2010年09月14日

「渋染一揆」再考(6):古着と新調

『屑者重宝記』所収の「別段御触書」に,次の一文がある。

新ニ調候義ハ無紋渋染藍染之外ハ決て相成不申

一,家内不手廻ニて衣類新ニ拵候義難相成者共へハ木綿古着之類買調用へ候義先不苦事。

一,家計が苦しく着物を新調することがむずかしい者たちは,木綿の古着の類を買って着ることはかまわない。

「無紋渋染藍染」の衣類の強制は,新調の場合であって,古着の場合は構わないと許可している。「歎願書」の文面を信じるならば,定紋付の着物を新調できるのは10人中1〜2人であり,他の者は古着とのことであるから,実際にすぐ難渋することはないはずである。にもかかわらず彼らは気落ちし,昼夜に涙して歎いている。

「新調」にこだわっているのは岡山藩側であり,その目的が「倹約」であれば,穢多身分の実情は「歎願書」とはちがって,皆が新調しているほどに豊かであったことになる。また,豊かであり新調できる財力をもつ穢多身分ということになれば,純粋に「倹約」に反対したことになる。だが,平人(百姓)と同じ「倹約令」については承服すると言っていることから,「倹約」に反対しているとも思えない。「渋染・藍染」の衣類が木綿と比べてそれほどに安価とも思えない。

では,なぜそれほどに「無紋渋染藍染」の衣類に反対したのだろうか。はっきりしているのは,平人(百姓)との格差(差異)をつけた「倹約令」であることだ。身分による格差(差異)は,身分による別が当然であった江戸時代にあっても,これは「身分差別」である。穢多身分が平人とは「ちがった扱い」を受けていることは事実である。そして,この不当な扱いに対して彼らは「難渋」「心外」と思っている。それゆえ,穢多身分が差別されていないとは言えない。


『御倹約御触書』及び『禁服訟歎難訟記』『穢多共徒党一件留帳』に記載されている「別段御触書」にも,【乍併,急仕替候事ハ,却て費事,迷惑可致哉ニ付,麁抹之木綿衣類,其儘当分着用先不苦シ】(しかしながら急に仕替えるのでは,かえって費用もかかり,迷惑するかもしれないので,これまで所持している粗末な木綿の着物は,そのまま当分着用してもよい)の一文がある。

【麁】という文字,訓読みでは「あらい」である。「麁服」=「麁末」な衣類 であるから,「倹約」であると思う。むしろ,あえて「別段御触書」に書かれたことに意味があると考えている。

『御倹約御触書』の第1条には,次のように書かれている。

男女衣類可為木綿ゑり袖口にも田舎絹之類之外無用,綿服目立敷染物不相成夏物ハ木綿ゆかた染地布類,帷子奈良縞高宮稿生平之類持掛り不苦候

但七十以上十歳已下之者共有合せ候麁末之絹類裡下着ニ相用候義ハ不苦候,尤小児は小切継に持懸り不苦,併目立候品は不相成候事

領民に対しては【有合せ候麁末之絹類裡下着ニ相用候義ハ不苦候】(有り合わせている粗末な絹類は,裏地・下着に用いることはかまわない)であるが,穢多身分には「別段」にて【麁抹之木綿衣類】(粗末な木綿の着物)である。

「粗末な絹類の裏地・下着」(年齢制限はあるが)と「粗末な木綿衣類」のちがい,あるいは「木綿の許可」と「木綿の禁止」のちがいが何を意味しているのだろうか。単なる「差異」の強調だろうか。それとも経済的な「格差」を顕在化させるためなのだろうか。逆に考えれば,穢多身分の経済力が平人(百姓)よりも高いことが身分制の弛みに関係していたのか。だが,『歎願書』には自分たちの貧しさが記述されている。「倹約御触書」の目的と「別段御触書」の目的,これらについても再考しなければならないだろう。


『禁服訟歎難訟記』は,神下村判頭豊五郎が書き記したものである。彼は「穢多身分」である。この『禁服訟歎難訟記』は,拙HPに現代語訳版を転載しているが,良く読めばわかると思うが,会話文の箇所では,庄屋及び村役人は「穢多」と呼んでいるし,彼らに自らのことを述べる場面でも「穢多」を使っている。また「御倹約御触書」及び「歎願書」でも「穢多」と呼ばれ,自らを「穢多」とも呼んでいる。しかし,他の箇所では「皮多百姓」と記述している。つまり,会話を含めて客観的な場面(事実)の記述では「穢多」を使い,豊五郎が自らの意見や考えを述べている箇所,たとえば冒頭の部分では「皮多百姓」と自らを呼んでいる。

『禁服訟歎難訟記』も『屑者重宝記』も共に記録書である。事実を客観的に記述しているのがほとんどであり,自分たちの言動や庄屋・村役人との会話によって成り立っている。だが,所々に豊五郎の所感が書かれている。その部分では「皮多百姓」と自分たちのことを記述している。このような点,他身分との関係性に留意して読み深めれば,彼らの自意識がわかるだろう。

「穢多(身分)」であることを誇りに思っていれば,「皮多百姓」の呼称を使うことはなく,謙った表現とはいえ「下賤なる穢多」などと自らを呼ぶこともない。私には「謙虚さ」だけとも思えない。やはり自らの身分的立場に対する「卑屈さ」を感じると同時に,自らが置かれている身分的立場への怒りも感じられる。それが「皮多百姓」であるという自負心となっていると思う。

「賤民」であるかどうかが問題ではない。「賤民」と見なしている人間と社会が問題なのである。「同じ人間」であるかどうか,同じ人間であっても「賤民」であるかどうか,同じ人間であっても自分たちとは「ちがう」かどうか,それを決めるのは,見なす側の意識の問題である。「賤民」が存在したかどうかの問題ではない。

posted by 藤田孝志 at 15:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 渋染一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「渋染一揆」再考(4):家紋

『池田家履歴略記続集・後編』に「穢多結党」と題する「渋染一揆」に関する記述がある。『池田家履歴略記』とは,岡山藩主池田家の通史であり,歴代の重要事件を編年体で物語風に記述したものである。

「穢多結党」の冒頭に,穢多たちに対して別段条項を出した理由が書かれている。

旧来穢多共銘々定紋の服は停止なりしかとも近来法度ゆるみてひそかに新調せしかは此度の改革にて復古すへきとて命を出せし也。

旧来,穢多たちは,それぞれの家紋の付いた着物は禁止されていたけれども,近年,法度がゆるんで,こっそりと新調しているので,この度の改革で元のとおりにすべきだと倹約令を出したのである。

また,『穢多共徒党一件留帳』には,次のような興味深い記述がある。この『穢多共徒党一件留帳』は,下原村の名主高原国平が書いて,和気郡藤野村の大庄屋万波七郎右衛門に提出した報告書の草稿である。大庄屋万波七郎右衛門の組下であった藤野・稲坪・森の三ヵ村の被差別部落民が「渋染一揆」に参加した動向を記したものである。

尤,外部穢多共も大意同様歎書出シ候由。篤と相考候処,願面甚潤餝ニて御下知相拒候文意ニ当り,是ニては御趣意ニ障り,御聞上も有之間敷,郡中大庄屋中内談之上,指当り迷惑之廉,藍染・渋染両条御歎申上遣候ハヽ,何も指支も有之間敷,其段組合三ケ村ニも及理解候処,定紋御免之儀歎出。併,是ハ指支之訳ニ無之段,及理解候得共,聢と承服不致に付,則,内々歎書左之通相認。郡中同役へも移合候処,外組々ハ承服致候様子ニ相聞候得とも藤野村穢多とも兎角定紋之処御歎ニ外れ候ては,外部穢多共御免相成候節当郡定紋丈洩れ候様相成候ては迷惑仕候段,先御見合可被下と村役人之申出全承服不仕ニ付,正面指出不申候得とも,御両頭様へも御内見ニ入れ候ニ付,左ニ留置申候。

もっとも,他の村の穢多たちも,大意は同じような歎願書を差し出したとのことである。よく考えてみたところ,願いの書面が甚だしく屁理屈をこね命令を拒否する内容になっているので,これでは,お上の趣意に障って,聞き上げられることはない。そこで郡中の大庄屋たちが内々に相談し,「差し当たり迷惑する藍染・渋染に関する両条について歎願を申し上げてやるから,何も差し支えることはなかろう」と,そのことを組合の三カ村に説得した。ところが,「定紋付についても許可してもらいたい」と,歎き出てきた。しかし,これは差し支えることはないと説得をしたけれども,はっきりと承服しないので,則ち,内々に歎願書を左のとおり書いた。

郡中の同役の者にも連絡したところ,外の組々は承服した様子に聞いたけれども,藤野村の穢多たちは,ともかく定紋のところが,歎願から外れたのでは,外の郡の穢多たちにお許しがあった際,当郡の定紋だけが洩れるようなことになる。それでは,迷惑すると言って,先ず,見合わせてくれと村役人に申し出て,全く承服しないので,正式の書面は差し出さなかったけれども,御両頭様(郡奉行・代官)へも内見しておいたので,左に記しておく。

この2つの史料から,「無紋」と「渋染藍染」は別々の問題として考える必要があるように思う。「渋染藍染」が許されても「定紋」が許されなければ困ると歎願していることからも,彼らにとって「家紋」「定紋」は重要な問題であったことがわかる。

他の史料(口書)に「渋染藍染」の「染色」を問題にして歎願したとの記述もあった。「家紋」「定紋」と合わせて,「無紋渋染藍染」の意味と歎願の理由について考えてみたいと思っている。

posted by 藤田孝志 at 15:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 渋染一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「渋染一揆」再考(2):嘆願の本旨

歎願の本旨は,「嘆願書」の最後に書いている「乍併右御趣意之印形奉指上候へば弥以向後渋染藍染之外ハ着用不相成哉と乍恐奉存」(右の御趣意を承諾する押印をしてしまえば,いよいよもって,今後,渋染・藍染の外の着物は着られなくなるのではないかと存じます。)であるが,その本旨の理由として述べている8ヵ条より,役目との関係を理由にしている部分について考察してみたい。

非常之御備ニも相成居申者共ニ候得ば右躰別段御隔被為仰付候ては最早一同無甲斐。勿論,若者共は農業等も打捨可申程ニ性気ヲ落し心外歎敷奉存候」

(非常の際の警備にもついている者たちですから,右のような別途のお触れで百姓とわけ隔てをなさっては,もはや,私たち一同生きる甲斐もありません。もちろん,若者たちは農業等をほってしまうほど元気をなくして,心外で歎かわしく存じます。)

城下近在五ケ村穢多共番役等仕居申者数有之。尚又御牢屋敷死科之者有之節其手御用相勤居申者も多人数御座候へば五ケ村穢多共ハ素より其外之類村同様兼て御用害之穢多役人故年々村々え御米四俵宛奉頂戴居申義諏訪御用之節奉尽御忠勤身分ニて乍恐御座候故御百姓様一同御承知被為有候得ば兼て役人村と御唱被成故盗賊又は強盗荒破者等参居申時其村引請番役人は不及申上ニ其外無役之者共迄即座一命ニ可相拘も不厭候て御用出情致奉尽用忠勤候処ニ右躰之衣類着用仕候ては,御城下或は在々浦々迄も盗賊又は胡乱ケ間敷者遠見より道ヲ替逃隠行逢ヒ不申。左候へば人相見立は尚以出来かたく然ル上は召捕候義相叶不申。其時御用忽懈怠と罷成候様乍恐奉存候。

(城下近くの五ヵ村の穢多たちは,番役などの役目についている者が多くいます。また,牢屋で死刑になった者があった時には,その処理のための仕事についている者も大勢います。従って,五ヵ村穢多たちはもとより,その外の穢多村も同じように,かねてから御用害の穢多役人であるので,毎年村々に米四俵宛をいただいているのです。いざ,御用のとき,忠勤を尽くす身分の者です。それ故百姓一同は,このことを承知しておるので,かねて,役人村と呼んでいるので,盗賊又は,強盗・スパイなどがやってきたときには,その村の引請の番役人は言うまでもなく,その外,無役の者までが,すぐに一命にかかわるのもいとわず,御用に精を出し,忠勤を尽くしてきました。それなのに,右のような着物を着たのでは,城下あるいは村々・浦々でも盗賊や怪しげな者たちが遠くから見つけて道をかえて逃げかくれして,行き合うこともできなくなります。そうなると,人相を確かめることは一層むつかしくなり,その上,捕らえることはできなくなります。その時は,忽ち,御用を怠ることになると存じます。)

                             (『屑者重宝記』「歎願書」)

私は,【右躰別段御隔被為仰付候ては】の一文に彼らが「渋染藍染の衣類」を拒否したいと思った「理由」があると考えている。彼らは「渋染藍染の衣類」の強要を「百姓との分け隔て」であると受けとめている。つまり,彼らは岡山藩が別段の触書を出した目的を「百姓との分け隔て」と見ているのである。

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「渋染一揆」再考(3):「別段御触書」

安政2(1855)年に岡山藩より出された『御倹約御触書』のうち,穢多身分に対してのみ出された「別段5ヵ条」を原文と現代語訳(『岡山部落解放研究所紀要』6号)より転載して,若干の私見(疑問)を述べておきたいと思う。

25条(別段1条)

穢多衣類無紋渋染藍染ニ限り候義勿論之事ニ候,乍然急ニ仕替候てハ却て費ヲ生シ迷惑可致哉ニ付,是迄持かかり麁末之もめん衣類其儘当分着用先不苦,持かゝりニても定紋付之分ハ着用無用,素藍染渋染之外ハ新調候義は決て不相成事

穢多の着物は,無地の渋染藍染に限ることはもちろんのことである。しかしながら急に仕替えるのでは,かえって費用もかかり,迷惑するかもしれないので,これまで所持している粗末な木綿の着物は,そのまま当分着用してもよろしい。所持しているものでも,定紋付のものは着てはいけない。もとより,藍染渋染の外は,新調することは決してならない。

研究所の現代語訳では「無紋」を「無地」としているが,「紋の付いていない」の意味である。
確かに「無紋渋染藍染」となっていることから「無紋」で(の)「渋染」か「藍染」の衣類と解釈すれば,「無紋」も「規制(禁止)条件」ではある。また,「持かゝりニても定紋付之分ハ着用無用」とあるように「定紋付」の即禁止が命じられている点を考えれば,「紋付きの衣類」着用が岡山藩にとって政治上(支配・統制上)の妨げとなったと考えられる。ただ,このことが穢多身分の者にとってはどうであったのかは考察の必要がある。

「定紋付」に対比する歎願の一文を「歎願書」より転載してみる。

持掛りニても,定紋付之分,決て着用不相用候様,被為仰付,奉恐入,然共,新調銘々定紋付抔仕居申者御座候。尤,一ケ村ニ壱人ト弐人は有問鋪程も,乍恐無叶,十人ハ七八迄縞紋之古着買求,着用仕候ゆへ,紋付等之染地は別て値段下直御座候得ば,皆他之定紋ニて乍恐御座候。難渋之者ニてハ,兎角代物引合,値段下直之物ヲ好ミ,損益不厭,当分の身凌致衣類之義ハ,只壱匁ニても御年貢指支之時分引当致,兎角手早上納仕義,一同心配相励居申処,此度之御趣意承り候てハ,老若男女共,身分如何相成り候哉と,昼夜之苦ミ難尽申上,明々涙ヲ流し,如何之因縁ニて,又候別段之御下知被為仰付,心外歎鋪奉存候。

現在所有している物でも,定紋付の着物は決して着用してはならないと仰せ付けになられ,恐れ入っております。しかしながら新調するとき,銘々の定紋付のものなどを作る者などはこざいません。もっとも,一ヵ村に一人や二人は定紋付を作る者があるかもしれませんが,恐れながらほとんどみんなそういう物は作れません。十人の中,七〜八人までの者は縞柄紋付の古着を買って着ております。紋付などの染地はとりわけ安価なので,恐れながら,皆他の家の定紋でごさいます。難渋している者はとかく代金の引き合う,安価な物を好み,損得をあれこれ言わす,当座の暮らしを切り抜けています。年貢を納めるとき不足があれば,衣類はたったの一匁であっても年貢が差し支えたときにその不足を埋めるのに使い,とにかくさっさと年貢を納めることをみんなが心配りし,励んでおるところです。ですのにこの度のお触れを承知しますと,老若男女とも,身の上がどのようになるだろうかと,昼夜をとおして苦悩しておりますことは筆舌に尽くし難うごさいます。みんな涙を流し,何の因果でまたしてもこのような別段の命令を下されたのか,心外で歎かわしいことだと思っています。

「歎願書」全文を見ても,「定紋付」のみに関して難渋な思いを述べている部分は上の一文だけである。他は「右躰之衣類」と表現している。「定紋付」が着用できないことのみが彼らを一揆にまで走らせた理由とは思えない。

上記の「歎願理由」から推察できることは,古着屋において定紋付の着物が安価であるということは,無紋(無地)の着物よりも定紋付の着物が多かったということであり,定紋付の着物を新調していた町人や武士が古着を売っていたということであろうか。無紋の方が高いとは,染め直して自家の紋を入れることができるからか,それとも他家の紋を着ることは「貧しさ」の証左であったのか。あるいは「格式」から皆があまり購入しなかったからか。「損益不厭」の意味するところは何か。

定紋付を新調する穢多身分の者(家)があるということは豊かさの証左であり,経済格差があったということだが,「皆他之定紋ニて乍恐御座候」ということはそれぞれ自家の紋があったということでもある。ならば,自家の紋と同じ紋の古着を購入すればよいと考えるが,そうはならず,定紋付の方が安いということは,同じ家紋が少なかったということだろうか。

定紋付の着物であれば,生地にしてもよいものを用いると考えるのは妥当だろう。まして町家や武家であれば尚更だろう。しかし,それが安価というのは,生地に関係なく新調の際は皆「定紋付」にしていたと考えるべきだろう。

ここでは「定紋付」を着用できないことは,<自家の家紋を否認された=他身分との隔て>と受けとめたと考えるか,あるいは経済的困窮につながると不安感を募らせたと考えるかだと思う。

私は「無紋渋染藍染」はワンセットであると考えている。つまり,「無紋渋染藍染」=他身分との差異を明確にする目的である,と考えている。

『高槻市史』(第4巻 史料編)に所収されている「87 皮多服装規制につき連判請書」を転載してみる。

御請書

此度,当所本照寺御堂地築御座候ニ付,私共去十五日右地築ニ罷出候節,身分不相応之衣服等着用仕候儀,御差当御叱リヲ受,此儀一言之申訳

茂無御座恐入候,此上右躰之儀御座候而,私共罷出候とも,身分相応之麁服を着し候而,随分竊ニ相慎罷出候間,何分此度私共心得違不調法之段御免被

成下候様願上候,此上御当村者勿論他村江稼ニ罷出候節,一切不礼ヶ間敷儀決而致シ申間敷候,若雨天之節本郷江罷出候共,傘・けた等是又急度着用致シ申間敷候,何卒此度心得違不調法之段幾重ニ茂御免被成下候様御願申上候,仍而御請書一統連判差上候,以上

江戸時代の「御触書」に頻繁に出てくる「理由」がここにも書かれている。それは「身分不相応之衣服」「身分相応之麁服を着し候而」「心得違不調法之段」「心得違不調法之段」である。つまり,身分不相応な衣類を着用したことは心得違いである,という身分制社会のルール違反を咎めていることである。これは「渋染一揆」も同じである。

『禁服訟歎難訟記』に,村々の役人が穢多たちを呼び集めて「御倹約御触書」を命じるとき,次のように言い聞かせている。

元来身分賤者之義故,平の百姓ニ対シ,身分之程考候て,礼義引下,万事相慎可申義,勿論之事候。前々より,触為知候得共,間にハ心得違,非礼我察之挙働致候者共有之候趣相聞,不埒之事ニ候。

つまり,着衣には「身分相応」の衣服があり,それを守ることは「礼義」であり,守らないのは「心得違い」である。これが江戸時代の身分制社会なのである。

このように考察すれば,「無紋渋染藍染」の着衣強要は「身分統制」であると解釈できる。逆に,穢多身分がこれに対して反対したのは,身分統制が他身分との分け隔て(差異・差別の強化)となるからであると考える。

穢多身分の者が「目明し」などの役務に忠実であり,法を遵守する立場の考えから「無紋渋染藍染」に反対したのであれば,まして「制服」着用に対する反対であれば,上記のような村々の役人からの言い聞かせなどあり得ないことだろう。まして外国人に対する「威圧」の存在として顕在化させる必要があれば,その旨を明確に示して言い聞かせるだろう。そんなことはどこにも書かれてはいない。

26条(別段2条)

目明共義ハ平日之風体御百姓とハ相別居申事ゆへ衣類之儀ハ先迄之通差心得可申,尤絹類相用候義ハ一切不相成事

目明かしたちのことは,日ごろの身なりが百姓とは違っているので,着物の件は先ずこれまでのとおりであると心得よ。もっとも絹類を用いることは,一切いけない。

この一文の趣旨は「平日之風体御百姓とハ相別居申事」にある。この一文から「無紋渋染藍染」の衣服が武士や町人ではなく百姓との相違を明確にするという目的であることが推察できる。「目明」の役務に従事している者は従前通りでよいのだから,この一文からも「制服」などでないことは明らかである。まして「尤絹類相用候義ハ一切不相成事」など付け加える意味(必要性)はない。

百姓との風体が異なるから,あえて「身分統制」(衣服によって身分の差を明らかにすること。穢多身分と一目で見分けられること)の必要性がないのである。

『江戸の犯罪白書』(重松一義)には同心・与力の風体について書かれているが,いわゆる捕物帖に描かれる「目明」「岡っ引」「下っ引」の服装にしても態度にしても,やはり一目でそれとわかる。「捕方」「行刑役」「番役」も同じである。

27条(別段3条)

雨天之節隣家或ハ村内同輩等へ参候節も土足ニ相成候てハ迷惑可致哉ニ付左様之節ハくり下駄相用候義先見免シ可申,尤見知候御百姓ニ行逢候ハ,下駄ぬき時宜いたし可申,他村程隔候所へ参候ニ下駄用候義ハ無用之事

雨天のとき,隣家や村内のなかま等の家へ行くとき,はだしであっては迷惑するであろうから,そのようなときは,くり下駄を履くことは,先ず認める。もっとも,顔見知りの百姓に行き会ったならば,下駄をぬいで,お辞儀をせよ。他村などの遠くへ行くときは,下駄を用いることは無用である。

この一文は,村内と村外での風体を「下駄の有無」で差異の明確化をはかっている。村内であれば,誰が見ても穢多身分の者と識別できる。しかし,村外で,しかも服装等が百姓と大差なければ穢多身分の者とはわからない。当然,態度も言動も「礼義」を失したり,「非礼我察」ともなるだろう。何より身分の差異はわかりにくく,身分統制はとれない。この一文の目的は,下駄の有無による身分の明確化である。

では,「歎願書」において,なぜこの一文に関しては反対(拒否)していないのか。その必要性が少ないからである。「歎願書」には日頃から百姓に対して礼義を守って慎んでいると書いてあることは事実であろう。だから,百姓への「下駄ぬき時宜いたし可申」はさほどに問題視していないと考えられる。現在とちがって村内人口も多くないだろうし,日に幾度も近隣の百姓に出会うこともなかったのではないだろうか。また村外に出ることが度々あったとも思えない。

それに,「無紋渋染藍染」の着衣でなければ,平人(百姓・町人)と見分けの付かぬ衣服であれば,村外に出ればわからないだろうから,「無紋渋染藍染」の強要を撤回させることができれば,この条文も実質的には無意味となる。

28条(別段4条)

身元相応ニ暮し御年貢米進不致もの之家内女子之分ハ,格別ニ竹柄白張傘相用候義見免可申事

身分相応に暮らし,年貢を滞納していない家の女子については,特別,竹の柄の白張傘を使用することは認める。

この条文からは,雨天時の傘の使用を禁止しているかどうかは不明である。ただ,先の「尤絹類相用候義ハ一切不相成事」(26条)や「勿論絹類一切弥以無用之事」(29条)から,さらに「御倹約御触書」の趣旨と合わせて考えれば,贅沢禁止と受け取ることができる。

「竹柄白張傘」は安価で粗末な傘である。これに「限定」することは,百姓身分との差異の明確化と,穢多身分であることの顕在化を意味している。「御倹約御触書」の領民全員に対して出された(別段以外の)24条のうち,20条と21条に「傘」に関する規制がある。

20条

日傘雪駄相用申間敷候,但女ハ白渋張傘は不苦候事

日傘・雪駄は用いないこと。ただし,女は白の渋張傘はかまわない。

21条

雨天之節みの笠相用可申,手傘相用候とも竹之柄白張傘くり下駄之外無用

雨天の日は,蓑傘を用いること。手傘を用いても,竹の柄で白張傘。栗下駄の外は使用してはいけない。

20条は「日傘・雪駄」は贅沢品であることから,倹約の目的であることは明らかである。「渋張」は「柿渋」に撥水性があることでよく使われていた。

21条と28条を比べて,内容に特別の差はない。「身元相応ニ暮し御年貢米進不致もの之家内女子之分ハ」という「条件」の差だけである。この「条件」から年貢確保を促していることはまちがいない。だからこそ,逆に「歎願書」に,自分たちがどのように苦労しながらも年貢を納めようとしてきたかを述べている。また,岡山藩が同じ身分内にも格差・差異を付けていることがわかる。

これら(別段御触書)により,否応なく「穢多身分であること」「穢多身分に限定された生活を強いられること」を甘受させられることになる。彼らが反対・拒否した理由であると考えている。

29条(別段5条)

番役等相勤候もの共,他所向役先之義ハ先是迄之通差心得可申,勿論絹類一切弥以無用之事

番役などを勤めている者たちは,他所に行くときや,役目の先に行くときは,先ずこれまでのとおりと心得よ。もちろん絹類は,一切着ることはいよいよもって無用である。

この条文にも「条件」が付いている。「番役等」を勤めている者で,「他所」に行くときや「役目先」に行くとき,に限られている。なぜ,他所に行くときは「無紋渋染藍染」の衣類を着用しなくてもよいのかが疑問である。先の26条との関わりから,日頃の風体がちがうからだろうか。あるいは,「役目」(番役)を勤めていること自体が「平人とのちがい」(身分の差異)を明白にしているからだろうか。


「身分の差異」を「差別」と捉えるかどうかで意見の分かれるところだが,支配者側(岡山藩)からの「規制命令」であることから身分統制は「身分差別」であると考える。先の21条と28条を比べてみるまでもなく,「御倹約御触書」において,穢多身分と他身分に対する身分統制の差異,岡山藩による「扱い」が身分によって差を付けていることは歴然である。これを「身分差別」と言わず何というのだろうか。

「御倹約御触書」の目的は「倹約令」と「身分統制」である。このことは「別段御触書」においても同じである。

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「渋染一揆」関連史

●1702(元禄15)年,「御役目拒否(返上)」

「穢多頭」の多左衛門が「(処刑した罪人の)死骸を取り片付ける役目は,御百姓であるわれわれがやるべき仕事ではないはずだ」と主張し,役目を公然と拒否し,争った。

慣例(死刑囚の死骸の片付けは穢多,処罰以外の死骸の片付けは隠亡)ではあっても,藩令に拒否し,係争となった。

所轄の大庄屋南方村の庄次郎の「御百姓は(死骸の片付けなど)しない。するのは乞食(非人)である。」という意見から「我々穢多は乞食(非人)とは違い,御百姓である。したがって死骸の片付けは我々の仕事ではない。」と考えたと伝えられている。

また,「穢多」身分であっても「御百姓」であるといった意識を持っており,この「御百姓」意識は,岡山藩主池田光政の言説に由来するといわれている。穢多を不浄であるという側近をたしなめ,自分の領内に住む者であれば「穢多も一統わが百姓」といった。また,光政の問いに,穢多の米は不浄の米ゆえ米で納めさせていないといったため,わが百姓に相違ない部落の者を左様に分け隔てするいわれはないと,米納に改めるように申しつけた。

身分が異なれば扱いが違うのは当然のことであり,「同じ人間」であるという意識から「穢多」扱いを受けていることに抵抗したのではなく自分達は「御百姓」なので「御百姓」として扱って然るべきといった主張である。

●1782(天明2)年,「真宗(浄土真宗)への改宗拒否」

備前・備中・美作12ヶ寺に対し,真言宗から浄土真宗に改宗するように命じる。幕府の改宗強制に対し,岡山藩常福寺の檀家は徹底的に拒否する。

岡山における被差別部落の「旦那寺」は,慶長19年頃に実施された宗門改めによって檀家制度とともにつくられた。備中・美作は,被差別部落の方で僧侶を招き入れ寺をつくった。備前は,先の中納言(宇喜多秀家)の時,国守に刑番を置き,寺も置いた。元禄元年以前は,高野山寿福院を本山とし,備中の大宝寺を中本山とした。備前の常福寺,備中の増福寺,美作の大法寺という関係があったが,本山が退転したため1688(元禄元)年以降は本山をもたない単独の寺となった。

改宗は,大法寺の住職であった海順の訴状が契機となった。海順は修行のために本山を求め,高野山の金剛峯寺に本山を頼むが,皮田の寺で真言宗の末寺はないと断られた。海順は,本山を求めるきっかけとなった本願寺の塔頭・金福寺の僧,玉琳の「もし浄土真宗でよければ金福寺の末寺になりなさい」という言葉に従おうと考え,檀家に話した。15ヶ村の内11ヶ村は賛成するが,有力な檀家が反対する。そして,海順が所用で大阪に行っている間に,海順を寺から追放した。海順は困り,久世の代官所や大阪奉行所に訴え出るが取り上げてもらえず,ついに,大阪で目安箱に訴状を投書した。老中田沼意次のもと審議され,12年後の1782(天明2)年,万年七郎右右衛門(大阪代官)によって「真言宗に皮田寺はないのだから,一向宗(浄土真宗)であるべきだ」と判決が下された。この結果,美作・備中の寺は改宗した。備前には皮田寺は常福寺しかなく,その頃の住職であった智信(智心)は檀家の強固な反対のため退院してしまう。これに対し,岡山藩は強制的に改宗を命じることはなく藩内の真言宗の仮旦那とした。仮受入先となった真言宗の寺院は常福寺の檀家に対し,葬式があっても戒名だけつけて葬式には行かない(送戒名),法事があっても行かないといったことをし続けた。しかし,常福寺の檀家は常福寺の再興を要求し続けた。1796(寛政2)年,新しく神社奉行となった湯浅新兵衛によって,明王院の弟子「周温」を住職とし真言宗の寺院として常福寺は再興した。

「渋染一揆」において指導者的役割を果たした城下5ヶ村も常福寺の檀家であり,最初の惣寄合が開かれ,以後も度々寄合いがもたれた場所が「常福寺」でもある。

●1794(寛政6)年,「伊勢大神楽事件」

岡山県上道郡の村々を伊勢大新楽の一行が神楽を勤めていた。穢多達が自分たちの村でも神楽を勤めてくれるよう楽頭に依頼したところ拒否された。そこで,穢多達は,楽頭に激しく抗議した。そのため楽頭は,その地域を治めている名主の元を訪れ,穢多達を抑えるよう訴え出た。ところが,名主はなにもしなかった。困り果てた楽頭は岡山藩に訴え出た。その結果,伊勢大新楽の一行はこの地域にて神楽を勤めることを禁止され,以後,慶応3年まで来ていない。

当時の社会的地位の向上,分け隔てに対する抵抗・抗議が日常的に行われていたことが窺える。穢多村は少数であり本村(百姓)が多数の環境でありながらも,百姓に引けを取ることなく自分達の主張をしていた。百姓と同等の扱いを求め,拒否された場合は実力行使も行っている。

●1796(寛政8)年,15年にわたる(常福寺檀家による)改宗拒否および抗議を受け,常福寺が(真言宗のまま)再興となった。

●1833(天保4)年,衣類・家の造作・傘下駄の使用などの取り締まり令を発令する。

●1842(天保13)年6月,「穢多隠亡之類居小屋衣類等平人に紛し不申様別て引下がり可申(えた おんぼう)などといった者の家の造りや身なりが平人(百姓・町民)と区別できない状態となっているため,それぞれが身分をわきまえるべきである)」と申し渡す。

●同年7月,「風俗取締令(倹約令)」を発令し穢多の衣類について紋なし藍染・渋染に限定したが,目明かしを通じて嘆願し撤回となる。

●1843(天保14)年,1833年の取締令を繰り返し発令する。

●1850(嘉永3)年,1833年の取締令を繰り返し発令する。

●1855(安政3)年12月,倹約御触書(倹約令29箇条)を発令する。

●1856(安政4)年1月,発令された「別段御触書(5箇条)」の撤回を求め,嘆願運動を始める。

●1871(明治4)年,解放令 → 解放令反対一揆

●1902(明治35)年8月,三好伊平次が備前・備中・美作など県下の同志に呼びかけ,岡山市外石井村の常福寺に,県下の部落代表52名を結集して「備作平民会」の創立大会を開催した。三好は,岡崎熊吉とともに総務として,この運動を全県下に拡げた。全国に先駆けて結成された部落民が自らの力で差別を摘廃しようとした全県的組織であった。

●1921(大正10)年,水平社創立

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「渋染一揆」再考(7):染色

「渋染一揆」に関して,従前の「渋染」の衣服が存在しない(庶民の通常の衣類ではなかった)という説や認識は訂正する必要があると考えている。昨年末より衣服について調べていて,柿渋の衣服は存在したし,安価な実用的な衣服であるとわかった。では,なぜ岡山藩の穢多身分の人々が一揆まで起こすほどに反発したのだろうか。

岡山部落解放研究所の好並隆司氏が「所報」に『渋染一揆再論』として,「渋衣は非人が用いたという歴史的経緯」をもとに,渋色(柿色)の衣服は非人系の着けるものという認識が穢多にあったから反発したとの論を展開されている。

この渋着物については,“迷惑至極”“一同共……気落ち……生甲斐なく”とある。百姓と全く同じだとは思っていないのだから,その落胆というのは何に基づくのだろうか。嫁や婿もこないということも挙げている。他国の「穢多」が結婚相手だから,この渋着物が障害になるということは「穢多」以下の扱いというしかないだろう。先述の「非人」系衣類が渋色であるというのがここで思い出せるのである。備前の「穢多」は他領のそれよりも一層,普通の百姓に近い(年貢納付)のに他領の「穢多」よりも一層低い地位に下げられることが憤懣の理由であったろう。

…ただそのことは反面,「非人」と同視されることに対する,“迷惑至極”という意識も同時に胚胎しているのを認めないわけにはいかない。

   (好並隆司 「岡山部落解放研究所所報」第193号『渋染一揆再論』)

年末の大掃除の際,書籍や資料の整理をしていて出てきたもので,10年前にはさほど気にもとめていなかった論考だが,読み返してみて合点がいく部分もある。確かに岡山藩においては,それ以前にも非人と穢多の対立は幾度かあり,訴訟・裁判にまで至っている。また,非人系の村も幾ヶ所か散在していましたが,渋染一揆には参加していない。

「非人の衣服であるという認識」が前提として彼らにあったかどうかがポイントである。私は「渋染一揆」の原因は「色」ではないと思っている。「非人の着衣の色」ではないと考えている。「色」に差別生があるのであれば,住本氏が言うように,一般民衆は「柿色(赤褐色)」や「灰色」を避けるはずだ。しかし,尚も疑問は残る。それは「藍染」である。最も一般的な木綿の衣服であり,染めであった「藍染」をなぜ拒否したのか。また,なぜ「渋染」だけでなく「藍染」も命じたのか。


久保井規夫氏は『江戸時代の被差別民衆』において,次のように述べている。

なぜ,渋染(柿色・赤茶色・赤錆色)や藍染(青色),浅葱色(うすい藍色)や白色などが,部落の人々に強要されたのでしょうか。

…(中略)…

渋染(柿色)は,中世からの偏見で血の色を表しているとして恐れられ,平人とは違った修験者(山伏)・悪党(無法者),検非違使(警察)たちが着たり,また犬神人のような下級神人や従者とか,あるいは乞食・「癩者」(ハンセン病)の着衣の色でした。

また,藍染・浅葱色・薄灰色などは青衣とよばれ,あの世の亡者・死人とか,乞食・「癩者」とか,従者・召使などの色とされてきました。そして,渋染(柿色)・藍染は「ひ人」の着衣や芝居小屋の幕,遊女屋の暖簾,あるいは牢獄に入れられたときの罪人の獄衣の色とされました。

だから,幕府や藩は目立つということだけでなく,偏見で差別されてきた色の着衣を部落の人々に強要してきたのです。

これに対して,住本健次氏は「渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か」(『脱常識の部落問題』)で,次のように批判している。

藍で染めると,布が堅牢になるばかりでなく,洗えば洗うほど色がさえてくるので,浴衣や職人の作業着に使われた。商店の暖簾もたいてい藍染の紺色であった。また,藍染は特有の匂いのために,マムシや毒虫避けの効果があった。そのため,野外で働く人や旅の人は,たっぷり藍にひたした紺色の野良着や足袋や脚絆などが必需品であった。つまり,江戸時代の農民はたいてい藍染を着ていたのである。

藍染は何回も染めて色を濃くしていくが,色名も薄い順に「甕覗き」「水浅黄」「浅黄(浅黄)」「縹」「藍」「納戸」「紺」「紫紺」などと呼ばれた。その中に「褐色」(かち色)とか,「勝色」と呼ばれる色名があった。これは濃い藍色であるが,褐色は「勝つにつながり,縁起がよい」ということから,武士がもっとも愛好した色であった。…(略)…

藍染業者は「紺屋」とよばれたが,紺屋町という地名がほとんどの城下町に残っている。紺屋町は藍染業者が集住した町であるが,藍染に対する需要がなければ,こんなに全国各地に紺屋町が成立するはずがない。…(略)…

このように,藍染の藍色・紺色は「人が嫌がる色」であるどころか「武士から庶民まで,多くの人々が愛好した色」であったのである。

        …(中略)…

柿渋には防水効果があるので,傘や団扇,漁網や釣り糸の染に使われたりしたが,備後,つまり「渋染一揆」の舞台となった付近では,木綿の渋染が行われていたことがわかる。…「渋染の前垂れ」といえば,造り酒屋や醤油屋の職人を意味することばであった。つまり,渋染はひとの嫌がる特別の染ではなかったことがわかる。

        …(中略)…

網野善彦さんは「蓑笠と柿帷」で,「中世では,山伏や非人・乞食は柿色の衣服を着ていた」ということを明らかにしている。山伏や非人が着ていたという柿色の衣服は柿渋を塗った渋衣であり,それはまた,防水の必要のためであったと考えられる。そのため,中世では柿色は差別のシンボル色とみなされたのであるが,しかし江戸時代もそうであったとは限らない。

じつは江戸時代には,「四十八茶,百鼠」という表現があった。これは「微妙に色合いの違う多くの茶色やねずみ色が流行した」という意味のことばである。

        …(中略)…

「茶の色は江戸時代の代表色であり,しかもこの系統の色はわが国ではどの時代でも愛用されて,日本伝統の基調色となっている」と述べている。そのなかには,「団十郎茶」「路考茶」「利休茶」「憲法茶」など,人名に由来する色名も少なくないし,「唐茶」「江戸茶」「遠州茶」など,現在では,どんな色か想像もできない色名もある。こうしたことは江戸時代の人々の茶色に対する関心の高さを示している。

つまり,江戸時代の人々にとって,茶色系統の色は「人をはずかしめる色」でも,「人々が嫌った色」でもなく,むしろもっとも好んだ色であったのである。

久保井氏と住本氏の論点は,「特定の色」を「差別の対象」「差別の根拠」としたかどうか,また「特定の色」を避けたかどうかである。つまり,「色による差別」があったかどうかである。換言すれば,「差別・賤視の対象」を「色」によって選別したかどうかである。久保井氏は中世における賤民の着衣の「色」(特定の色の衣服を身につけていた)を前提に論を展開している。

(ここで,住本氏の間違いを指摘しておきたい。「備後」は岡山県西部から広島県東部であって,渋染一揆の舞台は「備前」である。)

同様に,上杉氏も次のように述べている。

江戸時代の各藩の賤民の服装規則に,穢多は藍染めの場合が多い。これを「浅黄」色とすることもある。正式には「浅葱」色と書き,いずれも「あさぎ」と読み,青(空)色のこと。

一方,非人は柿色ないし渋色とされることが多い。どちらも赤茶色のこと。とはいえ,穢多が青色,非人が赤茶色と完全に決まってばかりはいない。入れ替わって逆に穢多が赤茶色,非人が青色の場合もあった。いずれにせよ,これらは賤民の色だったのだ。

ただ,この二つの色が賤民の色だということは,ごく一部の藩を除けば,ほとんど忘れられ始めており,その点では,これらの色が囚人の衣服に使われていたことの方がよく知られていた。江戸時代の囚人たちは,赤茶か青色の服を着せられていたのだ。

…(中略)…

非人が渋(赤茶)色の衣装を着る風習は,中世にさかのぼる。当時ひろく非人とよばれていた宿非人(犬神人),ハンセン病者などが赤茶色の服を着ていた…

そのような目で見ると,江戸時代に入っても歌舞伎の市川団十郎が,柿(渋)色を代々の家の色と定めていたこともうなずける。役者には,「河原者」とさげすまれた歴史があったからだ。

…(中略)…

明治の初めまで囚人にこの色の服が着せられたのも,罪人は非人と同一視される傾向が,中世以来あったことを考えれば納得できる。

(上杉聰「部落史こぼれ話」『部落史がかわる』所収)

これに対して,住本氏は「色」による賤視・差別はなかったと主張し,その根拠として江戸時代の着衣に用いられた「染色」を例示して,庶民がそれらの「色」を好んだと論じている。

ここで両者の根拠に対する疑問を述べてみたい。

まず,中世における「色による差別」があったのかどうか,あるいは「特定の色」が「偏見で差別されてきた色」であったのかどうか。また,中世における「偏見で差別されてきた色」が近世においても人々の認識は変わらず同じであったのかどうか,である。

では,その「特定の色」を人々は避けたのかどうか,つまり着衣の色に用いなかったのかどうか。これについては,住本氏が述べているように必ずしもそうではなかった。
『江戸の庶民の朝から晩まで』に次の一文がある。

ファッションリーダーとなったのは,歌舞伎役者たち。男はひいきの役者が身に着けた衣装の模様や配色を真似た。

たとえば,「團十郎茶」と呼ばれる色は,歌舞伎界のスーパースター市川團十郎が,歌舞伎十八番のひとつ「暫」のなかで身に着けた巨大な大紋の地色のこと。ベンガラと茶渋で染めたやや黄みがかった茶色で,舞台の引き幕にも使われるなど大流行した色だ。

もともと,茶色は江戸時代の流行色だったが,茶系とひと口にいっても,俗に「四十八茶」と呼ばれたほど,さまざまな色合いがあった。

さらに,茶色よりも多数の色があったのは,「百鼠」と呼ばれる鼠色。灰色やグレーといった色だけでなく,彩度が鈍く感じられる色全般をさした。ひと言に鼠色といっても,緑がかったグレーをさす「利休鼠」から,赤みがかったグレーをさす「梅鼠」まで,じつに多様な色があったのだ。江戸っ子の色彩感覚は,敏感で繊細だったのである。

岡山県史 民俗1』の第5章「衣食住」にも「藍染」「草木染」に関する記述がある。これによれば,「着物や布団など衣料の地糸はすべて紺で藍染にした」とあり,その理由は「藍に染めれば,堅牢で,虫がつかず,糸も強くなった」からである。ただし,「藍は発酵が難しく染めるのに時間と技術がいったから,紺屋に頼んで染めて」もらったそうである。当時は「綿を植え,糸にひき,機で織りあげるまで,ほとんど自家の作業であったが,綿打ちと藍染だけは職人に頼んだ」ことから,「各地に紺屋があり,自分の近所になくても隣村にあるというふうであった。」と書かれている。

藍染の色合いは,漬け加減と中干しの回数により,染め賃の高い方から,上紺・中紺・下紺・オリイロ・浅黄・カメノゾキであった。仕事着は浅黄やカメノゾキであった。古着や色が褪せれば再び染め直した。

草木染で,茶系統の色合いを出す場合に「柿渋」を利用したとあるが,同じ茶系統でも媒染剤によって「渋茶・うぐいす茶・黄茶・赤茶」などに染まり,灰色や鼠色には「桐の木・灰・ドングリの渋」が利用されたとある。

これらのことからも,藍染・渋染は百姓・町人の日常の衣類・衣服であり,「染色」も様々な色があったことが推測できる。また,繰り返し出される「倹約御触書」では,他藩においてもだが,必ず「絹類」を贅沢として禁止している。度々触れ出すことは,実態としては守られていないと考えていいだろう。


住本氏は「藍色」「茶色」と一括りにして論じているが,藍染も渋染も多様な種類の「色」があるということは,藍色・茶色の中で特定の色,たとえば好並氏や久保井氏の言う「浅黄色」「赤茶色」のみが「賤民の色」だったとも考えられる。

住本氏の批判に答えて,久保井氏が「渋染一揆,被差別民衆が柿渋染を拒絶した思いを正しく認識するために……渋染一揆再考への反論」を展開している。

住本健次氏は『脱常識の部落問題』(かもがわ出版,1998年)所収の「渋染一揆再考:渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か」で,報告者を批判し,渋染も藍染もひとの嫌がる特別の染ではなかったと主張している。ここには重大な誤解があるので,反批判をおこなう。

住本氏は岡山藩の布令でなぜ別段倹約令として「無紋,渋染・藍染に限る」とされたのかに,きちんと答えていない。無紋とは,家紋のあるいわゆる紋付だけでなく,ひろく紋様やがらのない無地単色を指す。当時すでに紋様の染め織りが一般化しており,貧困層は古着を買いもとめて着ていた。ところが無紋となれば新調するしかなく,倹約どころか,かえって出費がかさむと,一揆側が反論している。

住本氏が渋染を茶色一般にすりかえたうえで,江戸期にもっとも庶民から好まれたと記しているのは,誤りである。渋染は赤系統の色として受けとられていた。中世では渋染が布の強化や防水や防腐のため麻布に用いられたが,これは被差別民の装いであった。近世には木綿の染め織りが爆発的に普及したが,渋染は木綿に適さず,染めると固くなるので染糸もできないため,当時すでにすたれていた。なお,茶系色の流行は,幕府の奢侈禁令による色の制限との関連が深い。

ここでいわれる藍染とは,浅葱(浅黄・浅藍)と呼ばれる,染めの一番浅い,安物の青灰色のことである。他藩での衣服統制令では「浅葱」と明記される例が確認できるうえ,渋染一揆以前の岡山藩の御触書でも「浅葱空色無地無紋」との文言が見られる。この浅葱色とは,じつは獄衣,つまり囚人服の色なのである。なお,明治政府の獄衣も,柿渋色と浅葱色を伝統的に踏襲していた。

住本氏はまた,問題を倹約令一般と取りちがえているため,断罪を覚悟で一揆にたちあがった民衆の思いを説明できていない。一揆参加者の著作であると考えられる『禁服訟嘆難訴記』は原題が『穢多渋着物一件』であり,ここからも彼らが渋染を強く拒絶したことがうかがわれるが,同史料所収の嘆願書には「倹約令が百姓同様なら承諾もするが,衣類を別段にされることはお断り申し上げる」「無地の渋染のところを免じて,百姓同様にしてください」という旨の記述がある。一揆の論理はさらに,役人としての実務の観点から,識別されやすい衣服では,盗賊や不審者に気づかれてしまって不合理だとの批判も展開している。領主にたいしての務めを果たしていることに百姓と「何の違いぞあるや」とする強い自負心が,その抵抗の源泉にあったことを感じ取られる。これは一般の百姓との差別分断政策であり,差別が子孫にまでおよぶことを阻止した彼らの思いに心を重ねたい。

私も住本氏が結論としている「それでは,渋染や藍染の強制が倹約令として意味を持つのはどういう状況であろうか。たとえば,当時の被差別部落の人々のなかに,渋染・藍染以上の高価な染物を着ている者がいたならば,藍染の強要は『倹約令』としての意味を持つ。」には賛成しかねる。確かに,「別段御触書」といわれるが,まったく別の法令として出されてはおらず「御倹約御触書」として29か条が出されている。だからといって「倹約令」としての目的と意味で出されたとはいえないだろう。

岡山藩の「御倹約御触書」の24か条はすべての領民(穢多・非人・隠亡も含む)に出されているから,穢多・非人もまた経済的に百姓や町人と大差のない暮らしをしていた以上,絹類の衣服も所持していたと考えてもいいだろう。それがたとえ「古着」であっても「絹類」であったことは想像に難しくない。「別段御触書」は,穢多身分に対してのみ出されている。つまり,穢多身分は24か条+5か条を命じられたと考えるべきで,そのうえで「別段御触書」5か条の目的と意味を考えなければならない。

穢多身分を対象とした「別段御触書」の5か条には次のように書かれている。これは明らかに百姓との差異を明確にすること,身分差別を目的にしている。「倹約令」ということで「はだし」「くり下駄」を強要する意味がそれほどにあるだろうか。私は,「倹約令」の目的に,つまり「別段御触書」として穢多身分のみに強要した5か条には,身分の差異を明確にすること,すなわち身分差別の徹底があったと考える。

27条(別段3条)

雨天之節隣家或ハ村内同輩等へ参候節も土足ニ相成候てハ迷惑可致哉ニ付左様之節ハくり下駄相用候義先見免シ可申,尤見知候御百姓ニ行逢候ハ,下駄ぬき時宜いたし可申,他村程隔候所へ参候ニ下駄用候義ハ無用之事

もっとも雨天のとき,隣家や村内のなかま等の家へ行くとき,はだしであっては迷惑するであろうから,そのようなときは,くり下駄を履くことは,先ず認める。もっとも,顔見知りの百姓に行き会ったならば,下駄をぬいで,お辞儀をせよ。他村などの遠くへ行くときは,下駄を用いることは無用である。

『禁服訟歎難訟記』にある「嘆願書」では「藍染渋染」を<別段衣類>と書いている。何が「別段」なのだろうか。百姓とは異なるという意味か,あるいは「藍染・渋染」が「特別」なのか。先に見たように,「藍染・渋染」は「特別な」衣類ではない。普通の日常着である。つまり,「藍染・渋染」自体は,差別を強要するものではない。では,あらためて「色」が関係するのであろうか。先に述べたように,「藍染・渋染」のうちで,特定の「色」(浅黄色・赤茶色)が「賤民の色」であるならば,差別の強要という目的・意味も考えられる。だが,中世の社会通念が,たとえば延喜式におけるケガレ観が近世の服忌令に反映されているように,近世においても人々の認識にもあったのかどうか。

現時点での私の結論は,「特定の色」が「差別・賤視の色」であったかどうかは別にしても,その強要が「身分の差異の明確化」であったと考えている。

偏見や独断,先入観を排して史実を客観的事象として考察することが重要である。

posted by 藤田孝志 at 06:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 渋染一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月13日

「渋染一揆」再考(1):衣服統制

「渋染一揆」最大の謎は,岡山藩のほぼすべての穢多が一揆を起こすほどに「渋染藍染の衣類着用」に反対したのか,である。この謎の解明の前提となるのは,近世岡山藩における穢多身分の社会的・身分的な存在関係である。岡山藩が穢多身分をどのように社会的・身分的に位置づけていたのか,「役目」として何を負担させたのか,また,他身分が穢多身分をどのように認知(社会的認識)していたのか,そして,穢多身分は自分たちの置かれている社会的・身分的な位置と関係性をどのように認識していたのか,である。つまり,岡山藩・他身分・穢多身分・他の賤民身分の相互関係を明らかにする必要がある。


穢多身分は「番役」等の治安維持に関する「役目」を自分たちの本来の「仕事」(生業)とは受けとめていない。岡山藩及び町村から命じられた「役務」と認識している。このことは「歎願書」の次の文からも明らかである。

非常之御備ニも相成居申者共ニ候
(非常の際の警備にもついている者たち)

城下近在五ケ村穢多共番役等仕居申者数有之。尚又御牢屋敷死科之者有之節其手御用相勤居申者も多人数御座候へば五ケ村穢多共ハ素より其外之類村同様兼て御用害之穢多役人故年々村々え御米四俵宛奉頂戴居申義
(城下近くの五ヵ村の穢多たちは,番役などの役目についている者が多くいます。また,牢屋で死刑になった者があった時には,その処理のための仕事についている者も大勢います。従って,五ヵ村穢多たちはもとより,その外の穢多村も同じように,かねてから御用害の穢多役人であるので,毎年村々に米四俵宛をいただいているのです。

つまり,「番役」や「行刑・処理役」などは「非常」(日常ではない)の際の「役務」(義務として労力を提供すること)であって,本来(日常)の仕事(生業)は百姓と同様の農業である。このことは「歎願書」にもはっきりと書いてあるし,『禁服訟歎難訟記』にも明言している。また,「倹約御触書」の「目明共義」(26条)「番役等相勤候もの共」(29条)と書いてあることからも明らかである。たとえ(「番役等」を)命じられていない者までもが「即座一命可相拘も不厭候」「一統不顧身命」の覚悟で「忠勤」しようとも,それはあくまでも「御用」としての「役務」であって,その「役目」の代価である「御米四俵」によって生計を立てているのではない。武士が生活苦から内職や庭先で農作物を栽培しているのとは根本的にちがい,彼らの本来の仕事(生業)は「農業」であり,百姓同様に「年貢」も納めている。

【諏訪御用之節奉尽御忠勤身分(いざ,御用のとき,忠勤を尽くす身分の者)】とは,「番役等」の「役目」を命じられた者として「忠勤」を尽くしていると述べているのであって,武士身分につながる(と同じ)身分(社会的立場)と自らを認識してはいない。「役務」としての「役目」を自覚して一生懸命に勤めていると述べているに過ぎない。「役目」はすべての身分に応じて定められており,その身分に相応した生活・生き方が義務づけられるのが身分制社会のあり方である。それぞれの「役目」を果たすことは「役務」であって,当然守るべきことである。まして「御用」に対して「米四俵」を出している(出すことを命じられている)町方や百姓にしてみれば,「番役等」など「穢多役人」としての役務を「忠勤」するのは当然と思っている。「役務」に忠実に責任と使命感をもって働くのは他身分においても同じである。なにも穢多身分だけが特別に責任と使命感をもっていたわけではない。「役目」を「忠勤」することと「差別」・「賤視」されることは別である。

「渋染藍染」の衣類着用が(「番役」「穢多役人」などの)「役目」の妨げになるというのが「理由」であれば,「歎願書」に書かれた他の「理由」は不必要だろう。もっと具体的に根拠を例示して述べることで説得力をもたすだろう。しかし,寄合での話し合いにおいても,そのようなことが議論されたとは書かれていない。何よりも,「倹約御触書」の【目明共義ハ平日之風体御百姓とハ相別居申事ゆへ衣類之儀ハ先迄之通差心得可申】と矛盾することになる。これについて,命じられた者(村)以外(其外之類村)も同様に(「目明」などに)「忠勤」を尽くしている(そのように日頃から心がけている)から穢多全員が困ることになるという理由では,藩側は納得できないだろう。なぜなら,「目明」に着衣を免除した理由を【平日之風体御百姓とハ相別居申事】としているからである。つまり,藩側の「渋染藍染」の着衣強要の理由は「百姓との区別」であるからだ。だからこそ,「歎願書」の中にも「御隔」という言葉(此度別段御隔ニ預り候ては巳後他国通行も難相成)が書かれているのである。

私は,この「御隔」がキーワードと考えている。身分制社会にあって「身分のちがい」(隔)は絶対である。「歎願書」にも【古来穢多共身分御隔ニ相成候故】【下賤成ル穢多共】の文言が書かれている。その一方で,百姓と同様の倹約内容については受け入れるが自分たちだけの別段の内容についてはお許しくださいと歎願している。

「渋染藍染」の着用により「役務」を果たせなくなることが「世間通行相叶不申程」「老若男女に至迄精気落,農業守も打捨可申程」までに彼らを苦慮させる理由だろうか,疑問である。「役目」の妨げになることは,「歎願書」に書かれている他の内容と同じく「理由」の一つでしかないと考えている。


「御倹約御触書」が出されたのは安政2(1855)年であるが,その2年前(嘉永6年:1863年)にペリーが来航し,黒船来航と大騒ぎとなり,岡山藩にも房総半島や摂津沿岸の警備が幕府から命じられた。岡山藩でも,そのための費用や防備のための費用に相当の出費を強いられた。その対策として「安政の改革」断行,その一環としての「御倹約御触書」であった。

ペリー来航による外国への驚異に関しては,『禁服訟歎難訟記』に【よって,両御国郡静に納りけれハ】と書いてあるように,「渋染一揆」との直接的な関係は伺えない。また,岡山藩の関係文献にも外国に対する防備の記述はあるが,外国人を対象とした治安維持などは書かれていない。
外国人に関する取り締まりの法令が出されてもいない。

岡山藩では,安政2年の「御倹約御触書」とほぼ同じものを,天保13年(1842年)にも出している。これは,阿片戦争(1840〜1842)によって清が敗れ南京条約が結ばれた年である。「御取締御触」は6月,穢多身分に「渋染藍染」を命じた「覚」は8月に出されている。南京条約が結ばれたのは8月29日であるが,岡山藩はその影響を逸速く察知していたのだろうか,そんなことはありえない。私は「渋染一揆」と外国との関係はないと考えている。そこまでの驚異を外国に感じていれば,他の方法を考えるだろうし,穢多の歎願を受け入れることもしなかっただろう。何よりも,その趣旨を明確に書き伝えているであろう。


「渋染一揆」の強訴形態は,他の百姓一揆と同じである。『カムイ伝』に描かれている竹槍・斧や鍬,筵旗という様相などは,よほどの一揆の場合であり,通常の強訴は武力衝突ではない。これについては,近年出版されている百姓一揆に関する研究を読めば理解できる。「渋染一揆」の強訴は,その計画性や準備は万全を期しているが,それほど悲壮感の漂うものではなく,伊木若狭との交渉の場であった野営地においては飲酒もあったようである。


では,「渋染藍染」がなぜ「平人」とは異なる衣服であるのか。それほどに特殊・特異な衣服なのだろうか。遠見にも穢多とわかるほどの衣服とは如何なるものだろうか。それほどに「平人」が着用しない衣服なのだろうか。目立たせること(見た目の相違をはっきりとさせること)が目的であれば,たとえば明治の近代軍制による「軍服」(戊辰戦争時の統一された軍服のような)にすればいいと思うが,はたして「渋染藍染」の衣類とはどのようなものだったのだろうか。しかし,実際には着用していないし,そのような(渋染の)衣類が存在していたことも聞かない。他藩における衣服強要(統制)とも比較して考察する必要を感じている。

長崎人権研究所『もやい』(50号 特集「身分と身形−衣服統制を中心に」)に掲載されている九州各県の報告と史料は,他藩の「衣服統制」との比較として参考になる。

結論的に言うならば,「衣服統制」の目的は「身分統制」である。江戸社会にあって「身形」こそがその人物が何者であるかを尤も端的に示す指標であったから,穢多・非人身分の者が百姓・町人身分と同様(混同)の「身形」をすれば(分不相応となり),身分社会の秩序の根幹を揺るがすことになる。身分の「分」は服装や所作に表れる(服装や所作を身分の外的表示)と認識されていたのである。

「衣服統制」として紹介されている今回の史料にも,「紛れ」という文言が随所に見られる。つまり,「不似合之身形」「法外之働いたし」といった「平人ニ越」すような行状,つまり平人(百姓・町人)と混同するような「身形」をして,平人と交わり(交流・付き合い)をする行いが「不埒」「心得違い」と認識され,それを立て直すために様々な「衣服統制」の法令が出されたのである。

穢多共掛襟申渡之事
  申渡    穢多共
  安永七戌年

一 右の者共,御城下廻且市廻,其外在町市場押えなど都而諸御用に罷出候節は,着物に黄色の襟を掛け申すべく候,是迄着類の差別これなく,紛わしきにつき,自今右の通り申付け候間,此段穢多共え堅く申付け,銘々堅く相守り心得違い致さざる様其方共より申渡すべき旨申渡様,郡奉行中申渡され候也
   八月   代官役

     岡藩(「申渡」安永七年[1778年]8月)

 申渡
此度穢多非人身分之儀ニ付,別紙之通公儀より被仰出候間,其旨申渡堅被相守可申候,万一心得違不埒於有之,急度被仰付候間,堅申渡被相守候様被取計候,
一 穢多共着類法外之儀有之候相聞,向後浅黄染・渋染に限可申候尤穢多共御用ニ出候節々掛致候様,着類夏冬共都て掛襟致,常々着可致候,万一心得違百姓町人ニ紛,不法之節於有之,急度可申付候
一 目明共之儀着類染色右同断,尤掛襟不及,是又百姓町人ニ紛れ不法之節於有之,急度可申付候
  戌十一月廿九日   郡奉行

岡藩(「申渡」安永七年[1778年]11月)

従来,「分断支配」として「上下の差」を強調して「優越感を抱かせて不満をそらす」は,「結果」であって「目的」ではなかったと考える。確かに「同一身分内」では「上下の身分格差」は強調されていた。同じ平人であっても,町人には「軽い絹類」は許しても,百姓には停止し着類は木綿に限るというように,身分格差を表している。同一身分内における「身分格差の明確化」と,他身分間との「身分の明確化」は別として考えるべきだと思う。

「身分の明確化」としての「身分表示」では,各県の史料に「札」が紹介されている。

非人頭勤方,其外手子之者取掛之儀,不行届筋茂相聞,如何鋪候,近年ニ至,諸事俗人ニ紛敷致方茂有之,其上賄之諸勝負等相催,平人交り仕候者茂有之様ニ相聞,不届ニ候,尤他所より相越候非人・乞食類留置候カ,宿致候者,其段早速町同心小頭江申達,聞届之上留置,春之二月人別書可差出候処,是又近頃無其儀,我儘ニ他所者差置候筋茂間々有之候様ニ相聞候,以来右躰猥之筋於有之ハ,非人頭御糾明之上,急度被仰付有之事

一 非人札不相下ケ,他出等仕間敷所,札不相下ケ非人有之様相聞候,巳来右躰之者於有之ハ,手当次第御領内追払可申付候間,其段相心得可申候

一 平人ニ交り,博奕ハ勿論,喧嘩口論仕間鋪候,於相背ニハ,急度被仰付方有之事候,

   右之通被仰付候,急度相守候様可被申渡候

   八月朔日  明和二酉年

明和二酉(1765)年八月一日(延岡藩『内藤家文書』)

非人頭江

一 御城下江罷在ル非人共江先日札相渡置候処,此度相改男女共ニ人別ニ新札相渡候間,町在江罷出候節ハ人別ニ腰江付紛敷無之様可致,乍去  召捕候もの又ハ尋者等為穿鑿罷出候節,札見へ候而ハ差支ニ意味て有之候ゝ,其事ニ限懐中致候儀は不苦候

文化十四(1817年)四月十四日晴(延岡藩『内藤家文書』)

「非人札」「勧進札」のない者は寮内への立ち入りを禁止している。この「非人札」は勧進の許可書でもある。「非人札」の強制は,上記史料の明和二年からですが,強制する藩側の理由は「俗人に紛らわし」く区別できないからと述べている。

文化十四年の史料では,「非人札」のない者は名前と住所を聞き,門立を禁止するように通達している。だが,犯人の逮捕や尋ね者等の詮索に出かけるときは非人札が見えては捜査の支障になるようなら,その時に限り懐中に入れておいても構わないとしている。

なお,同藩の他の史料には,郡方が穢多頭を「盗賊方掛」に任命し,刀を差させることは盗賊の取り締まりにもつながると郡奉行に願い出ている。また,穢多頭が多額の献納によって平日も脇差しを許可(御免)されていたり,息子への世襲時に許可を引き継がせてもらっている。また,非人頭が「目明し」の役目に精を出し,藩の中で重要な働きをしていることへの優遇措置として,他所への外出時に「目明し名目」で脇差(刀)を差すことを許可している。

他県の史料にも「目明し」の役に就いている記述があり,御用の際には一部であるが着類の制限がゆるめられていたり,帯刀が許可されている。

穢多・非人身分と「目明し」役や行刑役の関わりは地域によっての「相違」は大きいが,「非人番」も含め,武士の下働きとしての役目であったと思う。「下働き」を職務からとらえるか,身分制度下の職制としてとらえるかで実態の解釈も異なってくると考える。また,平人身分の人々が穢多・非人身分の人々をどのように見ていたのか,接していたのか,それが明らかになることによって江戸時代の身分制社会の実相も明らかになる。


長崎人権研究所の阿南氏から,「穢多」身分・「非人」身分ともに「胡乱者」対策(市中見廻り)に従事していること,キリシタン迫害期に「かわた」(皮屋)が,処刑等の手伝いを命じられていること(但し,彼らの本業は履き物づくり),浦上四番崩れの際に皮屋町(穢多身分)住民が潜伏キリシタンの捕縛にあたっていることなどを教示してもらった。

どちらにせよ,彼らが主体となって「詮索」「捕縛」「行刑」「牢番」を行っているのではない。「役目」として命じられ,与力や同心の指揮命令下で行っている。単純に,これらの「役目」と現在の警察機構(警察業務)とを同じと考えるのは早計であると思う。体制や機構,給金体系など,社会制度や社会意識がちがう。総合的に考察する必要があると考えている。

「衣服統制」や「身分札掲示」は,黒川みどり氏の言う「徴」としてとらえることができる。つまり,本人以外の者(立場)から本人が望まない(むしろ嫌がる・拒否する)「目印」を強要されることである。この「目印」は一見して穢多・非人身分と識別できるものであり,他身分には強制されない。

寛政七(1795)年の長崎(対馬藩)の史料では,穢多である札を帯に付けさせ,さらに編笠も末々の者と紛れぬように「手安き仕形」で素人の目に付くように印を付けるように命じられている。

「札」や「半襟」などが「目明し」としての印(警察手帳や階級章)という考えもあるだろうが,そうであれば,なぜ「御用」の際には付けなくてもよいとか懐中に入れておいても構わないと申し渡すのだろうか。捜査の支障になるからが理由であれば,「目明し」としての印ではないことになる。つまり,「衣服統制」は穢多・非人身分の「役目」上の規制・命令ではなく,身分制社会を維持していくために身分の明確化を明示する目的で出されたのである。差別とは,本人の意図しない「分け隔て」である。身分制社会であっても,身分による分け隔ては「差別」である。

穢多・非人身分が百姓・町人よりも厳しい統制を受けたのは,彼らが「目明し」役に従事していたからではなく,平人身分と交わり混同していくことで身分の差異が「紛らわしい」状態になることを身分制社会の崩壊につながると危惧したからである。「衣服統制」は身分制社会の根幹である「身分相応」を守るために命じられたのだ。

posted by 藤田孝志 at 21:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 渋染一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月11日

岡山の部落解放史(1)

明治維新がある日突然に起こったのではなく,新しい社会体制を目指した動きが社会の中で進行していた結果として起こったように「解放令」もまた唐突に出されたのではない。幕末期に被差別身分の人々は様々な身分解放の努力をしていた。
身分制度の維持を不可能とする意識が為政者の間にも生まれてきた。そのような社会体制の揺らぎの中で,解放令は生まれるべくして生まれたのである。すなわち,解放への動きが「解放令」を出させたのである。「水平社」もまた解放令以後に各地における被差別部落の人々による積極的な努力と挫折の繰り返しの延長上に生まれたのである。

歴史は「流れ」である。人々の意識の変化や努力が歴史を動かしている。マルクスは「意識が存在を規定するのではなく,社会存在が意識を規定する」というが,差別意識によって社会存在が規定されたのが被差別民であり被差別部落である。マルクスの唯物史観に欠落しているのは,人間心理の作用であり,差別意識に基づく差別関係が「排除の関係」であることから下部構造と上部構造の規定・被規定の関係に左右されず「枠外の存在」として残存し続けていることである。
被差別民の生産する皮革製品や細工物の需要は大きく,大名や領主にとって武具や馬具の確保から自らの支配下に彼らを置くことは必要不可欠であった。また死牛馬処理や行刑など社会的に必要な「役負担」は生業とは別に彼らに負荷された役割であり,生産関係の変化に対応しないものであった。
つまり,一方で「社会外の存在」として排除された差別関係でありながら,支配層や社会に必要な特定の役負担を命じられたことで生産関係を固定化された社会存在が被差別民であった。そこには,生産関係よりも差別関係や差別意識の作用や影響が強い。
たとえ支配層からの差別意識を強化させる巧みなイデオロギー操作がおこなわれたとしても(それも支配者の意識であるが),人々の差別意識が被差別民という社会存在を規定していることは確かである。このことは,同対法以後に貧困などの生活改善施策がおこなわれ生活環境面ではほとんど格差がなくなっても,なお人々の差別意識の克服が大きな課題として残存していることが証明している。

江戸時代は身分制度に縛られた社会である。身分によって生活様式が他身分とは異なるように仕向けられ,身分という枠組みの中での生活を余儀なくされていた。ただし,それは支配層である武士身分と被支配層である民衆との身分上の大枠においてであって,民衆における身分差はそれほどではない。その中にあって被差別民は「社会外の存在」「人外の存在」と規定され,身分差よりも賤視感によって排除されていた。その理由を身分のちがいにしていたのである。


明治維新により江戸幕府が崩壊し,政治体制が改編されていく中で,「四民平等」により身分制度が改められ「解放令」により賤民制度も含めて消滅した。ここで「解放令」の意義を通して「解放令」前後の社会的変化をまとめておきたい。

江戸時代の被差別民に対する差別が幕府や藩の出す法律によって定められた法制的制度的差別であったのに対し「解放令」によって合法的な差別ができなくなった。
すなわち,差別の法的根拠がなくなった。
差別の形態から考えた場合,「解放令」以降の部落差別は,法制的・制度的な差別ではなく慣習的な差別,すなわち社会的差別である。

「社会外の存在」として<排除>されてきた被差別民が,「平民」身分に編入されることで,「社会内の存在」として平民と同様の権利が国家(法)により認められた。すなわち,今まで村などの共同体社会から<制限され,排除されてきたこと>への参加(参入)ができるようになった。

「解放令」によって,封建社会と近代社会が区分される結果となった。
すなわち,法的根拠によって身分差別が強制され,固定化された身分にはそれ固有の役負担が結びついていた封建社会が終わった(解体した)のが「解放令」の発布によってである。権利でもあった役負担と結びついていた皮革業などの職業がだれでも自由に従事できるようになった。被差別民は賤業を拒否するようになり,逆に商業資本は皮革業に進出した。

「解放令」は制度上の変化でしかないが,その変化を受けとめた人々の意識が新たな歴史を生み出していったのである。端的に述べるならば,明治政府も人間の集合体であり,その政策は個々人の「意志」の集約によってなされたものである。つまり政府の役人であれ,資本家,地主,隣村の百姓,町民であれ,同じくその時代に生きた人間である以上,その時代を支配している社会通念,社会慣習,社会規範の影響下にあった。それゆえ,江戸時代の身分制度によって植え付けられた「差別意識」を払拭していない人々が「解放令」以後の状況という「歴史」を生み出したのである。
差別を当然と考え,今まで「排除すること」を当たり前としてきた人々にとって,「社会外の存在」としか思わなかった被差別民が「解放令」を契機として,自分たちの社会に入ってくることは恐怖と嫌悪しかなかった実態と,「解放令」を自らの「身分(立場・状況)からの解放」ととらえて実際に行動にうつした被差別民との間の確執が,資本主義が発展していく社会状況において,今日の部落差別の温床を形成したのである。

すなわち,江戸時代において被差別身分固有の仕事であり,特権的な権利として保障されていた「死牛馬処理」に付随する皮革業,さらに雪駄草履の製作などの産業は決して安定した収入ではなかった。しかも「解放令」によって職業の自由が認められた結果,資本家によって部落産業が侵食されていった。
(賤業に対する拒否の動きをとった部落も多くあり,そのことが資本家の進出を容易にさせた原因でもあるが)その結果,わずかな農業収入や雑業による収入しか生活の糧を得る手段のなかった多くの部落は窮乏化するしかなかった。

また,江戸時代において権力が中心となって,公然と法的に差別政策をおこない,民衆の「差別意識・賤視観念」を増幅させ,洗脳し教化してきた歴史的経緯を考えれば,「解放令」の一文だけでは,真の対等な社会関係を結べないことは容易に予想できたはずである。にもかかわらず,明治政府は,そうした社会通念あるいは慣習的に差別意識を日常生活化させてきた民衆への教育や啓蒙をおこなわなかった。
このことが,現在も部落差別が残存する最大の要因である。さらには,濃厚に植えつけられた「差別意識」が民衆の中に浸透している以上,差別事件が起こることは予想できたにもかかわらず,差別を受ける側に対する救済措置や人権保障が用意されなかった。ただし,これらは現代の人権思想に基づいた価値観であって,当時にはなかった価値観である。

 明治政府の政策意図にもかかわらず,「解放令」は被差別民に大きな喜びをもたらした。その喜びは,有名な『五万日の日延べ』の前段によく表されており,同様の喜びは各地の史料にも残されている。さらに,「解放令」を契機に,死牛馬処理,皮革製品の製作や売買」といった賤業の返上や拒否を積極的に行っていった。
このことは,江戸時代の身分制度において身分と役目の固定化のために否応無しに従事させられていた仕事や役目からの脱却をどれほど強く希求していたかという被差別民の「思い」の具現化と理解すべきである。また,氏神祭礼への参加など,従来より排斥されてきた共同体の行事に積極的に参加しようとする動き(要求)は,脱賤化と同時に「解放令」の明示した「平民と同様」を周辺に認めさせようとする「思い」の表れであった。

他方で一般民衆は,被差別部落民の積極的な脱賤化の動き,すなわち「平民」と同様の扱いを要求する行動に対して,自分たちの職業を奪い,生活を脅かすと受け取った。つまり,「社会外の存在」と認識していた被差別民の脱賤化の動きは,「社会内」である村社会=共同体への侵入と写ったのである。その結果,彼らの侵入=「平民」と同様の扱いの要求に対して拒絶し,従来どおりの「排除の関係」を守ろうとしたのである。
具体的な例としては,入浴や髪結の拒否,商品販売の拒絶,日雇いや小作の拒否,入会地の利用を拒否などがある。さらには,被差別民の脱賤化による平等を求めた行動は,民衆には「増長している」「傲慢である」としか写らず,「解放令」の布告そのものの取り消しを求める「解放令反対一揆」をおこし,被差別部落を焼き払い,多くの被差別民を殺傷するまでに至っている。

「解放令」反対一揆が起きたのは,一部の民衆が遅れた意識に災いされたのではなく自分たちこそ世の中を支えている百姓だという,みずからの権利を主張する根拠となった意識が,同時に百姓ではない被差別部落を差別して当然とすることにつながったという,当時の多くの民衆の意識のあり方にこそ求められるべきでしょう。

 …そう理解しないかぎり,現代に通じる深刻な結婚差別や就職差別,それを建前としては批判しながら実際にはなくならない,私たちの意識のあり様を厳しく問い直すことはできません。そうした民衆の意識を私たちはどれだけ克服できているのでしょうか。

(渡辺俊雄 『いま,部落史がおもしろい』)


もとの穢多に戻るということは,たとえば,道で農民とすれ違うときに,道をよけて土下座して,通り過ぎるのを待たなければならないんです。…ちょうど武士に対して農民がやらなければならないようなことを,被差別部落の人は農民に対してやらされていたんです。

…いわゆる水のみ百姓であってもそうなんです。あるいは,農民の前では下駄を履いてはならない,あるいは雨でも傘をさしてはならない。…草履を脱いで家の中に入るんです。

…そういうことを明治の四年までやらされていたわけです。しかし,賤民廃止令(解放令)以降,みんなそれをやめました。道であったらぺこりとおじぎをして,立ったままあいさつして通り過ぎるわけです。…「わしは水のみ百姓だけども,あいつとは違う。あれは穢多じゃ。見てみろ。道で会ったら,あいつらは土下座をしてわしの通るのをよけてくれる」と思っていた人たちは,体の血が逆流するような思いです。

(上杉聰 『天皇制と部落差別』)

このような意識が「差別意識」である。部落差別の本質とは,部落や部落出身者を自分たちと同じ仲間と見なさない意識,自分と同じ人間とさえ見なさないから部落出身者を「排除」して当然と思い,さらには殺傷しても「人外」「畜生と同じ」と意識するのである。


1 部落の自覚 … 部落改善運動の胎動

1871年(明治 4) 8月28日
太政官布告第44号(「解放令」)公布

9月15日
岡山藩 「解放令」布告

1872年(明治 5) 1月14日
上房郡中津井村・有漢村で騒動

2月12日
北条県 「解放令」布告

1873年(明治 6) 5月26日
美作騒擾(血税一揆・明六一揆)

1887年(明治20)
修身社創立(和気郡藤野村坂本)

1890年(明治23)
正風社結成(都窪郡子位村)

1896年(明治29)
正心団結成(久米郡福岡村大字出)柳弥助らが中心

1898年(明治31)
青年清進社(川上郡手荘村領家)

1902年(明治35) 8月 7日
備作平民会結成
三好伊平次,岡崎熊吉,三浦哲夫,宰務正視野崎重逸らが岡山市三門の常福寺で結成会を開く。60〜70名が参加。

開盛社結成(上道郡津田村)羽納柏造が中心岡山の解放運動もまた「解放令」を契機に,部落改善運動として始まった。和気郡藤野村坂本では,青年たちが「修身社」を結成し,風俗矯正や村民の気力向上を申し合わせている。都窪郡子位庄村では,「正風社」が結成され,村民多数が「民約書」を作成し,犯罪防止・風俗矯正を警察署長に誓約した。各地で青年層を中心に部落問題の解消を目的とした部落改善組織が結成された。これらの背景には,自由民権運動の影響や帝国憲法下の地方統治政策のもとでの村落編成の反映がみられるが,その根底には「解放令」の実行化=部落解放の願いが強くある。

実に既往に於ける我徒は社会の冷遇と虐待とを憤慨しながら,此冷遇と虐待とに克つべき方法を講ぜざりし也。恰も是れ堤塘の堅からざるを謂はずして洪水の氾濫を論ずるが如きのみ,之れ豈逆境に処するの途ならんや。

故に吾人の期する所は先づ内に我徒同族間の積弊を廓清し,進んで外に社会に対して鬱屈を伸べんとするにあり。即ち県下の同族を打て一丸となし協力同心以て風教を改善し,道義を鼓吹し殖産教育を奨励し斯の如くして自主独立の基礎を鞏め,然る後外に向かって其反省を促し力めて止まずんば吾人の志向ひ難からん哉

(「備作平民会設立之趣旨」三好伊平次)


2 部落の闘い … 部落改善運動の拡がり

1903年(明治36) 7月
備作平民会第2回総会

1904年(明治37) 4月 3日
岡山いろは倶楽部結成 鷲見導教,森近連平が中心

1905年(明治38)
松崎矯風会(御津郡横井村大字富原字松崎)

1906年(明治39) 1月
長田治太郎が官公吏採用差別撤廃を求めて人権伸長の請願書を議会に提出

白眼会(上道郡財田村神下)

1907年(明治40)
内務省,全国の部落の状態を調査

1909年(明治42) 4月
「美作廓清会趣意書」を宰務正視が中心で作成

1910年(明治43) 3月
不休会(和気郡伊里村大字穂浪)

1912年(明治45)11月
内務省 細民部落改善協議会

1914年(大正 3) 3月
岡山青年同志会創立 三好伊平次,岡崎熊吉が中心

6月 7日
帝国公道会創立総会(東京商工会議所)

7月
邑久郡福岡村で軍隊宿舎での差別に抗議する。

1915年(大正 4)10月25日
岡山県同志会第2回大会(岡山市後楽園鶴鳴館)

1916年(大正 5) 9月 1日
自彊会(上道郡玉井村笹岡東谷)上房郡上竹荘大字有津井の松崎仙左ェ衛門,部落改善講を組織

1917年(大正 6) 5月
内務省「全国細民部落概況」調査

11月
改善会(邑久郡今城村大字福山字下)

1918年(大正 7) 8月 8日
岡山県に米騒動(〜8月22日)部落民衆が各地で多数参加

11月19日
寺迫矯風会(小田郡小田村字寺迫)高月平治郎が中心

1919年(大正 8) 2月23日
帝国公道会,第1回同情融和大会を開催(東京築地本願寺)

11月
済世会(真庭郡勝山町月田)

1920年(大正10) 6月29日
原田理太郎,大原孫三郎,三樹樹三ら部落改善について協議(倉敷市)

7月23日
岡山県部落改善協議会 県当局・大原孫三郎らが出席し,新団体の組織が提案され創立委員10名を選出

8月 5日
岡山県部落改善協議会 岡山県協和会組織を決議

9月19日
岡山県協和会創立総会 会長を大原孫三郎,副会長を三樹樹三・岡崎熊吉,他に原田理太郎

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2010年09月10日

「解放令反対一揆」(2):中津井騒動(1)

明治5年(1872)1月14日,備中国阿賀郡中津井村(現真庭市)で,新・古平民の間で騒動が起こった。「中津井騒動(騒擾)」である。

備中の某村の「元穢多共」は「此度出格ニ身分御取立被成下候ニ付テハ,今日ヲ限リ盗賊尋方,乞食追払ハ勿論,死牛馬取捨等一切御断申上度」と,長年にわたる封建的・慣習的差別の撤廃を申し出た。これに対して,「眼前差支ニ相成」り「人気弥沸騰」した「旧平民」は一同相談した結果,被差別部落住民に対して「此度身上リ致候得共,年來勤来リノ廉々不残相断差支掛ケ候上ハ,当方ニテモ以来田畑当作一切致サセ申間敷,当山芝薪当追テ地面引分遣シ候迄堅ク立入申間敷,当店方ニテ何品も更ニ売不申旨」を言い渡して報復に出た。薪採をめぐり「旧平民と元穢多」の間で悶着があったが,一月十四日には,その村の酒屋での酒の売買をめぐって口論となった。大庄屋の経営するこの酒屋に被差別部落住民二人が「酒ヲ売カ売ヌカ試シノタメ」参ったが,予想したとおり酒を売り渡してくれなかったため,直ちに五,六人が酒屋に掛合いに行くとともに,そのことを会所に出頭して庄屋に申し出たのであった。これを契機に「人気立」ち,旧平民が「竹螺ヲ吹,竹槍小銃等其外各手道具を携,勿蜂起」し,「斜陽之頃」には他の管轄(倉敷県・成羽県・高梁県)の群衆も一緒になって,その数は千人余に及んだ。庄屋など村役人は説得を繰返したが,群衆は聞き入れず,酒屋を訪れた元穢多および他の一人,さらには「元穢多頭」「小頭」「伍頭」の計五人を庄屋会所に呼び出して暴行を加え,うち一人を殺害した。この時には,被差別部落には襲来を加えなかった。翌十五日になると,「近村ノ元穢多相集リ押寄候風説」が起り,県官,村役人の説得にもかかわらず屯集は解散せず,同夕には近村の「旧平民」も加勢として繰り出してきた。説諭を受けて,近村の群衆は地元へ引渡し,被差別部落民に対して大砲・小銃を打ち放った。さらに彼らが逃亡した山林へ放火し,二人を殺害するに至った。

(『岡山県史 近代T』)

この騒動に関する史料としては,『備前・備中・美作 百姓一揆史料』(第5巻)に所収されている「小田県史」「旧亀山県事蹟取調書」「三重県史料・旧亀山県部」がある。また,これらを参考資料として所収するとともに新史料として騒動に関する調書などが書かれている「杉田文書」を収録した『岡山部落解放研究所紀要11号−中津井騒動関係資料集−』がある。

上記の史料より,「小田県史」及び「三重県史料・旧亀山県部」を転載しておく。

上房郡中津井村新古平民騒動

明治五年壬申正月拾八日,備中国上房郡中津井村・有漢村元穢多ト平民,去ル拾四五日頃ヨリ沸騰ヲ醸シ,不容易趣ニ付,拾等出仕高取一字ヲ鎮撫トシテ同村エ出張申付,不取敢大蔵省エ及具状。

元倉敷県管下備中上房郡有漢村最寄村々百姓共動揺ノ儀ニ付,元高梁県官員ヨリ倉敷県官員エ致急報別紙来状,倉敷県ヨリ相達候ニ付,元倉敷県大属高取一字エ,本県拾等出仕申付,為鎮撫急速出張為致候。右動揺ノ根元ハ,昨秋元穢多茶筅平民同様ノ御布告,元亀山県ニテ触示延引ニ相成候ヲ,元穢多共不平ヲ抱キ居候折柄,亀山県官員中津井村陣屋エ出張ノ節,御布告相触候ニ付,新民共俄ニ増長,我慢ノ処業致シ候ヲ,旧平民共立腹,一同申合,新民共エ諸色一切売与ヘ申間敷約定致居候処,去ル拾四日,新民ノ内壱人徳利酒ヲ買求メ候者エ,旧民ニテ売与ヘ候者有之。夫ヨリ,新民共買酒ニ托シ,多人数相集リ候ニ付,元亀山県官員中津井村陣屋ヘ新民呼出シ,歎願ノ儀有之候得バ,可執次旨申渡候ヲ,旧民共新民陣屋ヘ押寄候ト心得,大沸騰ニ相成,竟ニ陣屋内ニ有之候大砲・弾薬等奪取,新民ノ居宅ヲ焼払ヒ,山上ヘ相逃居候者ヲ取囲,四方ヨリ放火致シ候ニ付,新民窮迫,頭立候者壱人裸体ニテ謝罪致候ヲ聞届ケ,火ヲ消シ銃器ヲ抛チ,一同竹ノ荘エ引取候由ニ候得共,全ク高梁県ヨリ壮年ノ士卒五六拾人,小銃相携出張致候勢ニ恐怖シ,一時鎮定ノ姿ニ相成候趣ニ御座候。尤,出張為致置候高取一字ヨリハ,未ダ何等ノ報知モ無御座候。尚,確報有之候上,追テ御届可申上候得共,右聞込ノ儘不取敢申上置候。以上

  壬申正月弐拾日

右書面,東京出張所ヨリ差出候処,左ノ通御指令有之。書面届ノ趣,精々探索,捕縛ノ上,兼テ御委任ノ廉ニ照準シ,速ニ処置可致。大小砲等ハ早々取纏メ,兵部省エ可差出候。

  壬申正月弐拾九日           井上大蔵大輔印

                         吉田大蔵大輔印

  別紙

至急申進候。然バ倉敷県管下有漢上村ヲ始メ,最寄村々百姓共,新平民共ヲ相手取,去拾四日頃ヨリ多勢沸騰イタシ,追々当管下ヘモ波及ノ勢ニ付,鎮静方手配等致内,中津井詰官員壱人当所迄被罷越,鎮撫方依頼モ有之,申談中,益以盛ニ相成,中々以説諭ニ付候勢無之,大砲銃并竹槍等相携,幕ヲ張リ,新平民ト対立,砲声無絶間相聞エ候ニ付,不得止士族卒ノ内五六拾人計,昨拾六日夕ニ至リ小銃為相携為鎮撫片岡村辺迄出張為致処,竹ノ荘辺村々モ追々相加リ,昨夜半ノ処ニテハ益以盛ニ相成候勢ニ相見ヘ候ニ付,此上鎮静方手配等申談中,今暁倉敷県ヨリモ大小属ニテ両人出張被致,此上ノ取計方評議中,有漢口ノ処ハ,新平民之方降伏之趣ニテ,平民之分ハ過半引揚候趣。尤,竹之荘口ハ,今晩右有漢口ヨリ帰リ懸ニ候哉,殊之外乱妨,新平民居宅放火,是亦砲声等盛ニ相聞ヘ候趣ニ付,倉敷官員ハ壱人有漢口,壱人ハ竹之荘口ヘ出張。当県ヨリ出張ノ官員ト申談,鎮静方尽力被致候筈ニテ,双方出張相成候事ニ候。扨,右動揺ニ付テハ,未ダ参事御着無之,差図甚以心配イタシ居候処,今朝,倉敷官員ヨリ承リ候処,昨今其表迄御着相成候由。右ハ,自然其村方マデ一先御着ト申儀ハ,先頃中無屹度風説モ有之ニ付,若御着モ有之儀ハヾ,早々申越可給旨相頼置候事ニ候得バ,何角与申越可有之ト存候処,何共左右無之ニ付,前条ノ通,倉敷・中津井等申談,不取敢鎮静方取図居候処,御着之趣伝承致候ニ付,右之形勢不取敢貴様迄申進置候間,此旨参事エモ其筋ヲ以可被申置様致度,其内有漢口・竹ノ荘共,委細ノ模様相分リ候ハヾ,出張官員ノ内為御報,尚御差図伺旁差出可申手筈ニ御座候。此段夫々取繕,可然御取計頼存候。以上

  正月拾七日                 近沢茂蔵

柚木正平殿

尚々,有漢口追々鎮静ノ姿ニ候ヘ共,竹ノ荘口ハ今晩之様子ニテハ余程盛ノ趣ニ候得共,其後未ダ報知無之,相分リ次第官員之内罷越,御届可申積リ御座候。然ルニ,最寄エ波及ノ憂有之趣,出張官員ヨリ報知ニ付,高梁・新見・足守ノ参県エ,頑民暴挙ノ程モ難計,互ニ申合,相当人数差出シ,巡邏取締候様,夫々エ書翰ヲ以相達,大蔵省エ左之通届出。

先達テ御届申上候管下上房郡村々動揺之儀ニ付,元亀山・高梁・成羽諸県ヨリ,別紙届之通,一字不容易形勢ニ付,当県官員高取一字致出張諸県申合,鎮撫方所置申候。尤,一時鎮定之姿ニハ候得共,再挙之程モ難計ニ付,向後取締ノ儀,厳重指揮仕,巨魁ノ者僉索中ニ候処,何レモ解兵後県下守備手薄ニ御座候柄,百姓共ニテハ,糺問等有之候ハヾ,直様一同強訴可致ト,互ニ堅申合居候由ニモ相聞候間,尚手抜無之,厳粛取締,臨機ノ処分有之候テ不苦旨申達置候。此段束テ御届申上候。以上

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「解放令反対一揆」(1):解放令の布達

1871(明治四)年8月28日に太政官布告として出された「解放令」が津山県庁から管内に布達されたのは,9月18日であった。

穢多非人等之称被廃候条,自今身分職業共平民同様たるへき事

  辛未 八月                 太 政 官

右之通被 仰出候付,此段相達候事

辛未 九月十八日 津 山 県 庁

しかし,何らの具体的な説明もないままの布告は,百姓や平人には青天の霹靂であり,動揺と混乱をあたえずにはおかなかった。

同年9月末には加茂谷(現津山市加茂町)の庄屋をはじめ農民達3〜40人ほどが津山県庁に出向いて「穢多非人も平民同様にと仰せ出されているが,私達は承知できない。どうしても同様にしなければならないのなら,穢多非人を征伐いたすように願い出る」と強硬に訴え出ている。

穢多非人平民同様に被仰出候処,加茂谷より庄屋小前之荒増之者三四拾人も津山江出,同様之儀は不承知申出,是非同様に相成候はば穢多非人征伐可致由願候

(『山本忠兵衛日記』)

さらに10月には,勝北郡平村(現勝田郡勝央町)他54ヵ村の村役人たちが津山県庁に歎願書を出している。その内容を要約すれば,【…この度,穢多非人の称が廃止され職業も平民同様との達しがありましたが,末々まで洩れなく達しました。しかし,こと穢多については昔から貴賤の別が歴然としていたことは御上でもご承知のことと思います。別火のことは勿論,平民宅へ参りましても土間で取り扱いを受けていました。なお,穢多共においては数代にわたり平民の恵を受け,飢渇の難をしのいだことが少なくありません。今般の布告に対しては恐れながら私達一同承服いたしかねます。朝命の重大なることは十分承知いたしておりますが,昔からの旧習をすぐ改めることは困難であります。万一人心動揺して事件でも起こすようなことになったら大変であるから,従前通りにお願いします。】と,村方役人の立場から村落の秩序が乱れることを恐れ,解放令の延期を強く要望している。

また同じく10月に,東北条郡・西北条郡の村役人が連名で倉敷県庁に出した歎願書には,解放令布告による住民の深刻な動揺の様子が伝えられている。

乍恐以書附奉歎願候

当県御支配地美作国東北条郡西北条郡村々役人共奉申上候ハ,今度エタ非人之称御廃止,身分職業平民と同然たるへく御布告御座候ニ付,触渡候処,非人エタ之義は千古不易定格有之,確乎として尊卑之筋相立,上下之礼を尽し来候義ニて,今更,平民と同様たるへく被仰付候ては,忽然迷惑,長生老養之甲斐も無之様一途ニ被存,悲歎無此上御座候間,何卒従前之通り尊卑之差別相立,別てエタ共とは居火を同せざる様願立呉候様,百姓一同涕涙歎願仕候,一体旧習洗捨いたし難きは僻陬頑愚之常ニて御座候得共,今度之事件は格別弁別不仕,私共説得不相届心配罷在候,此上強て申付候ては如何様之儀出来候程も難計形情ニ御座候間,何卒格別之思召ヲ以,己前百姓一同願之通従前之振合を以互ニ渡世仕候様,更ニ御厳令被為降候様,其筋へ急度被為仰立,御裁許御座候迄之間も異変有之候様も不計候間,当分之内,御立法を以,人心鎮静仕候様被仰付,侮ニ万姓御救助被成下度,重畳奉懇願候,以上

  明治四年十月

(『加茂町史』瀬畑家文書)

これによれば,従来より穢多・非人とは上下の礼を尽くしており,自ずと「尊卑」の差別があったのだが,今度この差別が廃止され同様となると,何のために生きているのかわからなくなると嘆いているので,当分の間は従前通りにしてもらいたいとの歎願である。

「従前之通り尊卑之差別」「従前之振合」とは,如何なるものであるか。この「従前」という言葉に込められた意味内容を明らかにしておきたい。

津山藩領のエタ村十三か村の役務は,津山藩牢番役を命じられており,村別に割り当てを行い,役目を遂行していた。また,加茂町の史料に「従前エタと申テ死牛取扱致居候者」とあることから,弊牛馬の処理や掃除役も命じられていた。

また,明六一揆において津川原襲撃に加わり殺人罪で死刑となった小林久米蔵の口述書によると【…元身分(エタ)の通下駄傘等は村内より外は不相用,近村の平民へ用向,右之節は門外より草履を脱ぎ,途中にて出会候節は頭を地に下げ礼譲正敷可致】のが「従前通り」であった。

つまり,百姓にとってのエタ・非人は「千古不易定格有之,確乎として尊卑之筋相立,上下之礼を尽し来候義ニて」「居火を同せざる」存在であって,平人である自分たちは決して「同様」の存在にはなり得ないという認識があった。

これに対して,津山県は暫定的に「従前之振合に準拠し,双方共礼譲相守,柔和にいたし…」という触れを出している。百姓たちは,この触れを「当分従前通りに御触れ戻しに相成候」と受けとめる一方,騒動が勃発する気運を感じてもおり,騒動に備える村方取り決めを行ってもいる。

    村方儀定書之事

エタ非人平民同様可為事,従天朝被仰出候ニ付,諸国騒立候趣,就は当国村々騒立候様之風聞有之,村方一同心配仕,万一他所より多人数通来り候節は無拠難遁候得は,一日付添罷出候様申合置候,万一壱人ニても不参加致候ものは一日ニ銀札五拾目宛加料銭として立出し可申候て,村方一同引取候上は村端江小屋掛ケ住居為致候様申合儀定致置候,為後日之村方一同儀定連印致置候

以上

      明治四辛未年十一月十二日

つまり,他村から騒動の集団が来た時,村民のとるべき行動として村民一同連帯して参加することを取り決め,不参加者からは加料をとることまで決めて結束を図っている。

このような動向に対して,北条県では騒動の予防策として,あらためて次のような布達を管内に発している。

1872(明治五)年2月12日 「解放令」につき北条県有達

穢多・非人被廃ニ付左ノ通布達ス(北条県)

去辛未八月,穢多・非人ノ称呼被廃候ニ付,其段於元津山県相達候処,従来ノ習慣ニ怩ミ交接間不都合ヲ生シ候趣ニ付,於同県東京表へ相伺儀モ有之,且御沙汰相成候迄ハ先従前ノ振合ニ準拠シ,双方共礼譲相守リ粗暴ノ挙動無之様可致旨達置候処,右ハ性且万国ノ形勢ヲモ御洞察ノ上厚御趣意ヲ以テ天下一般被仰出候儀ニ付,一切採用下相成候条,示後双方共和順致シ不都合無之様厚ク可相心得候,尤元エタノ者共御趣意ニ甘へ倨倣ノ所業有之候テハ決シテ不相済事ニ候,尚追テ官員巡回委詳可申聞候ヘ共,心得違無之様可致,此段予メ及市発候候也

この布告によると,解放令が出されてから混乱があったので政府に取り扱いについて諮問し,その沙汰があるまでは旧慣習に従って行動するように命令していたが,政府の方針は解放令通りとする意向を変えないので,お互いに和順して行動するように心得ることを命じている。特に,エタに対しては増長を戒めている。

posted by 藤田孝志 at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 解放令反対一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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