2010年09月06日

三好伊平次:略歴と活動

明治6年(1873年)岡山県和気郡泉村坂本(現・和気町藤野)の部落で,裕福な地主の三男として生まれた。幼少より漢学などを学び,地元の野吉高等小学校で学ぶが,ひどい差別と侮辱を受けた。
彼の成績がよかったので,受持の教師は他の生徒たちに「エタに首席をとられても恥ずかしく思わないのか」と言うだけでなく,彼に向かって「エタは大便のとき小便が出ないそうだが,お前はどちらが先に出るのか」と,まるで人間とはちがった動物でもあるかのように辱めた。そして,実際の成績がいくらよくても,エタなるが故に首席にも優等生にもなれなかった。彼はこの屈辱をじっと噛みしめながら,脇目もふらず勉強した。

明治25年1月,同じ坂本の村上佐津と結婚する。

明治25年,大阪に出てミッションスクール「泰西学院」に入学して英語を学んだ。ここでも差別や侮辱に遭遇したが,よく耐え,その間に自由民権・人間平等の思想を身につけたのである。(「泰西学院」遊学は脚色の可能性が高い)

明治26年12月,徴兵合格となり姫路歩兵第十連隊に入営する。過酷な訓練に耐えながら,「検閲」を終え,好成績の数名となり上等兵候補者に選抜される。その二ヶ月後,野外演習のときに右足を負傷し病院で八ヶ月の療養生活を送り,明治28年に傷痍による除隊を命じられ郷里に帰った。

明治28年に帰郷した三好は「修身社」(明治20年に創立された青年団)の活動に参加し,やがてその社長として活躍するかたわら村の区長として,この不当な部落差別をなくしたいとの念願から,風俗と生活の改善,地位の向上取り組んでいった。
この頃,三好はすでに社会主義思想の影響を強く受けており,片山潜・幸徳秋水らの社会民主党に加盟し活動していた。次いで,備前・備中・美作など県下の同志に呼びかけて,明治35年(1902年)8月に岡山市外石井村の常福寺に,県下の部落代表52名を結集して「備作平民会」の創立大会を開催した。三好は,岡崎熊吉とともに総務として,この運動を全県下に拡げた。全国に先駆けて結成された部落民が自らの力で差別を摘廃しようとした全県的組織であった。

明治36年(1903年)7月には,全国各地の同志400名を結集し,大阪市土佐堀青年会館での「大日本同胞融和会」を結成し,自らも幹事に就任して全国的な運動に積極的に乗り出していった。
また当時,大阪朝日・山陽・中国・岡山などの各新聞紙に寄稿して,不合理な部落差別の撤廃について世に訴える文筆活動を展開していった。しかし当時の状況は,社会の理解もなお十分ではなく,部落内にあっても自覚的な活動家の層も薄く,また会の活動目標も具体性に欠け,講演・文筆活動が中心であったため,広汎な人々を結集する要素が乏しかった。そのため,その後の備作平民会の活動は順調な発展が見られず,時勢も日露戦争が開戦されたこともあって社会運動の抑圧も強まり,同会は数年で頓挫してしまった。

この頃のことを後年,三好は次のように語っている。

…老生がこの運動に携わった動機は,他の同志の方々と同様,已むに已まれぬ内心の憤懣から,25歳の青年時代に出発して,81歳の今日まで脇目もふらず一業一貫主義を押し通してきた。何分最初は60年前の混沌時代,草分け時代のことで,一般にこの問題についての関心が少なく,私たちと行動を共にせねばならぬ筈の部落の人びとからは,余計なお世話だといって嫌がられ,親族知友からは家業を捨てては家がつぶれると忠告され,世間一般からは分を越えた要求だと罵られ,警察方面からは危険思想の持主としてたえず尾行せられるという有様,それでも屈せずに「備作平民会」「岡山青年同志会」「大日本同胞融和会」「岡山県協和会」など,次から次へと民間団体を設立し,同志の糾合と運動の継続とに全力を傾注したのでした。

(三好伊平次『部落』第45号 昭和33年8月)

すでに社会主義思想に共鳴していた三好は,「大日本同胞融和会」結成に際して,堺利彦が「万朝報」で,田岡嶺雲が「中国民報」で,それぞれ激励文を発表したことなどを通して社会主義者との接触を始め,また当時,岡山初の社会主義者の組織「岡山いろは倶楽部」の結成準備を進めていた森近連平とも知り合うなど,急速に社会主義に傾倒していった。

明治39年3月,三好は,堺利彦・西川光二郎ら119名と共に再び「日本社会党」を結成して,正式にそのメンバーとなった。しかし,翌40年2月に同党が解散させられ,さらに同43年の大逆事件によって運動が閉塞させられたことや,部落解放運動の拠り所を日本社会党に求めた意図が党員になかなか理解されないこともあって,三好は脱党し,これ以後は社会主義運動との関係を断ち,再び部落内部の自覚と改善運動に力を注ぐことになった。

大正3年(1914年)3月,三好は岡崎熊吉等らかつての備作平民会のメンバーを再結集し「岡山県青年同志会」を結成した。同10月29日に岡山市後楽園の鶴鳴館を会場に開催された創立総会には県下各郡代表者700名が参加し,会則並びに三好ら8名の役員を決定した。
翌大正4年10月,同所で開かれた第2回総会では,組織の一部を変更して総務を設置し,岡崎熊吉・原田理太郎と共に三好も選出された。会名も「岡山県同志会」と改めた。しかしその後,同会の活動も停滞していき,大正6年(1917年)には,上道・赤磐・御津・和気の四郡を基盤に「岡山県聨合改善会」(総長 岡崎熊吉)として再組織された。

大正7年(1918年)7月,全国規模で起こった米騒動の影響は国内外の労働運動や農民運動に対して大きく,その運動を更に発展させる契機となった。特に米騒動に部落民衆が多く参加し,その中心となって動いたことは驚いた政府は,それまでの部落改善対策から融和政策へと方針を転換した。岡山県では,同年8月,岡山県社会事業協会が設立され,事務所を県庁においた。
翌年(大正8年)には県内総部に社会課が新設され,同年6月に県と地方有力者と部落の有力者代表の三者による部落改善の協議が行われ,7月の有志会による協議を受けて,8月には全国に先駆けた官民合同の融和促進機関として「岡山県協和会」の名称による新団体の創立を決定した。

三好は発起委員に名を連ね,大正9年(1920年)9月に岡山市の県物産館で開かれた「岡山県協和会」創立総会では経過報告をおこない,世話役に就任している。
さらに大正10年には,内務省の社会課勤務となり,部落問題担当主事として各種の調査・研究・対策などの業務に携わり,厚生省の新設後は同省において融和事業の推進に専念した。

大正14年9月,官民合同で結成した「中央融和事業協会」の参事として事業部を担当し,部落問題に関する各種の資料の出版,中央や地方の講習会の開催,地方融和団体の活動促進に尽くし,特に「部落問題の国策確立」や「融和事業完成十ヶ年計画」の樹立について,その具体的方策の立案と実施について全力を傾けた。

昭和10年に,中央融和事業協会の常務理事,同16年には,戦時翼賛体制として「同和奉公会」に改組後も引き続き同会の理事として最後まで頑張り抜いた。

戦後,昭和21年2月に「部落解放全国委員会」が組織され,戦前の水平社と融和団体の有志が一体となって活動を再開するや,三好はその中央本部の顧問を委嘱された。

【参考・引用文献】

『岡山県部落解放運動六十年史』(岡山県部落解放連合会)『同和問題の歴史的研究』(木村京太郎による解題)などをもとに略歴をまとめたが,『三好伊平次の思想的研究』(岩間一雄編)に所載された「三好伊平次小伝」(明楽誠)がより詳細にまとめてある。これらを参考に後日,三好伊平次に関して論及したいと思っている。

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岡山藩の非人(3):照葉狂言

「山の者」は,その生活手段として門付け芸等の雑芸をしていた。岡山(備前)藩もこれを黙認していたが,無制限ではなかった。

山之者之内,女とも春分三味線弾候て町方え門付ニ罷出候事,前々より出来り之事ニ候得は先不苦候,尤店先又ハ座敷え上り候て弾候事決て不相成事,衣類其外目立不申様可致事

(『市政提要』「次郎九郎両山非人并穢多之事」二十六)

この史料は,天保十四(1843)年の布告である。「山の者」の女たちによる門付け芸は一応は許可されているが,身分相応の態度を厳命され,衣類や派手な興行は制限されている。

第五代藩主の治政は非常に遊び好きで,児島の瑜伽山の門前町における芝居・遊郭・富くじを黙認し,自らも度々ここに遊びに行き,芝居見物などをした。しかし,ここは岡山城より遠く不便でもあったため,その分社を岡山に移して,東山の山上に由伽神社及び松琴寺をつくった。そして,松琴寺にはお籠り堂と称して舞台を作り,児島に来演した上方役者をここに招致して芝居を上演させ,上級武士たちと観劇していた。松琴寺において上方役者による芝居が行われるたびに,その下働きとして,平素から芸事に習熟していた「山の者」を使った。
「山の者」は,このようにして松琴寺に出入りするうちに,上方役者の芸を見真似で覚え,鳴物などの取り扱いにも馴れて,今までの門付け芸ではなく本格的芝居を体得し,「照葉狂言」(能狂言を通俗的娯楽化させたもので,当時は大阪あたりで流行していた)を,彼らで作った一座で演じるようになっていった。

この一座は,岡山の場末の祭礼などに呼ばれて村々を巡業するばかりでなく,小豆島や讃岐にまで出かけていった。明治維新前後には,中村玉造・市川右太次・中村小翫次などと称する役者が出て,播州播磨で催された「隣国大寄名人芝居」にも参加している。明治になっても岡山最初の劇場である旭座・柳川座・花海軒などでも「照葉狂言」を上演して好評を得ていた。

posted by 藤田孝志 at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 穢多・非人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

岡山藩の非人(2):山の者

東山峠は元来乞食屋敷にて御座候処,東照宮御勧請遊ばされ候節,御山より御目付,見苦しく思し召され候由にて奥市へ送られ候。其跡,荒地に罷り成り候処,明暦年中,伴元祭殿願い候に付き少将(光政)様御代三友寺に御寄付仰付下され候

(『撮要録』「寺社の部」)

この史料から,東山峠の登り口(三友寺・現在の博愛会病院)にあった「乞食部落」(非人部落)が,玉井宮の地に東照宮が勧請されると,そこから見下せることになり,それは余りに見苦しいので奥市の谷池(狼谷)に追い込まれ,そこから更に山に追い上げられて湊の山上に移らされたことが推察できる。

岡山藩の「非人」が「山の者」と呼ばれる理由である。その非人部落ができたのは寛文4(1664)年頃であった。この非人村には,百姓または町人で借金により破産した者,家賃を滞納して家主より訴えられた者,駆け落ちして出奔したがつかまって連れ戻された者,その他軽微な犯罪を犯した者が,村や町の人馬帳(人別帳)より外されて「帳外者」とされ,ここに収容されたのである。収容されることを「山登りを命じられる」と言う。

尾上町市郎右衛門借家欠落人七兵衛倅千太郎・同三太郎・娘ふく三人之もの山え揚ル,七兵衛義近年家賃余ほと不足有之由訴訟申出候ニ付て也

(『市政提要』「次郎九郎両山非人并穢多之事」四)

この乞食部落(非人部落)に収容されたもの(「山の者」)を「両山の者」ともいうのは,この地が「古山乞食村」と「新山乞食村」の二つに分かれていたからである。

奥市の谷池(狼谷)に追い込まれたのち,さらに追い出されたとき,一方は網浜村の郷内にある山に移転し,これを「古山乞食村」という。もう一方は門田村の枝村である徳吉村の塔の山(現在の県立岡山朝日高等学校南の丘陵地に塔があったので「塔の山」という)に一度移転し,更に古山乞食の居た網浜の郷内のさらに奥ある内谷に引っ越したので「新山乞食村」といった。この「古山乞食村」と「新山乞食村」をあわせて「両山の者」,あるいは「山の者」と呼んだのである。

この「山の者」の支配責任者は,最初は町奉行であったが,寛文5(1665)年よりは寺社奉行より分かれて新設されたキリシタン奉行に任せられたらしい。その輩下として直接に「山の者」を取り締まっていたのは,城下の常盤町に住んでいた「次郎九郎」という者であった。


 乍恐奉書上

一 私祖先は御野郡銭屋敷ニ浪人ニて住居仕居申候処,正保(1644〜48)年中之頃常盤町引越居申候,当時御用之儀為御雇被仰付候処,延宝(1673〜81)年中之頃御奉行石田鶴右衛門様・岩根周右衛門様御時,町方盗賊見廻り役并両山之者共諸事差配仕候様被為仰付,町方見廻り給御上様より銀百目頂戴仕,惣町中より米拾八石,但壱石ニ付銀五拾目相場ニ〆御割付被為遣候

内町十一町

但御家持一軒より 三十文

借家一軒より  拾 文

中六町

但御家持一軒より 弐拾文

借家一軒より  五 文

外町

但御家持一軒より 拾 文

借家一軒より  三 文

都合銀九百目御座候処,時節悪敷御座候哉,年々減少仕候ニ付迷惑仕居申候,二十年以前ニも御嘆上奉申上御触被為遣候へ共,兎角時節柄悪敷御座候故,只今ニて新銀札三百五拾目程御座候処,先年より私同家之者え相応割遣し,私囉候分弐百三拾目程御座候,同家之者百三拾目程御座,町々より請取申候儀は,其町々町代衆中より取集囉申候,町中御座メ之内年々減少仕候故甚難渋仕居申候,御上様より御銀百目頂戴仕候処,御銀札初り候節より御銀札ニて頂戴仕来り居申候処,森川藤七郎様御時,親次郎九郎銀札五拾目御増被遣,只今迄毎暮古札百五拾目頂戴仕申候

一 広沢喜之介様御時明和六(1769)年丑六月ニ,私見習被為仰付難有奉存上候,見習給銀札百目毎暮頂戴仕居申候処,其後五拾目御増被為遣候段難有奉存上候,天明四(1784)年辰五月十日ニ親次郎九郎病死仕居申候ニ付,其節川口忠左衛門様御時同六月二日ニ町見廻り被為仰付相勤居申候,亡次郎九郎通り銀札百五拾目毎暮頂戴仕候処,森川吟右衛門様御時寛政三(1791)年亥八月十二日,御米拾俵頂戴仕難有奉存上候,翌年河合兵大夫様御時,勝手向難渋御聞および被遊,御米七俵頂戴仕難有奉存上居申候,夫より毎暮七俵ツゝ頂戴仕難有仕合奉存上居申候,湯浅新兵衛様御時寛政八(1796)年辰六月ニ倅吉三郎見習被為仰付,銀札百目毎暮頂戴仕難有奉存上候

一 出火之節町御会所え山之者拾五人召連相詰申候

一 京橋御掛替御普請之間,非常不常之者相渡申候儀,船御用場より船請取山之者渡し守ニ被為仰付,西中島下川原より御蔵前片瀬町構え船着ニ致,西中島町川原渡し場え山之者弐人ツゝ昼夜指置申候,小屋入用代并昼夜扶持方御立被為遣申候,御普請相済候節渡し船山之者え被為遣申候

一 御巡見様御通行之節,私見廻り并御通り道浦筋へ山之者出張被為仰付候

一 御上様御発駕御帰城之節并御祭礼之砌,私見廻り山之者もの御通り道之町々え指置申候

一 御酒折宮・伊勢宮御神事之節,私山之者召連出張申候

一 御尋者御同心様御出之節,旅行御連被成参り申候

一 御獅子狩并備中宮内芝居其外所々御出張之節,御連被成参申候

一 盗賊致候もの帳付之無構押へ取,留籠え入置山之者番ニ付置申候,尤御屋敷懸り合之者ハ其町ニ指置御下知奉待候

一 備中板倉ニ泊り御当地え日々ニ通ひ候諸国種々之商人,先年御指留ニ相成候処,元文四(1738)年ニ私方相届申候者とも他国御尋者御用之節,諸国ニ馴染之者御座候得は手掛りニも相成候と奉存,伺上候処御聞届可被遊候

一 河合兵大夫様御時寛政七(1795)年卯七月十八日,夜より更廻り増番被為仰付候時分,夜更候て帯刀致候人ニても紛敷相見へ候得ハ,帰り候を跡より見届屋敷を見覚へ可申出候,若途中ニて彼是申候得は,及深更ニ何御用ニて御通り候哉御名元可被仰候と申,返答不致腰之物

  抜掛候ハゝ擲落し可申,左様之事有之候ハゝ上下御同心屋敷え早速注進可致,向後其心得ニ相勤可申と被為仰付候

一 同(1795)年十二月二日常念寺様え遊行上人様御出之節,同五日之昼九ツ時ニ備中船尾村小野五郎兵衛殿と申仁参詣致し候処,寺内ニて紙入紛失致し候ニ付吟味致候様被為仰付,段々聞合候得とも相知れ不申候,翌六日ニ被為仰付候て私山之者弐人出張候様ニ御申付,出張場所ハ御同心より指図請相勤可申候,尤七日より山之者は出張ニ及不申,私計出張候様被為仰付,向後群集仕候場所ハ其心得ニて相勤可申と被為仰付候

一 湯浅新兵衛様御時寛政八(1796)年辰五月廿六日より六月三日迄,東岳山松客寺様信州善光寺様出開帳ニ付,出張被為仰付候

一 断罪磔付獄門打首火罪人等御用之儀は先年より被為仰付候,夫々え移り合先格之通取計仕申候

一 両山之非人共先年在方町方より山上り被為仰付候者ニて,凡百五拾年以前ニ相成申候と山之者より承り申候,其後百弐拾年以前,山より東中島町え帰り申者山屋甚兵衛と申候,只今其跡は無御座候,上道郡網浜村郷内之山ニ居申候を古山と申候,同郡門田村之内徳与志村塔之山ニ居申候処,御城下繁昌仕候ニ付,同村郷内之奥内谷辺え引越居申候を新山と申候

一 両山之者共私差配被為仰付候節,御屋敷方町方見廻り一日ニ三人夜ニ五人昼夜ニ八人被為仰付候,但シ一人え御蔵麦壱升ツゝ御立被為遣候

一 丁番弐拾人御定被為仰付,惣町中え一ヶ月ニ米六斗御割付被為遊,但壱人ニ壱合ツゝ山之者惣町中取集囉申候

一 山之者毎日罷出見廻り,野乞食物囉等紛敷者町外レえ払出候様被為仰付候

一 町手無宿牢死人并行倒もの死骸取捨其外勤方之儀ハ,前格之通山之者ニ申付候,右之通乍恐奉申上候,御上様御厚恩之以御影,数代相来り候段重々難有仕合奉存上候,以上

享和三(1803)年亥二月     常盤町 次郎九郎

(『市政提要』「次郎九郎両山非人并穢多之事」十九)

この史料は,享和3(1803)年2月に,次郎九郎より町奉行に出された先祖と今まで勤めてきた役務に関する書上である。次に,この史料からわかることをまとめてみたい。

次郎九郎の祖先は,御野郡銭屋敷(現岡山市二日市・旧岡山刑務所付近)にて浪人をしていたが,正保年中に城下の常盤町(現田町一丁目東部から中央町東部)に引越し,キリシタン奉行の配下として延宝年中に町方盗賊見廻り並びに両山の者(非人)の諸事差配を命じられた。

「次郎九郎」の身分は「烟亡(隠亡)」であり,世襲名として代々相続されて受け継がれている。ただし,文化十一(1811)年に,不祥事件をおこして罷免され他国に追放されたため,その血統は絶えて他の者が同名でその役職を引き継いでいる。

この事件について,『池田家履歴略記』には,次のように記されている。

平井山・泰山に居る乞食ども内信心(日蓮宗不受不施派)の坊主,高遵という者を信仰して乞食の佐五郎という者の家に数年かくまい置きたる事,露顕し,高遵は捕られぬ。両山の乞食一統は四月二日,夫々軽重の咎あり,以後,以前の宗旨に立戻るべしとの証文書せられる。百姓の内にもかの僧を信仰の者あれば其れ又お咎めありしなり。

また,『市政提要』では,次のように記されている。

 次郎九郎義内信一件ニ付御咎被仰付候始末

次郎九郎義東山非人共之内ニ久々内信坊主ヲ指置候ニ付,郡代より目明し罷越右坊主を召捕,并山之者共段々召捕ニ付夫々調らへ之上,文化十一戌二月廿四日於郡会所大御目付手御穿鑿有之,次郎九郎并山之者之内長屋入被仰付,山之もの共追々御免被成別帳ニ委シ,次郎九郎義は同十二亥二月十一日追払被仰付,則目明し御境え召連罷越候由,依之当時欠役と相成候ニ付御咎,早々同家ニ居申隠亡仁平と申者仮役ニ申付,其段大御目付中えも咄し置迄也,尤追々払被仰付候後断絶致し候付,右仁平え跡家内引受之儀願之趣,惣年寄久米屋勇吉より申出候ニ付承届遣候処,仁平請込人ニ板倉衆之進殿御領分備中浅口郡玉島村隠亡利平次と申者之弟利吉と申者引受願,子五月十二日指出候ニ付是又承届,向後次郎九郎と相改可相勤旨,惣年寄江田勇吉え口達ニて申移,此段為念大御目付中えも咄置候事

   右願左ニ記ス

(『市政提要』「次郎九郎両山非人并穢多之事」二十)

この事件で,次郎九郎はその監督責任を問われ,その役職を免ぜられ他国追放となったので非人総領の役も欠員となった。その際,次郎九郎の家に厄介になっていた玉島出身の隠亡仁平という者が代役を命じられたが,その後仁平は郷里の玉島村に居た甥の利吉を次郎九郎の跡目相続に願い出て許され,以後はこの者の子孫が次郎九郎の名で非人の総領となった。

すなわち,正保年中から文化十一年までの約165年間ほど続いた前代の次郎九郎の系統と,文化十一年から明治四年までの約六十年間続いた後代の次郎九郎に二分されながらも,岡山の非人支配はこの次郎九郎によって差配されてきたのである。

明治となり近代警察制度が発足した際,次郎九郎は,両山の非人を率いて町の盗賊見廻り方を行っていた前歴を買われて,県警察官に採用され,姓も能勢と給わって能勢次郎九郎と名乗り,穢多目明しであった岡勝右衛門とともに新町の鬼刑事となったと伝えられている。


「両山の者」(非人部落)の人数は,『備陽記』によれば,竈数百九軒,男百八十四人,女百六十二人,合計三百四十六人とある。

次郎九郎の役目は,盗賊見廻り方と両山非人の差配であるが,この史料に記されているそれまでに勤めてきた役務をまとめてみると,消火の手伝い,船着き場(川渡し場)の番及び渡し守,巡見通行や城主帰城及び祭礼の際の見張り番,捕縛した盗賊の見張り番,同心の下働き,紛失物の探索,断罪等御用(行刑),牢死人や行き倒れ等の死骸処理,野非人や帳外者の追い払い,市中(城下の武家屋敷地・町中)の昼夜見廻り,など多岐にわたっている。だが,基本的には,市中見廻り及び見張り番,行刑の手伝いと死骸処理である。次郎九郎の差配に従い,同心などの下働きを命じられて勤めている。

これらの役務に対する給付をまとめると,次のようになる。

岡山藩より銀百目…目は匁であるから,1両=銀50〜60匁として,約2両

惣町中より米18石…米1石につき銀五拾目であるから,銀900匁として,約18両

ところが年々,減少して,町々の町代(町役人)衆より,家之者の分(百三拾目)と合わせて三百五拾目程になった。藩からは,町奉行森川藤七郎の時に,五拾目の加増があり,毎年の暮れに百五拾目を支給されている。また,寛政三年に米拾俵を給付され,翌年よりは毎年米七俵を支給されている。(武家)屋敷方及び町方の見廻りを1日につき昼夜で8人がおこなっているが,それに対して藩より1人につき麦一升を支給されている。他にも,番役20人に対して町中より一ヶ月に米六斗ほど(ただし1人につき1合)を受け取っている。

また,両山の上に「御免地(免税地)」が1反五畝ほどあり,自作していたようである。

「両山の者」の人数(約三百数十人)から考えれば,乞食としての施しがあったにせよ,生活は苦しく貧しかったと思われる。それを補っていたものが,門付け芸などの勧進であった。

posted by 藤田孝志 at 17:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 穢多・非人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月04日

岡山藩の非人(1):両山乞食

近世岡山藩においては,「穢多」と「おんぼう」と「両山乞食」の三身分が賤民の中心として存在していたものと考えられている。

治安維持については,「穢多」の動員に関して,貞享四年に「穢多」から「目明」役に就任した嵐山覚右衛門が画期となっている。岡山藩の「評定記録」によれば,覚右衛門の就任以後に「穢多」による「夜廻り」や盗人逮捕の事例が見られるようになる。したがって,覚右衛門の「目明」就任は,「穢多」を治安維持に動員する上で重要な意味を持っていたと考えることができる。

「おんぼう」次郎九郎は,「町方盗賊見廻り役」を務めている。「両山乞食」の支配を開始する延宝期以降は,「両山乞食」を伴って,取締り・追払(見廻役)を行うようになる。この見廻役は,城下の「葬式火葬」独占と不可分の関係にあり,「おんぼう」としての特徴である葬送権確保のための見廻役であったと考える。

「野乞食」追払を在方で担う「非人番」は,「穢多」と「非人」双方が行っている。ただし,「非人」による「非人番」の事例においても,「穢多」の「世話」によって「非人番」に就任しており,「非人番」は基本的に「穢多」によって組織化されていたものと考えられる。

この他にも賤民の活動として,死体処理や斃牛馬処理・勧進行為などがあげられる。これらのうちで,死体処理に関しては,正徳期の藩による確定以外,具体像をつかむことができていない。また,斃牛馬処理に関しても,「穢多」による讃岐への牛皮買集や死馬獲得の事例と「平人」による牛皮集荷や大坂「役人村」への牛皮輸送の事例が見られる程度であり,その具体像は解明できていない。


以下の史料は,享保16(1731)年,岡山藩の城下校外にいた両山乞食が,城下常盤町にいた隠亡頭の次郎九郎の手下であることを拒否したため追払処分となった経緯を町奉行がまとめたものである。

史料に見える岡山藩の「乞食」は,承応年間(17世紀中頃)前後からである。『市政提要』に収録されている享和3(1803)年の次郎九郎の「書上」によれば,次郎九郎の祖先は,御野郡銭屋敷にいた浪人であったが,正保年中のころ,常盤町に引っ越し,延宝年間(1673〜81)には,「町方盗賊見廻り役并両山之者共諸事差配」を命じられたとある。さらに,承応2(1653)年ごろ,両山の非人が「在方町方より山上り」を命じられたともある。

このことから,17世紀中頃,岡山藩が乞食統制を行ったと考えられる。支配(統制)形態としては,町奉行−町惣代−「隠亡」次郎九郎−両山乞食頭−両山乞食 であった。

両山とは,古(本)山(上道郡網浜村郷内之山)と新山(同村内之奥内谷辺)をいう。


元禄15(1702)年,万成(刑場)での「はりつけ」の死骸取り片付けについて,「隠亡」次郎九郎が「穢多」多左衛門と争論をしている。町奉行は,次郎九郎や両山の乞食頭らを呼び出し,「前々之通穢多共ニ以後は取なやミ仕候様ニ」と言い渡している。(『市政提要』)

正徳2(1712)年9月,岡山藩は,穢多は「罪人之作廻并死骸取捨又は番等仕候儀,共に一切刑罪被仰付候分」とし,隠亡は「行倒レ逆死人有之節,死骸片付并番,又は牢屋ニて無縁之者致病死節取捨一切」として,それぞれの役目を固定している。(『法例集』)

こののち,乞食のうちに逆死人(自殺,事故死など正常でない死人)の死骸片付け拒否をめぐって,「隠亡」次郎九郎の支配の不正を追及する闘争がおこっている。

両山乞食之内追払一件 自享保15年 至同18年

関清水大明神御祭礼例歳九月廿四日参社仕処御免紛無之候

一 従 御公儀被 仰出御法度堅相守可申事,
一 国法何事不寄急度相守可申事,
一 筋目分明成者共於所々新法取立且亦氏抔之儀申出シ穿鑿仕間敷事,

  右之条々堅相守可申者也,

              三 井 寺

近松寺別当

役 人 中

 享保15年戌十二月

宮本執次京都

 日 暮 八 大 夫

備前国上道郡岡山之内本山新山番人共江

一 両山乞食之内,六介・半兵衛・長太郎三人之者,此度京都本寺江罷登リ申候ニ付,いか様之用ニ而登候哉と相尋申候得者,旧冬京都本寺より取下り申候書付 御上江指上候ハヽ御おろし可被遊候間,其趣申登リ候様ニと被申付候,次郎九郎自分用ニ遣候儀得不仕候ニ付此段も申参候由申候,次郎九郎自分用ニ遣候儀

御公儀様より被仰付ニ而候ハヽ奉畏候旨申候,然共此段も京都本寺江窺申由申候,右長太郎と申者ハ此度京都江登リ申候ニ付,両山之乞食共エ之証人ニ召連申由申候,只今迄次郎九郎自分用ニ遣来リ申候儀ヲ,此度ニ至リつかわされ申間敷と申埒ハいか様シ之儀ニ而候哉と相尋候得ハ,只今迄用事承候得共此度本寺より申付ニ而御座候ニ付,自分用ハ聞不申旨申候,右六介・半兵衛両人之者共常々頭之申付も聞入不申者之出承申候,以上

 二月十二日        惣代 万右衛門

申渡条,今度其方手下者共之内,美州上道郡岡山之内本山新山ニ罷有者共,去冬其方江申付呼為登,本地表御執行御代替,依之前度彼等江被下置候書朱印取替遣之,弥古法之通不浄穢敷職堅仕間敷与申付返シ候所ニ,備前国ニ滅骸手掛ケ候次郎九郎手伝申付候由,本地表古法之掟ニテ彼等例年九月大神御祭礼節神役相勤来候得者,不浄職手伝抔堅ク仕者ニ而ハ無之,併備前国法ニ而是迄手伝仕来候得者今以難指止メ,然者本山新山両山之内より四・五人相極メ,此以後不浄手伝右四・五人之者共相勤申候様,備前国町会所御役人中迄其方より可申遣候,猶又,両山之小頭之者共江も右之段急度可申遣者也,

三井寺寺門

  近 松 寺

二月廿七日         役 人 中

京都祝教教頭

日 暮 八 大 夫 江

乍恐以飛脚奉申上候,然者従御本地様如斯之御書被為下,其御地江此通可申遣旨被為仰下候付差下シ申候,御披見可被為遊候,此者罷登候節御書御戻シ可被下候。以上,

                       御本地御取頭京祝教頭          三月八日     日 暮 八 大 夫

町 御 会 所

両山乞食共之内両人,去年十二月京都江罷登リ帰候上ニ而町惣代共迄申候ハ,本地表代替ニ付江州関明神別当三井寺門近松寺役人より掟書相渡シ取帰申候,京都ニ居申頭日暮八大夫申聞候ハ,明神祭礼之節毎歳罷登候筈之処其儀無之不届ニ候,向後毎歳祭礼之節罷登リ役儀可相勤候,神事役人相勤候得者,於御国穢敷物取扱又者穢敷者共与出合候儀堅仕間敷候,尤其趣掟書之内ニも有之旨申渡候由,

 右之通惣代共申聞候ニ付私申聞候ハ,穢敷物取扱候儀仕間敷由申段ハ,逆死人等有之節番等勤片付之取扱之儀与祭候,当春も右取扱等之儀仕間敷由彼是不埒成儀共申,大勢申合町会所江致推参候ニ付,村上勘左衛門屹申聞候得者,其節あやまり書仕候処奉行替リ故,此度又事を相工候而之儀与相聞候,近松寺よりの書付ニも其趣有之候与申候得共,左様成儀紙面ニ無之候,先規より成来リ候儀故御国法同事之儀に候処,今更何かと申段不届成儀に候,急度可申付旨申聞候処,御上より被仰付候儀ハ,只今迄之通何事ニ不依相勤可申候,次郎九郎申付候自分用之儀者得相勤申間敷由申候,

一 当春乞食共三人又々京都江罷登リ候,右之者共帰候以後当二月近松寺役人より日暮八大夫江申渡候紙面ニ八大夫致添状町会所宛にて差越候,

 右紙面ニ

両山之者共去冬呼為登本地表代替ニ付,古法之通不浄穢敷職仕間敷と申付返シ候処,備前国ニ滅骸手掛ケ候次郎九郎手伝申付候由,古法之掟ニ而彼等例年九月祭礼之節神役勤来候得ハ,右手伝仕者ニ而ハ無之,併国法ニ而是迄仕来リ候得者今以難指止メ候,然ハ両山之内より四・五人相極手伝此以後相勤候様ニ備前国町会所役人申迄可申遣候

右之通八大夫より町会所宛ニ而差越候段慮外之仕形,勿論八大夫江可及返答儀与不存,尤申越候趣御取上ケ難被成儀奉存候旨当三月十三日申上相伺候処,先規より仕来リ之儀ニ候得ハ御取上ケ難被成儀ニ有之候,勿論返書遣候埒ニ而無之候間,惣代共より此趣使之者江口上ニ申聞,使之者覚ニ右之通り書付遣し候様ニ仕,八大夫よりの書状も返し可然与被仰渡候ニ付,其通申聞返し申候,

一 右之通本地より申来候趣共相考申候処,両山乞食共之内より申出候儀と奉存候,乞食共不残左様申ニ而ハ無御座候,捨人計も公事ケ間敷者有之様子ニ相聞江,其内別而左之両人頭取与相聞申候間,此者共御追払ニ被仰付候ハ,跡々〆リ可申様ニ奉存候,夫共存候様ニ無御座候ハヽ残り七・八人之者共も追而御追払ニ被仰付候様ニ支度奉存候,

古山乞食 半 兵 衛

同 六  介

一 乞食共何廉と申候儀ハ次郎九郎ヲ頭ニ用候儀を嫌候而之儀ニ御座候,次郎九郎儀ハおんほう故筋目悪敷候付手下ニ付候ヲ嫌申由,近き頃ハ次郎九郎申付候儀共用不申町廻り等之勤方も不精ニ相見申候,

右之趣ニ御座候得ハ,京都より申越品ニハ御拘リ不被成,常々次郎九郎申付候儀をも用不申,我儘成様子ニ付,御追払ニ被仰付候趣可然哉と奉存候,

右者町奉行差出候書付也,

   口 上 之 覚

当所乞食頭次郎九郎手下両山乞食ども滅骸手伝申付候,三井寺本地表古法之掟ニ而神役勤来候得者右手伝仕者ニ而ハ無之,併国法ニ而是迄仕来候得ハ今以難差止候ハヽ,両山之内より一両人相極此以後手伝勤候様にと,近松寺役人中より之紙面逐一覧之候,当所町御奉行所役人中迄右之趣申達候所ニ,先規より仕来リ候之儀ニ有之候得ハ,御取上難被成と町御奉行仰之由役人中申聞候,右之壱通相返し候,以上

      岡山町惣代  万 介

三月十四日 万 右 衛 門

右之通八大夫飛脚之者江両人口上ニて申聞候,口上ニ而ハ間違も有之物故,其方覚ニ書付遣シ候間,罷帰此書付出候共又者出し申間敷共,其段ハ其方了簡次第之儀と申聞させ候,右同日飛脚之者罷帰候,尤次郎九郎并与頭惣兵衛・忠兵衛下頭両人も町会所江呼寄せ出合候,

右之八大夫飛脚,亥三月十一日之夜来リ翌十二日於町会所別紙両通町奉行拝見,翌十三日相伺万介・万右衛門江申付,飛脚之者へ右之段申聞させ候也,

享保十六年亥七月廿七日

一 左之乞食共兼而被仰付置候職分之死骸取扱之儀仕間敷由申,御国法背候ニ付,妻子共追払被仰付

半   兵   衛

六       介

六介       妻

同    娘  弐人

同年八月廿三日 〆五人

一 右之者共追払被仰付候後も次郎九郎申付ヲ不用我儘申ニ付,八月廿一日乞食共不残町会所江呼出し同心之者惣代両人ニ申付,此以後仕来リ之通次郎九郎申付ヲ用勤来リ之儀相勤可申哉と申聞候得共,用ち申事仕間敷由申ニ付,半兵衛・六介通ニ追払ニ被仰付候而も不苦哉と申聞候処,左之八人之者共ハ如何様ニ被仰付候而も次郎九郎申付ヲ用ひ候儀ハ不仕候由申候,残ル者共ハ先規より之通相勤可申由申候に付,書物仕せ山江返し申候,八人之者共ハ申付候儀得不仕と申切候ニ付,町奉行相伺追払ニ申付ル,

三 郎

長 右 衛 門

勘 介

太 郎 大 夫

惣 吉

平 九 郎

権 介

享保十八年丑十二月,三井寺寺門近松寺より寺社奉行広沢喜之介江来状

其後者以書中も不得御意,弥御堅固ニ御勤仕珍重奉存候,然者御国本岡山之内元山新山ニ罷有候者共,一両年此辺関清水大明神御神事御役儀相勤不申候ニ付様子承合候所,御国本ヲ御追放被仰付候由,其意味承候得ハ有両山之者共江次郎九郎滅骸之手伝申付候故,両山のものとも町代万介殿・同万右衛門殿迄御断申上候得者,中々御聞入も無御座候由,依之穢申ニ付御神事相勤申事難成,本地三井寺江訴申ニ付,本地役人より御国本町代万介殿・万右衛門殿迄去ル亥二月ニ以書中申入候へハ如此之返答ニ而御座候,則写掛御目申候,元来両山之者共筋目正敷ものともニ御座候間,以御了簡追放御免帰参被仰付候ハヽ何も大悦可仕候,右両山之者共儀御国本ニ而去ル四拾四年以前元禄三年歳ニ寺社御改被成候時分,両山之者共迄御改被成候ニ付,岡山之者共可相頼寺無御座,依之京日暮八大夫方へ罷登リ右之様子咄シ,則京都西寺町松原下ル善寺御国本江罷被下,寺社御役人中御対談之上正敷ものとも相極リ,夫より今ニ至テ毎歳善寺より宗門差下シ被申候,成程筋目正敷ものとも御座候,滅骸手掛ケ不被申様被仰付可被下候,右之段為可得御意如斯ニ御座候,恐惶謹言,

                       三井寺寺門

霜月十二日                近 松 寺

松平大炊頭様寺社御奉行

広沢喜之助殿

猶以前了簡之上御追放之者共帰参被仰付被下候ハヽ,何茂大悦可仕候,以上,

右之品寺社方裁許之筋ニ無之故,町奉行吉川藤七郎より左之通返書遣ス,

広沢喜之介方江被指越候去月十二日之御状相達候処,御紙面之趣寺社方役所裁許之筋ニ無之ニ付,拙者致被論及御報候,然者先年当国令追払候乞食共当国住居指免候様にとの儀御申越候得共,右之者共古来よりの国法相背,段々不届之仕形ニ付難取上儀ニ候,左様御心得可被成候,恐惶謹言,

吉 川 藤 七 郎

十二月

三井寺寺門

近 松 寺

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2010年09月03日

流人島から流犬島へ

「生類憐みの令」と郷土の関わりは津山藩だけではなかった。

現在の備前市日生町には,陸地部の他に沖合に,鹿久居島・鶴島・頭島・大多府島など日生諸島とよばれる島々が点在している。鹿久居島は,その名の通り野生の鹿や猪の棲息が多く,池田光政・綱政はしばしばこの島で狩猟を行っている。正保三(1646)年,付近の村より勢子を200人〜多いときは4000人も動員して大々的な鹿狩りを行い,数十頭の獲物を得たことが記録に残っている。その後,獲物の数が減少したこともあって,藩主の狩猟も少なくなり,明和七(1770)年の治政の狩猟を最後に禁猟区に指定されている。

鹿久居島が「流人島」とされたのは元禄十一(1698)年の綱政の時であり,宝永七(1710)年に廃止されるまで十二年間続けられた。

『吉備温故秘録』によると,長六間半・横二間半(1間=6尺=1.82mとして,長約11.8m 横4.5m)の茅葺きの御用場一軒,長十八間・横三間の茅葺き流人小屋二軒,長十間・横二間半の敷瓦の長小屋一軒,一間四方の茅葺きの遠見番所二軒,長一間半・横一間の堀立茅葦き御番人当分仮番所一軒などを建設している。監視体制については,約150石取程の武士二名が鹿久居島奉行としてその任に当たり,彼らは平素は陸地部の日生村の役宅で生活し,定期的に渡島して流人小屋を見回る程度で,直接の監視は島に常駐した彼らの足軽が行っていた。

流人たちの待遇は,罪の軽重や刑罰によって決められたのではなく,実際はその属する身分(階級)や男女の性別によって分けられたのである。その待遇は九段階にわかれており,たとえば「上の上」では,武士男の場合,1日あたり米七合五勺,鼻紙1ヶ月一束の支給があったが,「下の下」では,平民女・小供の場合,1日あたり塩三勺,麦二合五勺,下味噌二勺の支給であった。待遇が下がるにしたがって官給だけでは生活ができず,未開地を開拓して食糧の自給をはからなければならなかった。しかし,地味もやせた山地ばかりのため耕作も困難であったため,山の柴を刈り,それを本土から来る舟に売って生活物資の購入にあてていたようである。

罪人はそれぞれに刑期が決められており,その間に改心の情があらわれれば解放されて郷里に帰ることも許されるわけだが,罪人の中で反省もなく役人を困らせる者などは,奉行の命により島の南部にある首切島と呼ばれる小島で斬首された。

流人となった者には,江戸在中に遊里に通い登楼に耽り家法を犯した江戸詰侍,検地の際に賄賂を取った竿先奉行(検地奉行)の若党,博徒,博奕をした流僧や修験者,放蕩に耽った者,自殺した者の遺族(生活困窮のため)など様々である。


綱吉が死去して家宣が六代将軍となると世論にもおされて「生類憐みの令」は廃止された。しかし,今度は反対に,全国的に犬に対する弾圧が始まった。江戸市民の中にはこれまでのお返しとばかりに犬を蹴飛ばしたりしていじめる者もいた。岡山藩においても,増えすぎた野犬に対する「野犬狩り」が行われるようになり,正徳元(1711)年より弘化二(1845)年に至る134年間に,合計25回の厳重な野犬狩りの布告が町奉行より発令されている。平均して5年に1回は出されていることになる。

次に,『市政提要』より野犬狩りに関するものを抜き出しておく。

正徳元年卯七月二日

仰せ渡され候は,殿様御鷹御持ちなされ候に付,夜据(夜の鷹狩)などこれあり候。町方に犬おり申し候ては心もとなく候間,島へやり町方に戻り申さざるようにいたす可く候。御鷹に付き犬を島へつかわし候と取沙汰これなきように心得申す可く一度に数多くつかわし候はば目立ち申す可く候間,少しずつ船便次第につかわし申す可く候。

正徳三年六月九日

御家中(侍町)在町(町人町)共に放し犬多く,ままには無主の犬これあり,害をなし候ように聞き及び候,近在の穢多に申し付け放れ犬を捕らせ,取り候はば後は穢多次第に仕る様に申付候

享保十九年五月二十四日

此度犬捕え鹿久居島へ遣し候義,御家中にて穢多捕え候犬の分は御郡方(郡奉行)より船申し付候て遣し申す筈にて候間,町方にて捕え候犬の分は前の通り町方(町奉行)より船にて遣し候様にこれある可く候。尤も鹿久居島案内の小舟は御郡方より申し付く由に候。

これらは一部であるが,これを読むと,殿様が狩りに使う鷹を飼育していた出石町の鷹匠たちからが,野犬に鷹が傷つけられるのを恐れて願い出たことが主な原因であったことになっているが,病犬などが人に噛み付くことが多く,一般民衆も野犬に苦慮していたからであろう。捕まえた犬は日を定めて旭川河岸の花畠にある船積み場に集められ鹿久居島に送られた。

この史料から,野非人や帳外者などを追い払うのと同様に,野犬狩りを担っていたのも「穢多」身分であったことがわかる。

posted by 藤田孝志 at 17:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 岡山藩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「生類憐みの令」と作州津山藩

五代将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」(貞永四年:1687年)を出し,特に犬を愛護し,犬を傷つけたり殺したりした者を厳しく罰したため「犬公方」と渾名されたのは周知のことである。

生類憐みの令は,特定の成文法として存在するものではなく,複数のお触れを総称してこのように呼んでいる。また,「犬」が対象とされていたかのように思われているが,実際には犬だけではなく,猫や鳥,さらには魚類・貝類・虫類などの生き物にまで及んだ。ただ,綱吉が丙戌年生まれの為,特に犬が保護された。このため,江戸市中に野犬が蔓延り人々が大きな迷惑を受けたことから,幕府でも対応に苦慮し,大規模な犬屋敷を建てて野犬を収容することにした。

この工事の普請を命じられたのが,作州津山藩十八万六千五百石の森家である。この史実はあまり知られていないが,この手伝普請により津山藩は財政難に陥ってしまい,やがて取潰しとなってしまう。「生類憐みの令」が招いた悲劇は,郷土の歴史にも深い関わっていたのである。

津山藩が受け持った犬小屋は,児玉郡中野村(現東京都中野区)に,建坪五万坪及び六万坪の大屋敷,三千坪の中屋敷二ヵ所,一千坪,五百坪,三百坪の小屋敷多数で,延べ十二万二千六百坪に達した。

津山藩がこの工事で費やした経費は,人件費だけでも七万七千五百両,このほかに荷車二万七千四百両,荷馬九千九百両,これらは購入費であり,他に借上げ代も加わる。材料費も巨額であるが,さらに食費に道具代,雑費等々の出費も加わる。合計すれば,軽く数十万両はかかったと思われる。1石=1両がだいたいの相場ですから,米10s=5千円として,1石=米150s=7万5千円です。約10万円と考えれば,数百億の出費であったと考えられる。事実,この出費は津山藩の財政を大きく脅かすことになり,後の森家廃絶の遠因になったといわれている。


手伝普請

幕府が巨大な犬小屋を作ったように思われているが,事実はこのように「手伝普請(大名普請)」として,津山藩にその建造を命じたのである。

手伝普請は,江戸城下町建設のために,千石夫(役高1000石につき1人の人足)を徴発したことに始まる。その後,江戸城,彦根城,篠山城,丹波亀山城,駿府城,名古屋城,高田城などの築城が続き,大名が普請に動員された。

江戸時代初期の諸大名は,幕府の普請動員に応えるために,自らの領内の支配体制を整える必要があった。将軍が諸大名に対して強大な権力を誇示したように,藩内においては藩主自らを頂点とした体制を固めさせられることになったのである。家老・一族と藩主との権力闘争は軋轢を生み,多くの御家騒動を引き起こした。また,外様大名は手伝普請に動員されることを通じて,幕府の軍役体系に組み込まれていった。

江戸時代中期になると,河川の普請が多く行われるようになった。宝永の大和川改修工事,寛保の関東水損地域の河川・堤防改修工事,薩摩藩による宝暦期の木曾川・長良川・揖斐川の治水工事(宝暦治水事件)などが有名である。築城・治水の他に手伝普請の対象となったのは,日光山の諸社,徳川家の菩提寺である寛永寺・増上寺,将軍および家族の霊廟,禁裏・御所などの造営・修復である。江戸時代の初期には,各藩が費用を負担し,実際に藩が取り仕切って普請が行われていた。しかし,時代が下るにしたがって,落札した町人などが現場の責任を負う請負形式が多くなり,さらには金納化も進行した。そして,安永四年(1775)以降は完全に金納化が通常の形となった。基本的には,各藩は費用を負担するだけとなり,幕府が直接担当役人を派遣して指揮監督するようになった。

手伝普請による各藩の負担は過重であり,藩の財政を逼迫させる要因の一つとなった。ただし,他の課役・重職を担っている藩には,手伝普請を軽減あるいは免除する処置がとられた。中後期の例では,尾張藩・紀州藩・水戸藩・加賀藩,老中などの要職在任中の藩,溜間詰の大名,長崎警固を担う佐賀藩・福岡藩は免除されていた。

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2010年08月23日

「柿渋染」覚書ノート

中国では,4〜5世紀頃から存在したと推測されている。

韓国では,1382年『済州島略史』によれば,明の太祖に征服された雲南の梁王が済州島に移送された時に柿渋染が伝えられた。韓国では柿渋衣=カツオッと呼ばれ,夏期の衣服として広く利用されている。

平安時代

身分の低い侍の衣服や山伏が利用し,『柿衣』があったと考えられている。

鎌倉時代

『平家物語』には『柿の衣』があり,『源平盛衰記』には『カキノキモノ』がある。

江戸時代

『日葡辞書』には「Xibu(渋)」「Xibuzome(渋染)」が記されている。
『擁州府志』では,柿渋について詳細に記されている。
『萬寶鄙事記』(貝原益軒)『渋染の法』が記されている。柿渋染を職業とした「柿渋屋」が存在していた。

柿渋染は千年以上も前から染められていた。 生地を強くし,水をはじく特徴から昔より多くの日常生活の道具や民間薬として利用されてきた。

山伏の法衣には,白・黒の他に柿渋で染められた柿衣があり,柿衣は宗教的に山中の瘴気をさける力があるとされていた。

柿渋染は,本来,山伏のように自分達と異なる世界に生きる人々の着る衣の色であった。しかし,中世で百姓一揆の時には柿衣が定着したり,武士では柿色を禁止し,差別の色とした時代もあった。

滋賀県の草木染めの文献には,柿渋で染めた赤や赤茶色の『醸造染め』がある。甲賀地方では,『クレ(暮れ)染め』があり,野良着は,柿渋で下地染めしたものをクレ(鉄分を有する水)に浸けることで色がはげにくく, 強靭なものとなると伝えられている。

京都では,昔は禅宗の僧侶の麻製の黒衣は柿渋で染められていた。

長野県では『渋よっこぎ』と呼ばれる山袴があった。木綿の白生地を柿渋で何度も染め,水はけがよく,濡れても水の切れがよく,激しく山野を駆け巡り渓流で魚を追う生活に好適であったと伝えられている。

柿渋染は,防水効果・防腐効果・耐久力強化・アルコールへの耐性・除タンパクといった特性をもっているので,古くから,自給自足的な庶民生活の中で,布・木・竹・紙・型紙・漁網・釣り糸・ロープ・家具・建築材・舟・桶・雨具・格子・ うちわ・酒袋・漆器の下地に使われてきた。民間薬として,やけど,しもやけ,血圧降下剤, 二日酔い予防や毒蛇,蜂,ムカデ等のタンパク毒の中和剤として利用されてもきた。


文献資料やネット検索から拾い集めている一部だが,「柿渋染」の衣類や「柿渋染の色」を<差別の象徴(徴)>と一概に断定することはできないと思う。このことは「渋染一揆」の史実に出会って以来,ずっと疑問に感じてきたことで,私は「柿渋染」や「色」による<差別>を意図したものではないと考えている。

<差別>の定義にも関わるが,当時の穢多身分の人々が反対した理由は「平人との分け隔て」である。

『御触書』の中で「藍染渋染」の衣類について殊更に説明がないということは,庶民の衣類として存在していたからかもしれない。囚人だけに限定された衣類とも「色」とも解釈できないように思う。

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2010年06月08日

渋染一揆の歴史的背景

古書店にて『岡山県史研究』(第5号)を入手した。これは,岡山県史編纂室が発行した非売品で,『岡山県史』の基礎的な研究成果を発表する機関誌である。

本書に収録されている論文,北村章氏の「幕末岡山藩の政治過程について−藩論と藩庁首脳部の変遷を中心に−」を興味深く読んだ。

「渋染一揆」は幕末に起こった岡山藩の安政改革に対する被差別民衆による歎願要求の一揆である。当時の岡山藩の政治的・経済的状況を岡山藩個別の状況と全国史的状況との関連から考察する必要がある。従来は経済的状況から要因を考える面が強かったが,幕末の政治情勢,特にペリー来航によって引き起こされた各藩の動乱,攘夷の動きなどを考察する必要があると以前より考えていた。本論文は,この点を解明するのに示唆的な内容である。幕末の岡山藩の動向を整理してみたいと思う。

posted by 藤田孝志 at 20:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 渋染一揆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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