにも関わらず(それを知っていて),なぜに「定紋」の禁止を命じたのでしょうか。また,穢多身分の生活状況を知らなかったにせよ,なぜ「定紋」の禁止を命じたのでしょうか。つまり,穢多身分の側からではなく,命じた岡山藩側の意図を考える必要があります。平人に向けた24ヵ条には「定紋」に関する規定はありません。

もし,29条が「倹約」を意図してのものであれば,穢多身分より圧倒的人数の多い平人にこそ,着物の新調を禁止した方が,救済米の減少や年貢納入の不足などによる経済効果をはかることができるでしょう。

彼らの「歎願書」を「屁理屈」と大庄屋が言い捨てています。平人は穢多身分の生活状況や経済力を見知っていたのではないでしょうか。そして,彼らの生活実態を役人や郡奉行に報告していたとも考えられます。だからといって,平人以上の倹約を命じて一体何のメリットがあるのでしょうか?この考えでは,従来の「近世政治起源説」の「分断支配」「百姓に優越感を感じさせる目的」と同じです。私は,「別段御触書」の目的を経済的な意味での「倹約令」ではなく,身分制の乱れを正すという意味があったと考えています。そのための見た目の「差異」の強調化・顕在化であったと考えています。

「定紋」を付けることは許された身分と,そうではない身分に「分け隔てる」ことが目的であったと思います。平人との「分け隔て」こそが彼には耐え難い「差別」であったのではないでしょうか。この意味から,「家紋」は彼らにとって「こだわる」必要があったのではないでしょうか。日頃は安い他家の家紋の着物であっても構わないが,磯部さんの言う特別なときには自らの「家紋」「定紋」を着る。それさえもが禁止される。このことは自らの「家紋」の否定とさえ感じられたのではないかと思います。江戸時代は自家の「由緒」にこだわりをもっていました。また「家」にも強い意識をもっていました。穢多身分とても同じではなかったかと思います。

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「渋染一揆」再考(5):「倹約令」の目的

天保13年(1842)の『御触書写』(清水村)より,穢多身分に出された触書を転載する。

穢多・隠亡之類,居小屋・衣類等平人ニ紛不申様別て下り可申,素商売等之義皮類は格別,其外之義は堅不相成候事

「但居小屋其外瓦付并門かまい等致候者有之候ハヽ早々取払せ候事 着類棒嶋可為事」

穢多や隠亡たちの居小屋や衣類などは,平人と紛れないように,特に引き下がること。言うまでもなく,商売などについては皮類は特別とするが,その外の物については堅く禁止する。

「ただし,居小屋などに瓦を葺いたり,門構などをしている者があれば早急に取り払わせること。着物などは,棒縞とすること」

「衣類淺黄空色無地無紋,羽織・脇差差留 但捕もの之節ハ脇差指免候事」

衣類は,浅黄色・空色・無地・無紋とすること。羽織・脇差は禁止する。ただし,捕物のときは,脇差は許可する。

まず,この史料が天保13年(1842)であることから,ペリー来航(1854)に端を発する対外国防備と治安維持を目的とした「御触書」(穢多の「制服」説)ではないことは明確である。たとえ,1837年の米船(モリソン号)浦賀来航以降,諸外国が日本近海に出現していたとか,阿片戦争の余波を警戒したとかを背景とする理由を述べようとも飛躍した論考であることは疑いようがない。むしろ,幕府による「天保の改革」にならっての(諸藩の)藩政改革であったと考えるべきである。

『禁服訟歎難訟記』の冒頭部分には,ペリー来航に関する記述があるが,国防に協力して褒美として藩主慶政が少将に任ぜられ,五家老が順番で房州へ出勤しており,そのため国内は平穏であったと書かれているだけである。

このことと合わせて,安政2年(1855)の触書は天保13年(1842)の触書を基底としており,天保13年の触書に「無紋渋染藍染」ないしは「衣類淺黄空色無地無紋」があるということから,衣類の規定が対外国勢力への示威・牽制を目的(「制服」着用)としたものでないことは明らかである。

続けて『禁服訟歎難訟記』の冒頭部分を転載してみる。

…間には非礼我察の者成ハ,分限不応衣類衣服を餝り,古来の御掟等を背,散ざんに勝手而巳に諸人増長ニ及。御上様にも,五ヶ年七ヶ年ト間を置,御倹約御触書被成けるといえ共,平百姓を始,皮多百姓共慎方,至て宜しからず。

私は,この部分が「渋染一揆」の核心と考えている。つまり,幕藩体制の要である身分制を崩す実態に対する危機感である。百姓や穢多身分の贅沢は,一方で「質素・倹約」への違反であり,他方では「身分制・身分相応」への違反であったと考える。それゆえ,「倹約令」の中に身分制を立て直すための「身分引き締め」の条項が加えられたのだと考える。それは「穢多・隠亡之類,居小屋・衣類等平人ニ紛不申様別て下り可申」に示されている。

穢多身分が「捕り物」に動員されていたのは,それが「役目」であるからで,衣類の統制とは一切関係ない。まして,外国人に対する示威・牽制として穢多身分の衣類を統一(制服)するのであれば,従来のように「羽織・脇差」を認めれば,平人とは違う風体となるわけだから,その方が十分に効果があるだろう。

「羽織・脇差」については,彼らが「番役」「目明」「捕方役」の御用に従事していたから許可されたのであって,武士の末端に位置づけられていたからではない。あくまでも身分は「穢多身分」であって武士身分ではない。役目上の組織図と身分を混同してはいけない。治安維持は役務として命じられていたに過ぎない。また,「御法」に従っていたのは穢多だけでないし,「御法」に従うことが偉いのでもない。現在でも法律に従うのは当然のことで,それを遵守したからといって偉いわけでもない。また周囲が偉いと思うわけでもない。「目明し」や「番役」と同じく「牢番」にしても,役務に忠勤したことや囚人に親切であったから偉いのでもない。

同様に,穢多身分の人々を差別した者もいただろうし,何ら差別もせず普通に接した者もいただろう。差別の具体的な実態ではなく,穢多身分と平人身分とが分け隔てられていた意味,賤視されていた事実,そこから身分差別・賤民・賤視観について考えてみたいと思っている。

何より,衣類の規定の目的は「平人ニ紛不申様別て下り可申」であって,平人との対比である。それに対して,穢多身分は何を求めたか。自らを穢多と書き記さず「皮多百姓」と書いた意味,「我等は皮多百姓である」こそが自意識であろう。武士身分の末席に位置する「穢多」としての自意識など彼らにはない。「下賤成ル穢多共候得共」と武士に対して認める一方で,彼らは自らを穢多ではなく「皮多百姓」と呼ぶ自意識をもっている。穢多であることを誇っていれば,自らを「穢多」と呼ぶだろう。そう呼べない,呼びたくない思いがあったからではないだろうか。また,「皮多百姓」と「百姓」にこだわったのも,彼らの目指した「平人化」のゆえである。彼らは,武士に対して,周囲に対して,穢多ではなく「同じ百姓」としての扱いを願ったのだと考えている。

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